中央本線に乗れ(2)
小さな小さな祠に向かって、一人の男が頭を垂れていた。
黒い古びたコートを羽織った胸には、鍔広の帽子が置かれている。
彼──虫取り屋は、これから、当初の目的地であったJR線の駅に向かおうというこの時に、少し時間をくれと言った。
それから、どのくらいの時が流れたのだろうか?
虫取り屋は、その腐った魚のような目を閉じて、じっと押し黙ったままそうしていた。
その様子を、東条理沙は、不思議そうに見つめていた。
(確か……、『左山神』って、虫取り屋さんは言っていたわ。それって、虫取り屋さんにとって、大事な何かなのね)
傍らに佇む少女は、そんな風に思っていた。
そう、彼女は『祠の主』のことを、『何か』と無意識に感じ取っていた。祀られているのであれば、当然、山の神であるとか土地神であるとかだろう。千年も二千年以上にも渡って信仰の対象として奉られてきた『神』を、彼女はそう捉えた。
それは、理沙自身が、究極の神工知性体──アカシアの眷属であるからこその発想だったのかも知れない。
しばらくして、フッと目を開け、その手に持った帽子をいつものように頭に乗せようとした虫取り屋に、理沙は思わず声をかけていた。今さっきは、『訊いてはいけない事だ』と唇を噛んだばかりだと云うのに。
「お知り合いなんですね」
年頃の少女らしい、柔らかく優しい声だったからだろう。彼は反応した。たった一瞬だったが……。
虫取り屋のその瞳は、はっきりと理沙の事を見つめたのだ。
──底知れぬ泉のような澄んだ瞳をしていた
彼女は、たとえ虫取り屋の事を忘れたとしても、その瞳は忘れることはないだろう。
そして、もう一人。皇宮護衛官である鬼村も。
「さぁて、行くべ。そろそろ列車の時間だ」
そのか細く囁くような声が理沙の耳に届いた時には、虫取り屋は、いつもの腐った魚のようなどんよりと淀んだ眼差しを、行き先へと向けていた。果たして、何かを見ているのかいないのか。
それに置いて行かれまいとして、鬼村は思わず声をかけていた。
「待って下さいよぉ、虫取り屋さん。そんなに急がなくったって、電車は何本もありますから。それよりさぁ、理沙ちゃん」
きっちりと背広を着込み、かっちりとネクタイを締めた巨体から声をかけられて、少女は<ピクッ>として振り返った。
「な、何でしょう……」
下駄をそのまま大きくしたような四角い顔には、極細の筆で描いた糸のような眉と目があった。
「理沙ちゃんさぁ、お腹空かない? 電車に乗る前にさぁ、どっかでご飯食べようよ」
鬼村の提案に、
「今更、何なんですか、鬼村さん。朝ご飯だって、あんなに沢山食べてたのに。今、何時だと思ってるんですか」
と、叱責するように少女が応じた。
「え? 何時って……、お昼前だけれど」
何を当たり前の事を、とでも言うように、鬼村は左手の腕時計を理沙に見せた。時刻合わせ用の電波受信機能付きである彼の自慢の腕時計の針は、二本ともほぼ上を指していた。
太陽電池内蔵、かつ防水・防塵機能付きの時計は、エネルギー切れも知らず、常に正確な時を刻むと云う。
「う、むぅぅ」
現在時刻を確認した理沙は、黙るしか無かった。
それでなくても、二人の男達は、巌しい山道を理沙を鬼から守って踏破してのけたのだ。体力を消耗していない方がおかしい。常識的には、だが……。
とは言え、虫取り屋の方は相変わらずヌボォーっとしたままで、大して反応はしていなかった。いつ襲来するか分からない鬼達の気配を探っているのか? それとも、この土地の産土神と、声によらない会話でもしているのだろうか?
それでも、どんな答えが返って来るかを予想出来ていたとしても、少女は訊かない訳にはいかなかった。
「どうします、虫取り屋さん。ご飯、食べて行きますか?」
そう尋ねられて、黒いコートを羽織った帽子の男は、ピタリと歩みを止めた。
「あ、あのう……。お、お昼です。お昼ご飯。お腹、空いてませんか?」
重ねて理沙は訊いた。その脇では、鬼村が興味津々と云った様子で「答えは未だか、答えは未だか」と待ちわびていた。
「…………」
案の定、虫取り屋は停止したままだった。いや、もしかしたら、例のか細く囁くような声で、何かを呟いたのかも知れない。だが、それは理沙にも鬼村にも聞き取れなかった……のだろう。
「ねぇ、虫取り屋さん。お昼ですよぉ、お昼ご飯。う〜む、今日は何にしようかっ、なっと。ねぇ、虫取り屋さんも、お腹空きましたよね♡」
鬼村は、とうとう我慢しきれなくなって、自ら虫取り屋に声をかけた。だが、最後の♡は要らない。
そんな脳天気な皇宮護衛官を見上げて、理沙は、
「鬼村さんったら。今は我慢しましょうよ。先に切符を確保して、列車に乗る方が大事です。お昼ご飯なら、駅弁でいいじゃないですか。それに、わたし達、国家公務員の鬼村さんと違って、贅沢にご飯を食べていられる立場じゃないんです」
気不味い思いを感じて、少女は細い目の偉丈夫を諭そうとしていた。こちらには、こちらの事情があるのだ。
「いいっすよ、自分の奢りで。だって、自分の方から誘ったんだから。それならいいでしょう。自分の腹は痛まない。その代わり腹は膨れる。至れり尽くせり、ってぇやつじゃないですか」
言葉の使い方がどこか間違っているような気はしたが、「食事代をもってくれる」と云う提案の意味は大きい。そこまで言われては、断る理由がないからだ。
(どうしよう……。虫取り屋さん、上手く断ってくれないかしら)
これ以上鬼村に頼ってしまう事が嫌で、理沙は困っていた。
「虫取り屋さん、近くに牛丼屋さんがあるらしいですよ。牛丼屋ですよ。ほら、あっち」
その大きな手と比べると不釣り合いなくらいに小さなスマートフォンを持った鬼村が、明後日の方向を指差していた。
「ここを真っ直ぐ行って、天竜川を渡るんです。えーっとぉ、それからしばらく北に上ってから東に……。そこに在るのが、ななな、なぁーんと、全国チェーンの牛丼屋。早い、美味い、安い。ねっ、『牛丼』って聞くだけで、お腹空いてきますよね。ねっ」
細い目を限りなく細くした大男は、先頭に立つ帽子の男に、そんなことを話しかけていた。
(う〜ん……。牛丼屋さんかぁ。それなら安いだろうし。奢ってもらっても、負担にならないかなぁ)
理沙の心の中では、『牛丼』の二文字が大きく輝き始めていた。
「牛丼ですか。ふぅーむ。……で、駅はどっちなんですか? ここから近いんですよね」
取り敢えずは現状確認だ。理沙は、第一目的地であるJR駅の位置を特定したかった。彼女も、諏訪は初めてだったからだ。お腹が空いていたとしても、襲われた時に正しい方向に逃げないといけない。
「え? 駅ですかぁ。えーっとぉ、……JRのぉーっと、岡谷駅は、っと。……あっちですね」
その指差す方向を見て、少女は声を荒げた。
「反対方向じゃないですか! お食事するところは、駅の近くで探しましょうよ。それじゃ、ダメですか?」
理沙の逆提案に、スポンサーは首を横に振った。
「嫌です! 自分、今は肉が食べたい気分なんです」
「むぅぅぅ」
奢ってもらう側の理沙は、鬼村にそう言われると、口を膨らませた。
(くっそぉう。この人達にとっては、百メートルも百キロも、大して変わらないんだったわ。でも、わたしは……、少なくとも肉体的には、わたしも普通の人間と変わらないんだから。虫取り屋さんや鬼村さんみたいに、狂ったように頑強じゃないのよ。もうぅ)
凶悪な邪鬼をも上回る化物と同じに考えられては、迷惑だ。
「もうっ、理沙ちゃんたら、ツンデレ。今日は自分が奢りますから、牛丼にしましょうよ。ねっ」
(なにが『ねっ』よ。虫取り屋さんも虫取り屋さんだわ。何か一言でも、ガツンと言ってやればいいのに)
言葉に出せない理沙の憤懣は、目の前で立ち止まっている貧相な男に向けられようとしていた。
「……か」
その時、黒いコートの背中から、何か聞こえたような気がした。
「え? 虫取り屋さん、何ですか?」
いよいよ、あの虫取り屋が反撃に出る。今まで言いたいように言われていただけに、彼女の期待は高まった。
「……その、……『牛丼』ってのは……」
だが、呟くようなか細い声は、彼女の気持ちを裏切っていた。
「美味いの……か?」
約三十分後、三人は店内のテーブル席に座っていた。
虫取り屋の一言に、鬼村が五十倍くらいの言葉を浴びせて、
{牛丼} = {美味い}
という方程式を作ってしまったからだ。
すぐ近くにある花丘公園も、その先の諏訪湖の景観を臨むこともなく、稲倉魂命の祀られている『正一位寿命稲荷大明神』にお参りすることもなく、鬼村の先導で、さっさと天龍橋を越えてしまったのだ。
そして、交差点を左へ曲がればすぐにJR岡谷駅というところを、国道を逆方向へずいずい進んで、この牛丼屋を目指したのである。
「理沙ちゃん、おしぼり、要る?」
百キロどころか、数千キロを走り抜けても、息一つ乱さないように思える虫取り屋や鬼村に遅れないようにと、理沙は早足で頑張って着いて来た。冬とはいえ、店に入った時には、額に汗の珠が浮かんでいた。
「お、お願い、します……」
「んじゃぁ、これねぇ」
彼女は、鬼村から手渡された紙ナプキンの袋を破くと、額を拭っていた。未だ少し、息が荒い。
「さぁーって、何を食べようか、なっと」
如何にも楽しそうに、鬼村はメニューを独り占めして眺めていた。
心身が共に疲れ切った理沙は、
「わ、わたしは、並でいいです。鬼村さんは、どうぞお好きなだけ、お食べ下さい」
と、生気のない声で、自分の希望を伝えた。
「じゃぁ、……オレもそれで」
珍しく、虫取り屋が自分からメニューを口にした。本来、食事になど全く興味の無かった彼も、理沙と関わって関心が芽生え始めたのだろうか? そんな思いにさせる一言だったが、生憎と現実はそう簡単ではない。そう言い終わった途端、虫取り屋は、椅子に腰掛けたまま反応をしなくなった。
一方、理沙の希望を聞いたスポンサーサイドは、
「ええー、理沙ちゃん。それだけでいいの? お腹空くよぉ」
と、返って心配してくれる始末だ。
「ああ、……えっと、ご心配はいりません。わたし達、普通の人とは違うので」
言葉はすんなりと出た。しかし、
「え? あれ? な、なんで……、わたしったら……。あっと、き、気にしないで下さい、ね」
理沙は、自分が口にした言葉に驚いて、目を伏せた。
(普通の人じゃない。そうよ、わたしは、アカシアの端末。虫取り屋さんと同じ存在。鬼なんかよりも、もっと質が悪い……)
自分自身が『人外であること』を無意識下で肯定してしまっていたことに気付いて、彼女はショックを受けていた。
──本当は自分なんか居なければ良かったのではないか……
そんな思いを抱いている少女を気にもとめずに、鬼村はメニューをひとしきり見終えると、片手を上げた。
「そっすか。まっ、いっか。えーっと、オーダーお願いしまーす」
店内に、大きな声が響き渡る。
「はーい。今すぐに」
アルバイトらしきスタッフが、テーブル席に近づいて来た。
「ご注文を承ります」
鬼村はメニューを指差しながら、
「牛丼の並を二つね。それから、メガ盛り。豚汁を三人分。あっと、玉子もつけてね」
と、勝手に注文をしてしまった。
「はい、牛丼の並二つ、メガ盛り一つ。豚汁と玉子はセットに出来ま……」
と、店員が言いかけたところに、
「じゃ、セットで。それから、サラダと冷奴と、んーと、豚生姜焼きもつけてね」
と、鬼村は更に追加をした。
店員は、一旦は面食らったものの、
「は、はい。ご注文を繰り返します。牛丼の豚汁と玉子のセット、並が二つ、メガ盛りが一つ。サラダと冷奴と豚生姜焼きが一つずつ、ですね」
「はい、それでお願いしまーす」
「承りました。しばらくお待ち下さい」
三人にしては品数が異常だったが、テンプレ通りのやり取りが行われ、店員は奥に引っ込んで行った。
注文をし終わってニコニコしている鬼村に、理沙はおずおずと声をかけた。
「あ、あのう。わたし、豚汁とか玉子とか、お願いしていないのに……」
「えっ、そうだっけ? まぁ、注文しちゃったから。食べきれなければ、自分が貰っちゃいますので」
と、神妙になっている少女の事など、全く気にも止めていないような素振りだった。それどころか、
「はーやっくっ、こないっかなぁ」
と、如何にも牛丼を待ちわびている様子は、カッチリとした背広でも隠すことはできなかった。
(呆れた。こんな人が皇宮護衛官で、この国、大丈夫なのかしら)
鬼村の態度に、いつの間にか理沙は、さっき口走った一言のことを忘れてしまっていた。それが、彼なりの心遣いであったことに気がつくのは、もっと後になってのことだった。




