山越え(3)
<ピチャン、……ポトン……>
薄闇に水滴が滴る音が響いていた。
(何だろう。……わたし、どうしちゃったんだろう……)
<ポトン、ポトン、……ピチャン、……>
(何? 何の音だろう? ……ここは何処? わたし、……わたしは……)
理沙は、朦朧とした意識の中、どんよりと流れる時の中を彷徨っていた。
(温かい……)
いつしか理沙は、何か優しい人に抱き止められている感覚に浸っていた。
(誰だろう……、温かい、誰かの肌のような温かさ。……何だかいつまでも、こうしていたいなぁ)
白い霧の中を彷徨うような感覚の中、理沙の意識は、徐々にではあるが現実へ帰って来ようとしていた。
(何だか、心が広がっていくみたい。霧……? の中なの? 真っ白で……、真っ白で温かい)
理沙は、自分が夢の中に居るのか、現実の世界に生きているのか、まだ曖昧な状態であった。目を開けているのかどうかさえ、よく分からなかった。しかし、霧とも靄ともつかない白い世界の向こうに、暗闇の背景があるような気がした。そして、そこには、無数の光点が灯っている。
(綺麗……。まるで、満天の星空を眺めているみたい……)
実際、それは灯火の絶えた山中から見上げる、冬の星空であった。
理沙は今、『此泉坐天御魂神社』に付属している、『清めの湯』に浸かっていた。温かい温泉の成分が、肌を通して体内へ浸透していく。それは、彼女の身体を温め、疲労と心労とを解していた。
「理沙ちゃーん、出来ましたよぉ。キムタク特性、新鮮な山菜仕込みの猪鍋だよお。美味しいよぉー」
簡素な台所の方から、鬼村の明るい声が聞こえて来た。
ついさっき、神社の近くで仕留めたイノシシと山菜を土鍋で煮込んだ鍋だ。猟銃も、その他の狩猟用具も持ってはいなかったが、そんな事は皇宮護衛官には関係ない。
素手で捉えたイノシシは、古式に則り、手刀の一振りで首を落とし即死させ、丁重に聖別した。
神社の祭神方の分は、もう供えてきてあった。
「ほいほいー、場所空けて。ほら、虫取り屋さんも。ボォーッとしないで、テーブル出して下さいよ」
ホクホク顔でそう言う鬼村は、大ぶりの土鍋を『素手』で掴んでいた。熱くは無いのだろうか……。
「ほらほら、虫取り屋さん。聞こえませんでしたか。まぁ、聞こえていなくても、普通なら、空気を読んでお膳とか座布団とかを出すもんですがね」
まるで姑のような嫌味を言われては、畳の上で微動だにせず胡座をかいていた虫取り屋も、立ち上がらざるを得なかった。ようやく効き始めた暖房の中だと云うのに、古びたボロボロの黒いコートと鍔広の帽子を身に着けたままだ。
虫取り屋は、鬼村の嫌味に一言も返事をしなかったが、立ち上がるとすぐに鍋を抱えている彼の方をチラリと一瞥した。
「もう、だから、テーブル。そこにあるでしょう。それ、持って来て下さいよ。折角の鍋が冷めちゃうじゃないですか」
虫取り屋は、鬼村のそんな言葉に対しても何のリアクションも示さずに、無言のままフイと部屋の隅へと向かった。
「ううー。本当に無愛想なんだから」
鬼村が文句を垂れている間に、虫取り屋は壁に立てかけられていたお膳を左手で掴むと、それを軽々と持ち上げた。
一体、重心はどうなっているのだろう。傍目にも、バランスやモーメントを無視して持ち上げられたお膳の姿は奇妙に見えた。しかし、ここにはそんな些細な事を気にする者は一人としていない。
彼は無表情のまま、部屋の中央まで戻ると、お膳を畳の上に置いた。そして、どこで見つけたのだろう、折畳まれた古新聞をお膳の上に放り投げたのだ。鍋敷きのつもりなのだろう。
そんな虫取り屋の行動を気にもせず、鬼村は支度の出来たお膳の脇に屈むと、手に持っていた鍋を中央の古新聞の上に置いた。
「ふっふっふ。これで準備は万端。後は、美味しく頂くだけです。虫取り屋さんは、猪肉は大丈夫ですか? 嫌いな野菜とかあります?」
鍋を置いた鬼村は、上機嫌で炊事場に戻ると、取り皿やお箸を取り出していた。
「好き嫌いとかはダメですよ。自分みたいな立派な大人になれませんからね」
炊事場から戻って来た鬼村は、まるで小さな子供を諭すようにそう言いながら、お箸と器を並べていた。
虫取り屋は、その様子を座敷の隅に突っ立ったまま、ボゥと見下ろしていた。まるで、何の興味も無い、とでも云うように。その瞳は、相変わらず腐った魚のようで、出来たての熱い鍋を見つめているのか、それ以外の何かを見ているのか、判断しかねた。もしかしたら、神域に住まう異形の何かを見ているのかも知れない。
そんな帽子の男など眼中に無い素振りで、鬼村は鼻歌交じりで夕食の準備をしていた。
「これは自分の分。これが虫取り屋さんの。そして、この可愛らしいのが理沙ちゃんの分。……え? あれ、理沙ちゃんは?」
この時初めて、鬼村は理沙が居ない事に気付いた。ついさっき迄、ここで横になっていた筈なのに……。
「虫取り屋さん、理沙ちゃんはどうしました? もう目を覚ましたんですね。どこに行ったのかな。……おトイレとか」
不審げに辺りを見渡す男に、沈黙を続ける帽子の男は、何の反応も見せなかった。
「もう、虫取り屋さん。不親切だなぁ。理沙ちゃんがどっか行ったんなら、一言教えておいて下さいよ。一人にしておいて、襲われたら危ないでしょう」
少し非難するような鬼村に、虫取り屋は初めてボソリと口を開いた。
「ここは、呪力結界の中なんだろう。なら、敵に襲われる心配をする事はなかろう」
尤もである。至極尤もな回答であった。しかし、それだけでは、鬼村の気が収まらない。
「いや、そうなんだけど。そんなのよそよそしいじゃないですか。これから一緒に旅をするというのに」
いったいいつの間に、三人で旅をすることになったのだろう? 鬼村は、愚痴のような事を喋っていた。しかし、いつもと違って、虫取り屋はこれに反応を示した。
「一緒に? いつオレ達が、オマエと一緒に行くなんて決まったんだ」
日本の要である天皇家を、あらゆる驚異から守護する事を任務とする皇宮護衛官と、この世にしばしば現れる怪異を、誰にも知られること無く消去する虫取り屋。
本来なら相容れる事の無い二人であった。今、この場で、二人の戦いが始まったとしても、なんの不思議も無い。
だが、そんな時、『キャー』という黄色い悲鳴が聞こえた。
「むっ……」
「理沙ちゃん!」
二人共、一瞬で理沙のものと気が付くと、声が聞こえた方へ疾駆した。誰も居なくなった部屋の中には、風の唸りだけが残った。
「ここかっ」
二人が飛び込んだのは、露天風呂の脱衣所だった。
脱いだ衣服を置いておく棚が、両の壁際に並んでいる。部屋の中央をそのまま見通すと、出入り口の真向かいに、浴場へのガラス戸が設えてある。
引き戸は開きかけになっていた。そして、その隙間から覗いているのは、一糸まとわぬ少女の裸身であった。
「きゃ、いやー! み、見ないで下さいっ」
夜半の神社に、再び悲鳴が響き渡った。
「う、うわー。理沙ちゃん、どうしたんですかぁ」
裸の理沙に驚いた鬼村は、糸のような目を力一杯閉じると、後ろを向いた。
「な、な、な、何でもありません。何でもありませんから、あっちへ行って下さい」
彼女は、慌てて磨硝子の向こうに隠れると、男達に出て行くように言った。
しかし、虫取り屋は、そんな理沙の様子を歯牙にもかけず、平然としていた。
「うむ。その様子なら、元気になったようだな。やはり、この神社の温泉の湯は、高い効能を持っているようだ」
何の感慨も含んでいない独り言のような呟きは、理沙にも鬼村にもはっきりと聞こえたが、それは同時にある感情を誘発させた。
「何を平然としてるんですかっ。虫取り屋さんも、あっち向いて下さい!」
「そうですよ、虫取り屋さん。うら若き乙女に失礼ですよ」
そう言う二人に対しても、彼は表情一つ変える事は無かった。
「嬢ちゃん、湯はどうだった。温まったか?」
平然とそう訊く男は、温泉からの湯気の渦巻く中だというのに、帽子もコートも着たままだった。
「そんな事、今訊かなくても良いでしょう。お願いですから、出て行って下さい。兎に角、あっち向いて下さい!」
理沙はガラス戸の向こうに隠れたものの、湯気で濡れた磨硝子は、半ば透き通って少女の裸体を朧に映していた。
「おい、嬢ちゃん。上がったんなら、何か着た方が良いぞ。湯冷めをしたら、何にもならんだろう」
彼女の『お願い』にも怯むこと無く、虫取り屋は淡々と呟くように喋っていた。
「そんな事くらい分かってます。分かってますから、あっち行って下さい」
尚も理沙は虫取り屋を拒んだが、彼はそんな事もどこ吹く風に、飄々と脱衣所の真ん中に立ったままだった。まるで、眼前の美少女の裸体にもまるで興味が無いと云う風情で、虚ろな目を宙に向けていた。
「虫取り屋さん、自分達は、あっちへ行きましょうよ。その間に理沙ちゃんは、服を着て。ホントに湯冷めしたら、風邪引いちゃうから」
彼等二人を比較した時、さすがに鬼村の方は、普段社会で生活しているだけあって常識的な反応をしていた。彼は、磨硝子に映る理沙の裸身を見ないようにしながら、虫取り屋を脱衣所から引っ張り出そうとしていた。
「この人は、すぐに連れて行くからね。兎に角、理沙ちゃんは身体を拭いて、服を着といて。ほら、行きますよ、虫取り屋さん」
このまま脱衣所でボウッとするのにも飽きたのか、鬼村に袖を引かれて、虫取り屋も出入り口の方へのろのろと向かい始めた。
やっとこさ二人が出て行こうとした時、露天風呂の方から理沙の声がした。
「あ、あ、あのう……。す、すいません。ちょっと、お願いしてもいいでしょうか……」
彼女は、開きかけのガラス戸から半分だけ顔を覗かせていた。その顔には、羞恥と共に、何か困り事があるような表情が混じっていた。
「どうしたんです、理沙ちゃん?」
出入り口の鬼村は、少女の方を見ないように応えた。
「あ、あのう、……その、ですね……。た、タオルを……、お願いできるで……しょうか」
今にも消え入りそうな声の主は、真っ赤な顔をしていた。
「え? ああ、タオルですね。それは気が付きませんでした。すぐに持って来ますね」
そう言って出て行こうとする鬼村に、理沙はもう一言だけ付け加えた。
「えっと、あっと、……で、ですね。……で、出来れば、何か着るものを……。し、し、し、下着とかも……」
年頃の少女が成人男性にそんな事を頼むのは、勇気がいる事だろう。
「えっと……、脱衣所にも、どこにも、着るものが無くって。……あ、ごめんなさい。やっぱり、いいです。自分で何とかします。……今のは忘れて下さいっ」
彼女の声は、最後の方は悲鳴に似ていた。
男二人に、着替えとか下着とかを用意してもらうのは、十代の少女には恥ずかしいに違いない。理沙はそう言うなり、再びガラス戸の向こうに隠れて仕舞った。
「……あっと、えーっと。着るもの……ですね。ええーっと、自分が何とかします。ちょっと……待って。待ってて下さいね」
鬼村も顔を赤くしながら、そう返事をした。しかし、脱衣所を出ようとしたところで、彼は大事な事に気が付いた。
「えっとぉ、着るものが無いって……。理沙ちゃん、着ていたものはどうしたの?」
そう。さっきまで、理沙は意識を失っていた筈である。どうやって、ここまでやって来て、温泉に浸かったのだろう。そして、脱いだ衣服などはどうなったのだろう?
鬼村がそんな疑問をいだき始めた事に気が付いたのか、露天風呂の方から、今にも消え入りそうな理沙の声が聞こえて来た。
「……えっとぉ、……そのぉ、……き、気が付いたら、お、お湯に浸かってて。着ていた服の方は、よ、よく分からなくって……。だ、脱衣所も探したんですよ。探したんですけど、……タオルも何にも無くって……。あ、ごめんなさい。わたし、どうして、こうなったか……、全然分からなくって……」
理沙にも、いつ自分が温泉に入ったのか分からないらしい。
(理沙ちゃんは、気が付いたら温泉に浸かってたって……。自分は、ずっと猪鍋を作っていて……。じゃ、じゃあ、虫取り屋さんは、何をやってたんだ)
鬼村の脳内を、一瞬にして神経パルスが駆け巡った。
「虫取り屋さん、あなたが理沙ちゃんを温泉に入れたんですね。そうでしょう」
消去法によると、それしか考えられなかった。
「そうだが。それが、どうかしたのか」
あっさりと肯定した虫取り屋だが、それが何を意味するのか、見当もつかないようだった。
「やっぱり。あなたが、理沙ちゃんの服を脱がしたんですね」
鬼村は両手で黒いコートの胸元を掴んだ。どうしてか、涙目になっている。
「む、虫取り屋さんが、……わ、わたしを……」
そう呟く理沙が、耳まで真っ赤になっているのは、温泉で湯中りした所為だけではあるまい。
「虫取り屋さん、理沙ちゃんを裸にしたのはあなたなんですね」
「そうだが。全部脱がさないと、温泉に入れないだろう」
「そ、それは、そうですが……。いや、それよりも虫取り屋さん、見たんですか」
「何をだ」
興奮気味の鬼村の質問に、虫取り屋は淡々と応えていた。
「とぼけないで下さい。理沙ちゃんの裸、見たんでしょう」
少し逆上仕掛けている鬼村は、帽子の男をブンブンと揺すっていた。
「ああ、見たぞ。それが、どうした」
無表情な虫取り屋は、そんな事も平然と口にした。
「見たんですね、見たんですね。ひょっとして、全部見たんですか」
相変わらず、鬼村の口調は激しかった。
「ああ、見たぞ。隅々まで全部。怪我とかしていないか、確認しなくてはならないからな。で、それがどうした」
それを聞いた鬼村は、古びた黒のコートから手を離すと、その場で呆然としていた。そして、喉から絞り出すように、こう言ったのだ。
「自分だって、見たかったんですよー! 虫取り屋さん、自分だけで見るなんてずるいですよー。何で、誘ってくれなかったんですかー」
そう言った鬼村は、本当に涙ぐんでいた。彼は、如何にも残念だと云う感じでその場にへたり込むと、両手の拳を床に打ち付ける。
しかし、そんな鬼村も、いつまでも嘆き悲しんでいる訳にはいかなかった。
「あ、あ、あ、……。あなた達は何をしてるんですか! いいから、早く出てけー!」
理沙の罵声と共に、風呂桶やら石鹸やらシャンプーのボトルなどが飛んで来たからだ。
「あっ、わっ、わっ、分かりました。行きます、行きますからー」
理沙の物理攻撃に、鬼村は立ち上がると、虫取り屋の腕を掴んで廊下へと引っ張って行った。
後には、真っ赤な顔をして激しく肩を上下させる少女が、一糸まとわぬ姿で立っていた。
「嬢ちゃーん。風邪引くぞー。もう一回、ちゃんと湯に浸かっとくんだぞー」
廊下の向こうから、虫取り屋の抑揚のない声が聞こえて来た。
「そ、そ、そんな事、言われなくても分かってますっ。……うっ、うー、もうイヤ!」
そう言った理沙は、洗い場の床にペタンと座り込むと、泣きべそをかいていた。




