鬼々怪々(4)
理沙と虫取り屋は、田舎にしてはやや広い国道を歩いていた。
虫取り屋は理沙の前に立って、よろよろと覚束ない足取りで歩いていた。
これが異次元の怪異──鬼をも倒し、その痕跡を跡形もなく消し去ってしまう能力の持ち主だとは、誰も気が付くまい。
後ろから着いて行く理沙にさえ、未だに納得がいかなかった。
ついこの間に舗装しなおしたと思しき国道には、ときたま自動車が行き来する程度だった。通勤の時間帯を過ぎていたからだろう。
と、不意に虫取り屋が歩道から脇道に入り込んだ。存在感の無い彼の行動は、理沙には予測不能で、いつも驚かされてしまう。彼女も慌てて虫取り屋の後を追って、脇道に入った。
「ここは田舎だからな。面倒臭い事に、バス路線はかつての本道に沿っている。路線の変更は難しいらしいな。……脇道・細道・田舎道だ」
そんな虫取り屋の言葉に、理沙は「クスッ」と、小さな笑いを漏らした。
「何だ、どうかしたか?」
虫取り屋が立ち止まって、後ろを振り返った。
理沙は、拳で口を塞ぐと、
「だって、虫取り屋さんが冗談を言うなんて……。面白いですよ、今の」
そう言われた虫取り屋は、その腐った魚のような眼を少し見開いたように見えた。
「今のは、面白いのか?」
案山子が答えたかのようだった。彼の言葉には感情がこもっていない。それ以前に、虫取り屋が、こんな些細な事に興味を示す方が驚きであった。
「そうですよ」
理沙は、ニッコリと微笑んで、そう応えた。
「そうか……面白いのか……」
虫取り屋は、そう呟くと、何かを考えるかのように俯いていた。
理沙は、そんな虫取り屋の仕草を『カワイイ』と感じていた。最初に遭った時には、人間にとって大切な何かを全て喪失しているように見えた。淀んだ彼の眼は、楽しい事も悲しい事も、何の感慨もなく映しているようで、理沙にはそれが恐ろしかった。
しかし、しばらく彼と接していて、「虫取り屋にも何かしらの感情があるのではないか」と感じ始めていた。
──オレはアカシアに創られたデバッグプログラムだ。オレは生命というものを持ち合わせていない
それは、虫取り屋が以前に言った言葉だったが、理沙はそれが全てではないと思い始めていた。
(人間と同じ格好をしていて、同じように振る舞うモノに、人間らしい物が欠けているなんて、悲し過ぎる)
理沙にそう思わせる、虫取り屋の姿だった。
「もうすぐバスの時間だ」
ついさっきまで考え事をしていたことすら忘れたかのように、虫取り屋は理沙に言った。いや、それは彼の独り言であったのかも知れない。そんな、呟くような言葉だった。
しかし、理沙はそれで我に返ることができた。
顔をあげると、脇道に入った先に、赤錆びた鉄の標識のようなものが立っているのが分かった。
バス停である。
「行くぞ」
虫取り屋はそう言うと、スタスタと歩き始めた。理沙も急いで後を追う。
「ちょ、虫取り屋さん、待って下さい」
彼女は小走りで虫取り屋を追いかけると、バス停にはすぐに着いた。
「後、五分くらいでしょうか」
時刻表を見て、理沙がそう言った。二人の他に、停留所で待っている者は居なかった。便の悪い田舎のバス路線で、バスを心待ちにしている者は、それほど多くないに違いない。
理沙は、虫取り屋の立っている横に並んで待っていた。少し口角が上がっている。
「何か、嬉しい事でもあったのか?」
珍しく虫取り屋が理沙に質問をした。
「いいえ。別に、何にも」
そう言いながらも、理沙の顔には笑みが浮かび上がっていた。
「そうか……。ならいい」
虫取り屋の答えは、そっけがなかった。
こうやって並んで立っているのを、他の人が見たら何と思うだろうか?
親子?
そうは見えそうもない。
恋人?
いやいや、もっとあり得ない。
兄弟……
ここまでで、理沙は考えるのを放棄した。
自分と近縁であると見られるためには、そのくたびれた風体を何とかしてもらわなくてはならない。
(そんなヨレヨレ・ボロボロの服じゃなくって、もっとちゃんとした洋服を着れば、少しはまともに見えるのになぁ)
理沙は、何とはなくそう考えていた。
そして、改めて自分の服装に気が付くと、彼女は少し顔を赤らめた。
自分も着たきり雀だったからだ。
この服は、いつ買ったものだったろうか。下着と靴下だけは、何とか換えを持っていた。……ちょっと前まではだが。
そういえば、もうすぐ生理が始まる頃だ。生理用品を買っておかなくては。……いやいや、それ以前に、最後に身体を洗ったのはいつだっけ? この季節では、川で水浴びをする訳にもいかないし、野外で裸になる勇気も理沙には無かった。
(臭うかな?)
理沙は虫取り屋を意識してか、着の身着のままの自分が恥ずかしくなった。その上、彼女はバスに乗るのだ。
(他にお客さんが居たらどうしよう。嫌な顔はされないだろうか……)
理沙は頬を赤らめながら、そんな空想に浸っていた。
「バスが来たぞ」
彼女を白昼夢から呼び戻したのは、そんな虫取り屋の言葉だった。
「は、はい」
理沙は、びっくりして顔を上げた。右手の方角から、ディーゼルエンジンの音がしていた。路線バスである。
深緑に塗られたバスは、彼らの前に停まると自動ドアを開いた。
「乗るぞ」
虫取り屋はそう言うと、先に立って昇降口からバスに入った。入り際に、整理券を引き抜く。
理沙も、彼を追いかけるようにバスに乗り込むと、整理券を取った。
車内を見渡すと、地元の高齢者と思しき乗客が、数人ほど席に座っていた。
虫取り屋は、理沙が躊躇しているのをお構いなしに、最後尾へ行くと、広々と空いた座席にドッカと腰を下ろした。慌てて理沙も後を追いかけると、彼の左隣にチョコンと座った。
<発車しまぁーす>
運転手の声がスピーカーから聞こえた。
続いて、バスが走り出す。
少ないが、自分達だけではない。人混みとまでは言えないが、幾分の人気があることに理沙は安堵していた。虫取り屋の言うには、「鬼は存在を知られることを嫌っている」ようだった。こんなところにまで、襲いに来る事は無いだろう。
彼女は、「フゥ」と溜息を吐くと、頭の上で両手を握り、大きく伸びをした。
ここしばらく気を張っていたところに、理沙は虫取り屋に出会った。その所為だろうか。彼女は、心の緊張がほぐれていくのを感じていた。
こんなに安心できたのは何ヶ月ぶりであろうか?
そんな安心感が、理沙を混沌の世界へ導いていた。いつの間にか、彼女は虫取り屋の肩に頭を預けて、眼を閉じていた。




