中央本線に乗れ(5)
「ほら、切符だ。改札を通るぞ……」
列車や人波の騒音に溶けて消えてしまいそうな、か細い小さな言葉が、少女の耳に届いた。声の発信源をチラリと見上げると、彼女は右手を差し出した。そんな呟きのような小さな声など、聞こえない振りをして無視してしまえばよかったのに……。
──瞬間移動は使えない、それほどの膨大な情報の書き換えは、アカシック・レコードを不安定化させる、何なら自分で計算してみるといい
先程の虫取り屋の言葉は、理沙のコンプレックスを深く抉っていた。
そもそも、量子論と情報科学、そして高度な統計処理が必要な計算である。如何に端末の能力を持っているとはいえ、未だ十代の少女に、そんな事をさせること自体が無茶なのだ。その計算には、大学院や研究所レベルでの国際共同研究の場で、更に何台ものスーパーコンピュータをフル稼働させて、やっと計算可能かどうかなのだ。当然、中学生程度の科学知識しかない理沙──どころか、さっきまで一緒にいた鬼村でも、不可能なのだ。
虫取り屋に言われたからといって、元より彼女が卑下する必要などなかった。殆どの人には出来ないのだから。しかし、理沙には、そのことすら分らなかったのだ。
理沙の手に、そっと男の手が乗せられ、離れた時に残っていたのはオレンジ色の切符だった。
それを認めて、
「……電車に、乗るのかぁ」
と呟いた理沙は、それをポケットにしまおうとした。
なるべく自然な動作で、
それでいて、彼のことを見ないように。
しかし、視界に入ってしまった。その顔が、その眼が。
──まるで腐った魚のように、何モノをも無視し、何処にも焦点を結ばない瞳
虫取り屋の顔を最初に見た時の嫌悪感が蘇り、少女の心に纏わり付いてきた。頭ではなく、魂が嫌がっている。
だが、傍らにボウと立つ男は、容赦がなかった。
「……もうすぐだ。列車に乗るぞ」
それだけを独り言のように発すると、声の主が彼女から遠ざかる気配が認められた。
(行かなくちゃ……)
それだけを考えて──いや、それ以上は考えられなかった。少女は、操り人形のように、フラフラと黒いコートの後に続いて自動改札をくぐった。手に持った切符が呑み込まれ、<ピッ>という電子音と共に、前方に吐き出される。夢遊病者のような動作だったが、切符はいつの間にか、彼女の手に戻っていた。そのまま、今にも薄闇に溶けて消えそうな人形をした影に着いてゆく。
<プシュー>
圧搾空気の漏れる音で我に返った時には、目の前に列車の出入り口がポッカリと開いていた。
いつ、どうやって、ここまでやってきたのか、理沙には覚えがなかった。
「……乗るぞ」
そんな虫取り屋の声も、夢現の中の出来事のようで、実感がない。
(乗らなくちゃ……)
それだけが、頭の隅に浮かんだ。再び<プシュー>という音がして、彼女の背後で自動ドアがスライドして閉じる。
<ガタン>
列車から振動が伝わった時には、理沙は既に座席に座っていた。
(え? ここは……)
再び意識が顔をもたげた時には、二人がけの席の窓側に座っていた。廊下側には何者かが居るような気配が感じられた。だが、それが人間のそれであるとは、到底考えられなかった。普通の人からは感じ取れる『息遣い』や『体温』、『何かしらの匂い』、それ以外の生きている人間らしい様々な情報が、全て欠落しているように、理沙には感じられたからだ。
極端な事を言っていいなら、特定の体積と質量を持っただけの物体──無機質とも言えないような質量体──そのように彼女の五感には捉えられていた。
(きっと虫取り屋さんだわ。こんなになっても、わたしと一緒にいてくれるんだ……。でも、もう、どうでもいい感じ)
彼女の胸中は、諦めに似た何かで埋められようとしかけていた。
しかし、ちょうどそんな時、理沙に声をかける者があった。
「ああっ、理沙ちゃんだ! やっとこさ見つけた。もう、酷いですよ。どうして、自分をおいてけ堀にしたんですか」
非難がましいその声の主は、
「え! き、鬼村さん。どうしてっ」
驚く少女に、ピッタリとした背広を着込み、カッチリとネクタイを締めた男は、こう答えた。
「どうしてもこうしてもありません。本当に探したんですからね」
JRの大谷駅で別れて、てっきり東京へ帰ったと思っていたというのに。皇宮護衛官の鬼村は、相変わらずの細目を精一杯に見開きながら、抗議を続けていた。
「列車に乗り遅れていたら、どうするつもりだったのですか。先に行っちゃうなんて、本当に酷いです」
そう言う鬼村は、ちゃっかりと理沙達の前の席に回り込むと、背もたれに伸し掛かるようにして、こちらを見つめていた。目蓋の奥の瞳は確認できなかったが。
「き、鬼村さんは、上りの列車で東京に帰ったんじゃなかったんですか。どうして、反対方向の列車になんかに乗ってるんです。お、おかしいじゃありませんか!」
思いもよらぬ人物の出現で、理沙の気持ちは一気に通常モードに戻っていた。
「……どうして分かった」
ともすれば、列車が<ガタンゴトン>と走る音に掻き消されてしまいそうな、小さな呟きのような質問だった。
「えっとぉ、虫取り屋さん、それはですね……」
理由を訊かれて、何かマズイことでもあったのだろうか。鬼村は、急に口籠ってしまった。
「……どうせ、職権を乱用して、構内の監視カメラの映像を見たんだろう」
虫取り屋は、鬼村が一番やってしまいそうな事、そして恐らくは実行しただろう事を言い当てていた。
「えっとぉ、何のことでしょうかぁ」
やはり図星だったらしい。彼は、明後日の方向を向くと、そんな風に嘘ぶいた。
「か、監視カメラって。いくら警察の人だからって、プライバシーの侵害です!」
理沙も、彼のやっていたことに気が付いて、非難をし始めた。
「いったい、いつまで、わたし達に纏わり付くつもりなんです。ものには限度ってものがあります。いい加減にして下さい」
昨日も見ることの出来た、馴染みの光景が戻ってきた。理沙の機嫌も、元に戻ったようだった。
しかし……、
「……そろそろ、白状したらどうだ」
冴えない帽子の男が発したのは、そんな状況に一石を投じるものだった。
「あ、あれぇ。何をデスカ」
トボケてはいるものの、彼の細い眼は、虫取り屋を見ようとはしていない。更に、理沙からも眼を遠ざけている。
「え? 未だこれ以上に、わたしに何か隠していることがあるんですか。……もうっ、わたしが何にも知らないからといって、からかったり、おふざけをするのは、もう勘弁して下さい。本当に迷惑です」
とうとう、少女もきっぱりと言い切ってしまった。
「……オマエ、牛丼屋で『領収書』をもらっただろう。どうしてだ」
虫取り屋は、尚も質問した。その言葉の中に、少女は、重要な何かが隠されているような気がした。
(領収書? 何のことだろう。えーっと、領収書があると、どんなことが出来るんだっけ)
中学生の途中で時間が停まってしまった彼女には、当然ながら会社勤めの経験がない。領収書が何の役に立つのか、にわかには分らなかった。
そこで、理沙は、牛丼屋での鬼村の行動を思い返してみた。
牛丼を食べ終わった後、鬼村は会計をした。
その時に、領収書の発行を店員に頼んだ。
それから……、確か、名刺を見せていたはずだ。何のため?
──宛名は『皇宮警察本部』で
その言葉と漢字を説明するためだった。
(あれ? よく考えると変だわ。お昼ご飯の代金の領収書よね。その宛先が、皇宮警察。つまりは、勤め先ということだわ。でも、どうして? 提出でもする必要があるのかしら……)
「あっ!」
そこまで頭を捻ると、理沙にも、事のカラクリが見えてきた。
「き、鬼村さん。も、もしかして、……今、お仕事中ですか」
もっと適切な言葉があったかも知れない。だが、理沙の口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「…………」
彼女の言葉に、眼前の皇宮護衛官は、困ったような困惑したような、不思議な表情をしていた。もしかしたら、その糸のような細い目が原因だったのかも知れない。理沙には、虫取り屋程に、彼の事を充分には理解できていなかったのだ。だが、虫取り屋が問い正したかったことと、何を白状させたいかは、なんとはなく分かった。
「そう……なんですね」
「…………」
念を押す問にも、彼は答えることが出来なかった。それはそのまま、疑念の正しさを証明することになる。
「鬼村さん。今まで、私用で来てるって言ってたじゃないですか……。でも、違っていたんですね」
「…………」
「何もかも、最初から仕組まれていたんですね。そうなんですね」
「…………」
誰か別の者が喋っているような、そんな声に聞こえた。自分じゃない、誰かが。
鬼村が、私事ではなく公務として、行動してきたとしたら……。これまでの行動にも、辻褄が合う。
どうして、縁もゆかりもない理沙達に近づいたのか。
どうして、鬼の出現にも動じなかったのか。
どうして、鬼に関した出自を持っているのか。
どうして、鬼道などという特別な技を習得していたのか。
どうして、理沙の周りで起こる出来事にも豊富な知識があったのか。
最初から、理沙達を──いや、ずっと前から理沙のことを監視していたのだろう。
彼女の能力が鬼達に渡らないように。
いざという時に、素早く対処できるように。
それでいて、巻き込まれた人々を助けることもなく。
もしかしたら、理沙を亡き者にすることも、厭わないかも知れない。
そんな、裏事情があった上で、鬼村が派遣された。
きっかけは、一昨日の大事故に違いない。
あれだけ大勢の人々が死傷したのだ。理沙達の周囲で。そして、彼女自身は、かすり傷程度で済んでいる。
きっと本来は、鬼による大規模襲撃事件だったのだろう。『現在の結果』が事故になっているのは、虫取り屋が『事象を書き換えた』からなのだ。その所為で、誰もが、事故だと認識している。誰も、鬼の引き起こしたことだなんて思わない。
だが、鬼村のバックに控えている組織──皇宮警察本部は違った。
その時、少女に何が起こり、虫取り屋が何をしたのか。
理沙が何者で、虫取り屋が何を目的に付き添っているのか。
そして、端末という存在が、虫取り屋という存在が、何であるのかを。
彼等は、全てを承知していたのだ。
それを知って、理沙は、ここ数日の事件が一本の糸で繋がっていることを、改めて認識していた。




