こどもは描写(地の文)を読まない
ある年ごろに、読書の内容を変えようと意識したときがありませんでしたか?
それは「自分を試そう」という意識が生まれたのかもしれません。
精神的な成長を獲得するプロセス。
読書の傾向によって、その人の精神や心が影響を受ける(形作られる)のは間違いありません。
経験や語彙のすくないこども。
本を自発的に読むこともないこどもは読解力も低い。
そのようなこどもの読解力では、描写を読み取るだけの力はありません。
さらには経験もすくないと、文章から想像できる物事にも偏りが出ます。
山林を歩いたことのない人に、森の中の詳しい情景説明をしたところで、実感をともなわないものになるでしょう(想像の域を出ない読書にならざるをえない)。
だからこどもは地の文を見るだけで拒否したがります。
マンガの影響を強く受けたこどもはユニークな、クセの強い、極端な個性を持ったキャラクターを好みます。
だから現実に即した登場人物などを出されても、退屈に感じるでしょう(心理的な機微が理解できない)。
読書量のすくないこどもは、第1話の書き出しに地の文を多用しているだけで、否定的な反応をしがちになります。
語彙力のない未熟な思考力では、字から物事を読み解く(想像する)ことができません。
なぜなら思考(思い描くこと)は言葉(文字)で行われるからです。
こどもの想像力がよく「おとなには想像もできない自由さを秘めている」みたいに言われますが、それは知識を持つことによる固定観念がないからです。
無知だからこそ、自由に頭の中にある数すくない物をあれこれと、自分勝手に組み合わせるわけです。
そこには定型(常識的判断など)となるものがありません。
自分の知らない、理解できない難しい言葉を並べられると、「自分には理解できないことを書いている」といった考えに走って、そこに書かれたものを理解しようとする前に拒絶するこども。
細やかな文章表現などを理解しようとせず、拒絶ばかりしているとしたら、そのこどもは文盲になるかもしれません。
そうした読書の仕方を反省しないかぎり、楽しいだけのマンガや、軽い読み物だけを読みつづけるようになるでしょう。
こどもの多くは、興味のあるもの以外を否定するような頭の働きになりやすく、こうした頭の使い方に染まれば、当然おとなになっても変わりません。
言葉を学び語彙を増やすことは、思考力を養う足がかりになります。
拒絶することばかり覚えてしまうと、自分を狭い籠の中に閉じこめる結果になります。
いまの自分に理解できないものは、いつか「自分が成長したときに理解できるもの」と考えるべきでしょう。
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なぜこどもはこどもなのか?
簡単な答えがあります。
こども(すべてのこども、というわけではない)は、近しい精神年齢のこどもとは仲よくなるもので、これをよく「精神年齢が同レベルの者同士仲がよい」といわれることの本質にあります。
おとなに反抗するようなこどもや、おとなと距離をとろうとするこどもは、おとなから学ぶ機会を捨てていると言えます。
賢いこどもの多くは、こどものコミュニティだけで賢くなったわけではないでしょう。習い事などは、おとなとの数すくない接点です。
そうしたなんらかの「場」を与えられ、学びの機会に触れてきたこどもは、知識が豊富であり、技術的にも優れたものを得ている可能性が増えるでしょう。
正しい知性のあり方とは、そうした学びの場に触れる機会を持ち、正しい心情で学ぶことで獲得できるものです。
読書も同じで、はじめからなんでも読み解けるこどもなどいません。
きちんとした読解力を養う機会を得て、成長した心と理解力を手に入れてはじめて、多くの作品に共感し、楽しめるようになるのです。
読書とは、そうしたおとなとの接点(学びの機会)に似た部分を持ちますが、ただやみくもに自分の好きな物だけを読んでいては、狭い理解しか得られないでしょう。
地の文を楽しめる人は人生経験が豊かであったり、想像力が豊かな人です。
ただ知識を得るだけでなく、学びと共感を同時に発掘できる人は読書家と言えるでしょう。
ちょっと乱雑な内容になってしまったかな。
実はこのエッセイの裏のテーマは、「こどもはSNSに触れさせるべきじゃない」という部分があります。
SNSを見ずに本を読め、人と触れ合え。ということです。




