十二章(2)
掘り出された骨は、リーファが予想したよりも小さかった。
神官が祈りの文句を唱える前で、親子の骨がそれぞれに分けられ、間に合せの壷に収められていく。この後、きちんと神殿で清めてから、墓を掘って埋め直すのだ。
神殿の墓地に入れても良いが、と神官は申し出たが、ウートはそれを辞退し、地所のなかで一番眺めの良い場所を選ぶと決めた。
リーファは作業を見守りながらじっと辛抱強く立っていたが、やがてふと、何かの気配を感じて顔を上げた。
暖かい風が亜麻畑を渡り、木立をざわめかせて空へと駆けて行く。その中に、小さな光が見えた気がした。
(アリガトウ)
小さな声がささく。遥か遠い西方の言葉で。
リーファは空を見上げ、ミルテの姿を探そうとした。だがもう、少女が現れることはなく、代わりに何か小さな物が、どこからともなく落ちてきた。
反射的に手を伸ばし、それを受けとめる。ひんやりした、石のような感触。手を開くと、あのお守りが太陽を映してきらりと光った。
「リー?……そろそろ帰ろうか」
ロトが声をかける。リーファはお守りをぎゅっと握りしめると、無言でうなずいた。
屋敷の厩で世話になっていたそれぞれの馬を引き出し、通りに出たところで、リーファは不意に思い出した。
「そう言えば、フォラーノさんは?」
「ウートが後のことは引き受けるそうだ」シンハが応じる。「事情を話して和解して、ちゃんと詫びを入れると言っていたが」
「どういう詫びですかね」
ロトが苦笑し、リーファもその意味を察して複雑な顔をする。一度は絶縁を決めた相手に対し、そうすぐに気前良くなれるものかどうか。とりわけ、心情はお互いややこしいに違いない。
「ま、それは当事者の問題だろ。もうオレたちの出る幕じゃないよ。……ミルテも逝っちまったし」
リーファは言い、手の中でお守りを転がした。しんみりした彼女に、残る二人も口をつぐむ。が、じきにシンハが要らぬ一言を発した。
「寂しいか?」
「……おまえって、時々最低だな」
むっつり応じたリーファに、シンハはにやりとして見せると、手を伸ばしてくしゃりと頭を撫でた。リーファは大袈裟に怒ったふりをして、その手を振り払う。
「だから、ガキじゃねえっつってんだろ! やめろよそれは」
「ほう、ガキじゃないなら、今後は何があっても一人で寝られるだろうな?」
「ぐっ……じょ、上等だ、やってやろうじゃねえか!」
まるで喧嘩でも始めかねない言い草に、シンハが無遠慮に笑い、ロトまでがこっそり背を向けて肩を震わせた。リーファは真っ赤になって膨れ、やおら残雪にまたがると、さっさと先に歩きだした。
じきにロトとシンハが追い付いてきたが、その頃にはもうリーファも機嫌を直し、けろりとした顔で振り返って言った。
「なぁシンハ、もう指輪、外してもいいんじゃねえの? ミルテもいない事だしさ」
「そうだな。だがもう少し村から離れるまでは……」
ふむと指輪を眺めてシンハが応じたところで、横からロトが「あ」と声を上げた。何か、と残る二人も行く手に目を向け、それぞれ、おや、という顔をする。ティエシ川を渡る橋のたもとで、宿屋のあるじ夫婦が待ち構えていたのだ。三人が馬を止めると、夫婦は愛想笑いを浮かべて寄ってきた。リーファは苦笑いでそれを迎える。
「あーらら……いったい何のご用ですかね。忘れ物でもしたかな?」
「いえ、それがね」
主人が揉み手をしながら、狡猾な目つきでロトとシンハを見やって言った。
「頂戴した分では、宿代に足りませんで」
「はぁ? ちゃんと払ったろ、言われた通りに」
リーファは呆れて見せ、ロトを振り向いて「まさか払い忘れてねーよな」と確かめた。ロトが答えるより早く、主人は「いやいやいや」と手と首を振り、顔だけはにっこりと笑いつつ、しかし容赦ない言葉を続けた。
「確かにお二人から頂きましたよ。ですがねぇ、後で勘定をやり直してみたら、あれだけではちょっと足りませんのですわ。何せねぇ、ほら、そちらさんはご病気でしたから」
そちらさん、と言いつつ視線で示したのは、シンハである。三人が何とも答えずにいると、おかみが主人の後を引き取った。
「それも何だか相当具合が悪そうでしたからね、あたしらはお連れさんが出てらっしゃる間に看病させて貰ったんですよ。そうそう、娘さんもね、夜中に出てったりされたんで、あたしらも寝るわけにいかなくて、いつもなら明かりを落として休んでいるところをずっと起きていなきゃなりませんでね。蝋燭代もかかりましたし」
「ほかにもどうしてだか、うちのシャベルがなくなっていたりしてねぇ」
次から次へと追加料金の詳細を数え上げる主人夫婦に、リーファは怒るどころかすっかり呆れ返ってしまった。シンハなどはそれすら通り越し、堪え切れずにとうとう笑いだしてしまったほどだ。
「分かった、もういい」
シンハはそう言って、まだほかにもあれやこれやと言いかけていた夫婦を黙らせた。
「そっちの言う通り、普通の客よりは随分と余計な手数をかけたのは確かだ。追加の代金を払おう」
そこで彼は不満顔のロトをちらっと振り返ると、にやりとして片手を上げた。
「あ」
ロトとリーファが同時に短い声を上げる。まさか、と二人が言い出すより早く、シンハは指輪に手をかけていた。
「ただし生憎だが、現金の持ち合わせが乏しくてな。これを代わりにしてくれ」
言いながら、するりと指輪を抜いて、ほいと投げ渡す。主人夫婦は慌ててそれを受け取り、胡散臭げにてのひらで転がして検分した。
「まがい物じゃぁないでしょうね……、ふぇっ!?」
疑いながら馬上のシンハを見上げた夫婦は、次の瞬間、揃って奇声を上げた。あろうことか、最前まで身元の怪しい客でしかなかった男は、陽光の下に紛うことなき黒髪を晒し、人ならぬものの力を宿した夏草色の瞳で、こちらを見下ろしていたのだ。
「ひっ……わ、あわわわわ」
夫婦は揃って後退り、腰を抜かしてその場にぺたんと座り込んだ。シンハは心底愉快げにくすくす笑い、悪戯っぽく言った。
「案ずるな、純金だ。魔術具だったが、一度外した今は何の力もない。遠慮なく、溶かすなり、そのまま売るなり好きにしろ。それで足りるだろうな?」
その声にも、楽しげな光を浮かべた目にも、いつもの力がすっかり戻っている。夫婦は返事もままならず、ガタガタ震えながら這いつくばって平伏した。いつもならそうした反応を嫌がるシンハも、今日ばかりは悠然と見下ろしている。
ロトが嘆かわしげに片手で顔を覆い、リーファは可笑しいやら気の毒やらで複雑な苦笑を浮かべ、その様を眺めていた。
連れ二人の心情には構わず、シンハは久しぶりに晴れ晴れした笑みを広げて言った。
「さて、懐かしき我が家に帰るか!」
「そうですね」やれやれ、とロトが応じる。「珍しく、外に出るより城に戻りたい気分でいらっしゃる間に、さっさと帰りましょう」
これ以上、恥を晒すのも情けないし。とは、言葉にはしないものの、声音に滲み出ている。シンハはちょっと眉を上げたものの、墓穴を掘るのはやめにして、何も言わずに馬の腹を蹴った。
「あ、待てよおい!」
慌ててリーファも後を追う。ロトは二人を見送ると、まだ這いつくばっている夫婦を見下ろし、束の間、どうしたものかと迷ってから……出来るだけ厳粛に、言った。
「これに懲りたら、客の荷物を物色するのはやめることだ。言いたくはないが、陛下はいつどこへ現れるか分からないぞ」
「は、ははははいぃっ」
答えた声は震え、裏返っている。ロトはやれやれと碧い目を天に向け、ため息をひとつこぼしてから、馬首を王都へと向けた。
「おーい、何やってんだー、置いてくぞー」
遥か先から、豆粒ほどのリーファが大きく手を振って呼ぶ。待っていてくれるとは、律儀なことだ。ロトは微笑むと、あとはもう振り返らず、走りだした。
後日。
「シーンーハぁー……」
夜中に枕元で、かぼそい涙声が名を呼ぶ。
とくれば普通は怪談になりそうなものだが、呼ばれた当人は、またかとばかりのうんざり顔で身を起こしただけだった。
「……ガキじゃねえ、とか言ってたのはどこの誰だ?」
一応ちくりと嫌味を言いはしたものの、泣きだしそうな顔で枕を抱えたリーファを見ると、それ以上厳しくも出来ない。シンハは苦笑し、そら、とベッドを半分空けた。
するとリーファは珍しく、遠慮して後ずさった。
「いや、それはやっぱり不味いみたいだから、いいよ」
「……?」
「毛布か何か、貸してくれたら、ソファで寝るからさ。持ってくるの忘れちまって」
ごにょごにょ言いながら、リーファは冷える足先をもじもじこすり合わせている。シンハは温かな笑みをこぼし、ぽんとベッドを叩いた。
「遠慮するな。いつまでも突っ立ってると風邪をひくぞ」
「でも」
「ミルテの件ではおまえに世話をかけたからな。借りは返すさ」
「…………」
リーファは反論しようと口を開いたが、すぐに察して言葉を飲み込み、おとなしくベッドに入った。もちろん、そもそもミルテの事件はリーファがシンハの所に持ち込んだものだ。貸し借りなどと言うなら、リーファの方こそ多大な借りがある。
だがシンハはそれを分かっていて、あえて自分の『借り』だと言った。リーファの気を楽にさせるために。ならば、有り難く厚意を受けるべきだろう。
実際、シンハの隣に潜り込むと、いつもの安堵が心身を満たしていくのが感じられ、リーファはほっと深い吐息をもらした。
彼女が落ち着いたと見ると、シンハが苦笑まじりに言い出した。
「もうすっかり慣れたようだと思ったんだがな」
「慣れるわけねーだろ!……慣れたのは、ミルテだけだよ」
もう、いないけど。
口の中で、ほとんど聞き取れない言葉を呟く。それでもシンハは察したらしく、例によってリーファの頭をくしゃっと撫でた。今度はリーファも、文句は言わない。迂闊に口を開くと、泣きだしてしまいそうだったから。
さよならを言う暇もなかった。ようやっと慣れて、相手が幽霊でも、一人の『ミルテ』という少女として受け入れられるように思った、その矢先に。
しばらくリーファは黙って天蓋の裏を見つめたまま、瞬きして涙を堪えていた。どうにか涙をひっこめるのに成功すると、そっと、震えないように用心しながら声を出す。
「なあ、シンハ」
「うん?」
「ミルテ、どうなるのかな。こっちの国じゃ、死んだら聖十神のとこに行くんだろ?」
「そうだな。だが、神々の元に行くとは言うが、厳密にどの神の前に行くとは言われていない。死者の国は安らかな楽園だ。カリーアの教えが説く『神の国』とも相反するわけじゃないと、俺は思っている。……だから、あの親子もきっと楽園にいるさ」
「……そっか。そうだな」
また涙がじわりと浮かんできた。リーファは手の甲で目をこすり、ごまかすようにシンハの背中にくっついて、へへっ、と笑った。
「あーあ。またロトに怒られるや」
「今度から、文句は幽霊に言って貰うか」
シンハもおどけた答えを返す。リーファはその様子を想像してしまい、ふきだした。
「見えない相手に文句言うのって、難しいだろうなぁ」
「それもそうだな。……おまえは見えるんだから、文句も言いやすいだろう」
思わぬ言葉を返され、リーファは黙り込む。腹が立ったのでも、怖くなったのでもなかった。ただ、自分にそんな事が出来るとは、今まで考えたこともなかったから。
しばらくそのことに思いを巡らせ、リーファはぽつりとつぶやいた。
「うん。そうかも知れない」
そうだな、とも、やってみる、とも言えなかった。だが今はそれで充分だと言うように、シンハは無言でうなずいた。それだけの事に、リーファはほっと安堵する。
「本当は出くわさないのが一番なんだけどさ」
「全くだ。俺もその方がぐっすり眠れるからな」
「……ごめん。迷惑かけて」
「いいから、もう寝ろ」
「うん」
おやすみ、とささやくと、リーファは目を瞑った。傍らにいつもの存在感のあることが、いつも以上に嬉しかった。今夜は良く眠れるだろう。
もしかしたら、夢でミルテに会えるかも知れない――。
やがてリーファの呼吸がゆっくりと規則正しく落ち着くと、眠ったかに見えたシンハがごそりと向きを変えた。無邪気な寝顔を眺め、少しばかり困ったような、けれど穏やかな優しさに満ちた笑みを浮かべる。
「本当のところ」
ごくごく小さな声でつぶやくと、彼はリーファの額にかかる焦茶色のやわらかな髪をそっと払った。
「おまえが幽霊に出くわさなくなったら、口実がなくなって寂しいだろうな」
こんな事を言おうものなら、リーファとロトの両方から、罵詈雑言を山と浴びせられるだろうが。
シンハは微かに苦笑し、リーファの額にそっと唇をつけると、毛布を肩まで引き上げてやった。
やがて静寂が部屋を覆い、二人分の安らかな寝息のほかは何の物音もしなくなった頃。どこからか、微かに甘い香りが漂ってきた。それは、目覚めていても気付くか気付かないかの、ごく仄かな香りだった。
リーファなら、それが何の香りかすぐに分かっただろう。
かつては身近だった、西方の白い小さな花――
彼女の目覚めを待たずに香りは薄れて消えたが、後には幸せな微笑が残されていた。
(終)




