中央本線に乗れ(7)
「ごちそう様でした」
「えっ、もう食べ終わったんですか? ってか、一体どんだけ食べたんですか」
ここは中央本線を走る列車の中。向かい合わせの席の窓側に座っている少女は東条理沙──アカシアの端末としての能力者だ。
彼女の正面で幾つもの弁当を胃に取り込んだ巨漢は、鬼村──警察官のエリート『皇宮護衛官』である。彼は、偶然を装い、理沙と虫取り屋に近づき、その動向を探っていたのだ。
「現金なもんだな……」
列車のたてる<ガタンゴトン>という騒音でかき消されそうな、低くか細い呟きであったが、それは、二人の耳にははっきりと聞こえた。
「虫取り屋さんも、呑気過ぎます。ただでさえ鬼という怪物に追われているのに、国家権力まで敵に回したら、後が無いじゃないですか」
少女は、隣に腰掛けている貧相な男を見やった。その発した声と同様に、着古してボロボロになった黒いコートの内側は、これもクタクタのシャツとジャケットであった。首から上はと見上げると、今にも潰れてしまいそうな鍔広の帽子。その奥の無表情な顔の中で、死んで腐った魚のような淀んだ瞳は、どこに焦点を結んでいるのだろう?
「どうかしたか……」
相変わらず覇気の感じられない様子のこの男が、いざとなればあらゆる難敵を滅ぼし去る無敵の戦士だとは、誰にも思いつくことは出来ないだろう。
普段通りの虫取り屋を見て、理沙も、これ以上に何かを言っても無駄だと悟った。「はぁ」と溜め息めいたものを吐くと、椅子に座り直した。
「さぁて、お弁当も食べ終わったことだし、お茶にしましょう」
「なんですってっ」
あれだけの量の弁当を平らげた直後なのに、彼の胃には未だお茶を収める空間が残っているのか?
「何って、お茶ですよ。ほら」
そう言って、目の前の背広の大男が取り上げたのは、まさしく『おいしいお茶』のロゴが大きく書かれたPETボトルだった。しかも、600mLのお徳用だった。
「梨沙ちゃんもどうですか」
極細の筆で描かれたような細い目で少女を見つめると、左手に持ったお茶のボトルを、彼は差し出してきた。ご丁寧に、ちゃんとキャップも開けてある。
「結構です。わたし達は、自分用の飲み物をちゃんと持っていますから」
そう言って、理沙は、傍らのレジ袋の中をゴソゴソと探ると、同じようなPETボトルを取り出した。こちらにも、製造販売元のロゴがデカデカとプリントされていた。
彼女は、それをこれ見よがしに鬼村の目の前に持ち上げた後、おもむろにボトルのキャップを捻った。
そのまま開いた口を顔に近づけると、<ゴクゴク>と緑色の液体を喉に流し込んだのである。
「あー、美味しい。お茶はやっぱり、このブランドが一番ね」
と、嫌味ったらしい言葉も忘れない。
しかし、こんな事程度では、鬼村には何のダメージもない。
「そうですか。よろしければ、自分にも味あわせて下さい。……そうだ、いっそのこと交換して、飲み比べて見ませんか」
成りはデカイが、『良い人』をそのまま現実の人間にしたような彼のにこやかな顔を見ると、「ああ、この人は何にも考えないで喋ってるんだ」と、理沙は感じてしまった。
しかし、
「結構です。鬼村さんと間接キスをするような趣味は持ち合わせていません」
と、少女はにべもなく断った。
「ええー、それはないですよ。自分、そんなやましい事なんて考えてませんから」
弁解をする皇宮護衛官を無視して、理沙は隣の虫取り屋に尋ねた。
「虫取り屋さんも、お茶どうですか?」
何かしらのリアクションがあるとは、夢にも思ってはいなかった。しかし、彼は反応した。
だがしかし、それは理沙の問いに対する直接の答えではなかった。
「降りるぞ……」
「え? もうですか。さっき、乗り込んだばかりなのに」
不満に感じた理沙を無視するように、深く被っている帽子の向こうから、言葉は漏れ出てきた。
「乗り換えだ。塩尻から名古屋方面へ向かう……」
たったそれだけ答えただけで、虫取り屋は突然立ち上がった。一瞬、<ガタン>と列車が大きく揺れたものの、立っている黒いコートの姿は、微塵も揺らぎはしなかった。
「乗り換えですね。次の駅では、どんな弁当を売っているのか楽しみです」
そう言うなり、少女の目の前の鬼村も、すっくと立ち上がった。
「よく入りますね。酔って吐きそうになっても、知りませんからね」
続けて彼女も立ち上がると、自分の荷物を背負い直した。飲み物を入れてある半透明のレジ袋も忘れない。
「あん、待って下さい。そんなに急がないでも、列車は未だ止まっていませんよ」
少女の存在を無視したように、虫取り屋達はスタスタと列車中央付近のドアまで移動していた。
理沙は、置いてけ堀にされたことや、彼等の傍若無人な振舞いに、少々憤ったものの、そんな無駄な考えは止そうと思った。
(虫取り屋さんも鬼村さんも、不通の人じゃないもの。この人達に、不通の大人の立ち居振る舞いを望んでも、無意味だわ)
そうこうするうちに、塩尻駅に到着したらしい。
案の定、鬼村は、列車を降りるなり一目散に駅のキオスクに向かっていた。ブースの中のオバちゃんを見つけて声をかけると、なにやら楽しそうに話をしている。
一方の虫取り屋と言えば、駅の自動販売機の前に、ぼぉと突っ立っていた。その姿は、如何にも貧相で隙だらけに見える。「今襲われたら、真っ先に命を落とすのは彼ではないのか?」との疑問を抱いても不思議ではないだろう。何を見ているのかいないのか、その腐った魚のような淀んだ瞳は、前方──目前の自販機の方を向いていた。
その様子を見かねた理沙は、早足で彼の傍まで近づいた。そして、何の気無しに声をかける。
「どうしたんですか? 虫取り屋さん」
彼女の問いかけに、帽子の男はこちらを見向きもしなかった。ただ、
「ここに並んでいるのは、全部お茶なのか? 色々な種類があるものだな……」
と、らしからぬ言葉を呟いたのだ。
「へ? ええーっと、そうですね。並べてある物の全部が全部お茶ではありませんけれど。ほら、この下の段にはコーヒーが並んでいるんですよ。虫取り屋さん、温かいものを買っておきます?」
理沙は、この人間の形をしただけに思える虫取り屋が、少しずつではあるが、人間の真似事のような反応をしだしたことに気がついていた。そして、それは「良いことではないか」、と感じていた。
「他の段にも、ほら、ジュースとか炭酸飲料とか。元気の出るドリンク剤もあるんですよ」
先のように思っていた少女は、こんな場面では、ついつい饒舌になってしまう。
「ミネラルウォーターだって有るんです。どれにしますか? わたし、小銭が余っているので、買ってあげますから。好きなものを選んで下さい」
その言葉の意味を理解できたのか、微動だにしない黒いコートから、再び呟きが聞こえた。
「では……、この『濃いお茶』というのを頼む……」
冬の木枯らしで吹き飛ばされそうなか細い声だったが、理沙にははっきりと聞き取ることが出来た。
「『濃いお茶』ですね。まずは、このスリットに値段の分のお金を入れます。……それから、商品のランプが光ったら、ボタンを押すんです。分かります? 押してみて下さい、虫取り屋さん」
にこやかに話しかける少女に何を感じたのだろうか。コートのポケットに突っ込まれていた左手が抜き出されると、自動販売機のボタンに指が伸びていった。
──ガコン
物が落下する音がすると、販売機の下部の透明扉の向こうにPETボトルの影が見えた。虫取り屋は、少しだけ屈むと、取り出し口からお茶のボトルを掴み取った。そして、彼は、それをしげしげと眺めている。
「それが、虫取り屋さんの好きなお茶ですか?」
理沙が見つめるラベルのロゴは、『濃いお茶』。さっきのリクエスト通りである。
「お茶にも種類があるのだな……」
彼は、再びそう呟くと、お茶を握ったままコートに左手を突っ込んだ。
「へ? 飲まないんですか」
少女が問を発したが、答えは得られなかった。
相変わらず反応の薄い虫取り屋は、少女に「ふぅ」という溜め息を吐かせた。
「乗り換えの時間は未だですけど、もう行って並んじゃいましょうよ。もしかしたら、鬼村さんを、置き去りに出来るかも知れませんし」
残念ついでに、厄介事も始末できれば御の字だ。無慈悲な彼女の発言に、何も言わない黒コートの男は、くるりと身体の向きを変えた。そして、そのまま歩き出そうとしたところに、
「もうっ、二人共、また自分を置いてけ堀にしようとしましたね。今度はしっかりと着いて行きますからね」
と、野太い声が呼び止めた。
「バレました?」
恐る恐る振り向いてみると、両手にレジ袋を下げ、キッチリと背広を着込んだ大男の姿があった。
「そのくらい分かります。自分、皇宮護衛官ですから」
(ああ……、確かそうだったわね。鍛えてるせいかしら。変なところで勘が働くんだから)
理沙が胸中でそんな事を考えている間に、鬼村もさっさと移動をしていた。
「あん、待ってくださいよ。虫取り屋さんも鬼村さんも、わたしの護衛なんですよね。置いて行かないで下さい!」
これでは、鬼村と立場があべこべだ。彼女も、思わずホームを駆け出していた。
そんな三人を見つめる無数の目があった。
──それに気づいたモノは二つ
──無視したのは一つ
──荒ぶる御霊で見返したのが一つ
そして……
──無意識に払い除けたモノが一つ
それだけで視線の主達は、何処かへ消えてしまった。
目的の地までは、未だ遠い。道中で理沙達を待つのは如何なるモノか。




