手が掛かります
「ふああっ……」
口を大きく開けて息を吸い込み、両腕を上げ真っ直ぐ伸びをする。
身体が沈むほど柔らかなマットレスからゆっくり起き上がり、目を擦りながらくあっと欠伸をし、寝惚け眼で横を向くと。
「……っひ!?」
そこにはルームランプの僅かな光に照らされたイシュラ王の姿が。
薄暗い室内の中、ベッド横の一人掛け用のソファーに座り、書類片手に私をジッと見ていた。
無言、無表情だと精巧に作られた人形みたいで、まるでホラー映画である。
「おは、ようございます?」
微動だにしないイシュラ王に一応朝の挨拶をしてみると、目を瞬きコクリと頷かれた。
ここで何をしているのだろうと寝惚け眼でイシュラ王を見ると、手には数枚の書類、サイドテーブルの上にも数十枚はある書類の束が、そして膝の上には三冊ほど本が置かれている。
「やっと起きたか」
やっと?と首を傾げ、もしやまた寝坊したのかと「もうお昼ですか?」と訊けば、首を横に振られた。
「まだ日が昇ったばかりだな」
「……」
寝坊どころか早起きしたことに気付き、再び毛布の中にいそいそと潜り込む。
寝た時間が遅かったのでまだ眠い。
「起きたんじゃないのか?」
「まだ早朝なのでもう少し寝ます」
「どれくらいだ?」
「……」
「もう少しというのはどれくらいだ?」
二度言わなくても聞こえている。
毛布から顔を出し、この人は何がしたいのだろうかと胡乱な目を向けた。
「私に何か用でもあるんですか?」
「……」
「あ、もしかしてベッドを使いますか?それなら退きますけど」
「必要ない」
「それなら他に何か?」
「……」
「何もないなら」
「食事をするのだろう?」
「……へ?」
食事?と反芻し、「明日は一緒に食事をしよう」とイシュラ王が言っていたことを思い出す。
昨夜確かにそう言っていたけれど、現在の時刻はまだ早朝。
どこの誰がこんな時間に食事をするのだと呆れるも、本人は至って本気らしい。
「ご飯は食べますけど、まだ時間は早いと思いますよ?」
「朝食なのだから、これくらいの時間だろう?」
間違いなく早過ぎると毛布に潜り、はっと気付く。もしかしたらイシュラ王は私と朝食を摂る為に今ここにいるのではないかと。
服装は普段を知らないから分からないけれど、寝起きという感じではない。だから多分寝ていなくて、もしずっと起きて仕事をしていたのだとしたら、昨夜からここにいたことになる。
「起きたのなら、食事だ」
「あっ、毛布が」
毛布を剥ぎ取られ抗議する為に睨むも、手に持っていた書類を膝の上に置き、目頭を指で揉んだあと首を回すイシュラ王を見て、仕方がないと起き上がる。
すると寝室の扉がノックされ、リタさんが顔を出した。
「あら?リスティア様はもう起きて……陛下、起こしたのですか?」
「違う、起きてきたんだ」
「ですから書類仕事は隣室でと申しましたでしょう?横でジッと観察されては眠れません」
「ずっと観察していたわけではない。仕事をして」
「普段ならその程度の枚数は直ぐに処理なさっていますよね?次を取りにこないということは、仕事が進んでいないということですよ。まったく、秘書官が残りの書類をどうすればよいのか分からず困っていましたよ」
「急ぎではないだけだ」
「いいえ、急ぎであろうがなかろうが、仕事を探してまでするのが陛下です」
それは仕事中毒だと、リタさんに叱らればつの悪そうな顔をするイシュラ王を笑っていると、スッと目を細めたイシュラ王が片手で私の頬を挟んでぐにゅっと掴んだ。
「あにしゅるんでうか……」
「何を言っているのか分からないな」
「はなしぇ」
意地悪く笑うイシュラ王の腕を叩くも動じることなく、私の頬を「パンのようだな」と言う。
乙女の頬をパンに例えるとは何事かと憤っていると、洋服部屋から服を取ってきたリタさんが気付き助けてくれた。
「陛下。子供ではないのですから、もう少し考えて行動なされてください」
「……」
「リスティア様が可愛いからといってそのようなことをすれば、いつか嫌われますよ?」
「……」
「まったく、少しはクラウディスタ卿を見習ってください」
「どうしてリオルガの名が出てきた?」
「彼はとても優秀な保護者だからですよ」
「保護者は俺だ」
「陛下は保護者どころか赤の他人のようなものです」
「……他人」
「はい、もう隣室に移動なさってください。リスティア様は身支度を」
「はーい」
渋々隣室に移動するイシュラ王を横目に、リタさんはテキパキと私の身支度を進めていく。
温かいタオルで顔を拭かれ、よい匂いのする化粧水とクリームを塗られる。髪は軽く濡らし櫛で優しくとかしながら寝ぐせを直す。
「よかったですね」
「え……?」
「陛下は昨夜からずっとこの部屋にいらっしゃいましたよ」
「ずっと?」
「はい。執務室から書類を運ばせ、ずっとこの部屋に。リスティア様の横に椅子を置き、離れないのですから」
私が昨夜あんなことを言ったからだろうか?
だから側にいてくれたのかと思うと、嬉しいような、怖いような、よく分からない複雑な気持ちに戸惑ってしまう。
「お父さんというのは皆、あのように側にいるものなんですか?」
「陛下は少し極端ですが、そうですね。父親は娘には甘いものですから」
あれが父親というものなのかと理解し頷けば、リタさんに「リスティア様は真面目ですね」と笑われてしまった。
「では今日はこちらのドレスにしましょうか」
着替えのついでにとサイズを測ったあとリタさんが広げて見せてくれたのは、丈が長めのオーガンジーの薄水色のドレス。
リボンやレースで可愛らしくデザインされたもので、スカートの下にはボリュームを出すのと形を整える為にパニエを履く。
私の髪と目の色は色彩が濃いので、ドレスは淡い色、宝飾品は小ぶりで繊細な物がよいらしく、サイズとそれらを書き込んだ紙をリタさんは隣室に持って行ってしまう。
「髪は私が担当いたしますね」
だからリタさんの代わりに私の身支度の続きをしてくれるのは、ジーナさんとなった。
「あの紙はどこに?」
「あれはデザイナーの元に届けさせ、遅くても来週辺りにはドレスが届くかと」
「ドレスはありますよね?」
洋服部屋にはまだ沢山ドレスが眠っている。
毎日違う物を着たとして、とてもじゃないが一月では足りない。
「少し大きかったり小さかったりするものばかりですから」
「特に支障はないのに」
「靴は支障があると思いますよ」
今履いている靴は少し大きい物なので、爪先に綿を詰め履いている。
「髪は上の方を編み込み、下は軽く巻きますね」
「このままでは駄目なんですか?」
「今日はクラウディスタ家のご子息達とお茶会があると聞いているのですが」
「あっ……」
ドレスや靴、髪に宝飾品と、今日はやけにおめかしするのだなぁ……と思っていたら。
「そうでした」
リオルガと彼の弟と午後からお茶会の予定だったと思い出す。
昨日の夜までは覚えていたのに、イシュラ王の所為でその予定はすっかり抜け落ちていた。
「リボンは何色にいたしましょうか?ドレスに合わせるのなら水色か白、または瞳の色に合わせるのもよろしいかと」
「お任せします」
編み込みのハーフアップの髪はとても可愛らしく、今日はドレスも合わせて全体的に何だか可愛らしい印象である。
宝飾品だけは無くしたり傷を付けたりしたら怖いので、お茶会前に付けてもらうことにして、ようやく身支度を終えた。
「これを毎朝する王族や貴族の方達は大変ですね……」
「これを日に数回する方もいらっしゃいますよ。ドレスや靴を選ぶのは楽しいからと」
「毎日同じでもいいくらいです」
「まあ、ジュリア様も同じようなことを仰っていました」
リタさんの娘であるジーナさんも母を知っているらしく、専属ではなかったがよく話し相手を務めていたのだとか。
「母は汚れていなければ毎日同じ服でもいいと言っていたんですが、畑仕事が大好きだったので、汚れて毎日何度も着替えることになっていました」
「ここではよく花壇をいじられていましたが」
「花壇も大好きです。でも多分、一番は食べられる野菜を育てることだと……」
ジーナさんと母の話をしながら隣室に移動すると、二人用のダイニングテーブルの椅子に座っているイシュラ王と目が合った。
「ふっ……んっ」
猫脚の可愛らしいテーブルと椅子が似合わず笑いそうになるが、また頬を挟まれてはたまらないと咳払いをして誤魔化す。
朝食は既に用意されているらしく、小走りで駆け寄り「お待たせしました」と席についた。
「わっ、美味しそう」
今朝は、スクランブルエッグとベーコン、温野菜、ふわふわの白パン、フルーツの盛り合わせと、これぞ朝食というラインナップ。
では早速とフォークを取ろうとして、イシュラ王の前には水とフルーツしかないことに気付いた。
「それしか食べないんですか?」
「これでも多いくらいだが?」
「……普段は何を食べているんですか?」
「朝食と昼食は食べないが、夕食は……」
そこで言葉を切って考えているということは、何も食べていない可能性が高い。
すかさずローガットさんに視線を投げると、「お酒をお召し上がりになります」と教えてくれた。
「ローガット……」
「仕事の片手間にサンドイッチなどをお召し上がりになることもありますね」
「だそうだ」
夕食はお酒、食事は片手間で食べることもあると密告されたのに、それを食べていると思っているところがおかしい。
「お酒はご飯ではありません」
「サンドイッチも食べているだろうが」
「他は?」
「……水か?」
どうしていちいちローガットさんに訊くのだと半眼し、「それでは身体を壊しますよ」と言えば、暫く黙ったあと「味がしない」と返ってきた。
「味がしない?」
「だから何を食べても同じだ」
そう口にしたイシュラ王の姿が、修道院にいた頃の自身と重なった。
何を見ても何を聞いても全てが空虚で、食べ物の味はせず、心と共に身体も死んでいく。
ああ、この人はあのときの私なのだと、そう思った。
「はい」
半分に千切った白パンの上にベーコンをのせ、イシュラ王に差し出す。
案の定中々受け取らないので、仕方なく椅子の上で膝立ちになり、イシュラ王の口に押し付けた。
「……」
「味がしなくても食べてください。もし倒れでもしたら、母に叱られますよ」
母を出したのが効果覿面だったのか、渋々といった様子で私の手からパンを食べた。
これからイシュラ王が食事を摂らなかったら母の名前を出してもらおうと決め、もう半分の白パンを掴むと、前から圧が……。
「自分で食べてください」
口を開けてまたれても、これは私のパンなので譲らない。
欲しければローガットさんに頼めばいいと白パンを頬張ると、イシュラ王は小さく溜息を吐きフルーツを口にする。
「ジュリアは、どのような母だった?」
「とても明るく、強い人でした。元々貴族だと聞いて驚いたくらい、強くてたくましくて、優しい人でした」
「そうか」
感情のない人形のような人が、母の話になるとふわっと花が綻ぶように笑い、人間味が増すのだから面白い。
「そのフルーツを全部食べたら、もっと母の話をしてあげますよ?」
食べかけのフルーツ皿を指差せば、イシュラ王は険しい顔をしてフルーツをどんどん口に入れていく。
さて、何から話そうかと、手の掛かる父親に肩を竦めた。
朝食を終え、リタさんの淹れてくれる紅茶を飲む間もなくイシュラ王は時間切れとなった。
今日は午前中に会議があるらしく、そろそろ準備をしなくては間に合わないらしい。
「ところで、何故着飾っている?」
お見送りしてあげようと扉まで一緒に移動し、ローガットさんに昼食も食べさせるよう言い含めていたら突然そんなことを訊かれた。
「午後からリオルガ達とお茶会をするからです」
「達……?リオルガの他にも誰かいるのか?」
「リオルガの弟さんが王宮に来るらしいので、一緒にお茶を飲むことに」
「クラウディスタ家の子息達か……」
吐き捨てるようにそう口にしたイシュラ王に驚き、ローガットさんを見上げる。
「クラウディスタ家って王の矛ですよね?」
「はい」
「仲が悪いんですか?」
「いえ、仲はとてもよろしいかと」
それならどうして毎回リオルガには当たりが強いのだろうと首を傾げれば、イシュラ王は何を企んだのか不敵な笑みを浮かべた。
「そう言えば、会議のあと謁見が入っていたな」
「子息に何かすれば、伯爵が黙っていませんよ」
「知るか」
リタさんが注意するもイシュラ王本人はどこ吹く風で、顎に手を当て何やら考えている。
「母が使っていたガゼボでお茶会をするのですが、聞いていませんでしたか?」
「聞いていたが、リオルガだけだと思っていただけだ」
「弟さんはお断りしますか?それかガゼボじゃない場所で」
「構わない。好きにしろ」
私の頭にそっと手をのせたイシュラ王は、「いいか」と急に声を低くした。
何かあるのだろうかと真剣に耳をすませると。
「婚約はまだ早い」
そんな馬鹿げたことを口にした。
この人は何を言っているのだと呆れて声も出ない私に何を思ったのか、再度「絶対に駄目だからな」と念を押す。
「ローガットさん。会議に遅れると困るのでさっさと連れて行ってください」
「おい」
「陛下。名残惜しいのでしょうが、お時間ですので」
「……」
「ほら、はや……っ、わあ!?」
頭から手を退かそうとすると、くしゃくしゃと思いっきり頭を撫でられ声を上げた。
力が強すぎて首がもげるところだったと抗議するように睨むと、鼻で笑い去って行った。
「今のは何だったんだろう……ジーナさん?」
首が痛いと振り返ると、ジーナさんが声にならない悲鳴を上げ崩れ落ちた。
「折角編んだ髪がっ!絶対に態とですよね、今の!はっ、だったらもっと可愛らしくして子息達を虜にしてやりますから!」
「ジーナさん?」
「こんなにぐしゃぐしゃにされたら髪が傷むというのに。さあ、こちらへ。私の全てをかけてもっと可愛らしくしてみせますからね」
「リタさん……!」
助けを求めるようにリタさんを窺うと、苦笑するリタさんに首を緩く横に振られてしまった。




