第19話
最後のファンがテントから出て行き、警備員が「これで終了です!」と言い切った途端に、スイさんとエメさんが一目散にテントから出ていった。
「佐藤さん! 月ちゃんは!?」
「大丈夫。さっき、病院に連れて行ったから……」
高橋先輩があたしのテントへやってきた。カメラを首から下げてる。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「どうだった。そっち」
「白龍さん、刺されたんですか?」
「見えた?」
「いえ、声だけ」
「メンバーの顔撮った?」
「撮りました」
「でかした」
高橋先輩がポケットからタバコを取り出したので、あたしはライターをかまえ、火をつけた。
「刺されたんじゃなくて、ちょっとかすったんだよ。包丁」
「包丁ですか?」
「あれ本気で危なかったよ。なんか急に白龍さんが後ろ下がったから、なんだ? って思ったら、目の前にいるファンが包丁突き出してんの。すぐ警備員に捕まってたけど、あれ「アンチだから」じゃ通じねえよ」
「刺すつもりだったんですかね?」
「白龍さんの彼女についてブチギレてたから、多分刺すつもりだったんだろうな。昨日のファンと同じ過激派だな。ありゃ」
「……じゃあ、怪我は浅いんですね」
「浅いけど、出血はもろにしてたな」
「え、出血してたんですか?」
「だから、それ見てファンが刺されてるーって叫んでたんだよ」
「あー。……じゃあ実際にはかすっただけなんですね」
「おん」
——良かった。胸の中にあったモヤモヤが少し晴れた気がした。
「あとはテントなり会場なりの片付け作業に入るだろうし、声かかり次第、俺達も解散かな」
「この情報って上に伝えました?」
「ああ、もう、すぐ記者に売るって」
「でしょうね」
「いやぁ、すごいグループだよ。前の会社の社長、逃げさえしなければ億万長者だったのに。もったいないことしたよ」
「先輩、この後新幹線でしたっけ?」
「そうだよ……。長野で撮影だよ……」
「あ、じゃあSDカードだけもらっていいですか?」
「落とさないようにな」
あたしは先輩にカメラを返し、先輩はあたしにSDカードを差し出す。
「素材整理頼むわ」
「不謹慎ですけど……見るのちょっと楽しみです」
「いや、びっくりすると思うぞ。ホテルでゆっくり見な」
「そうします」
「はぁー。いいなぁ。ふじっち。二人部屋を今日は独占できるぞ。俺は二日酔いなのにさ。人手不足をそろそろなんとかして欲しいな……」
「流石に二人では無理ですね。せめて切り抜き要員だけでも三人くらい欲しいです」
「編集長に伝えておくわ」
「助かります……」
「ちょっと荷物の確認だけ手伝ってくれない?」
「もちろんです。機材も確認しましょう」
そう言って、あたしと高橋先輩がテントから離れていった。
(*'ω'*)
ホテルに着いたのは21時頃であった。先輩が他の案件で長野県に向かったので、あたしは今のうちに素材を整理しておく。高橋先輩のカメラのデータをぱっと見ていき——トラブルが起きたであろう握手会のデータを再生した。
『ゆかりん! 大好きです!』
『ミっちゃぁあああああ!!!!!』
『あう……白龍……好き……♡』
『ゆかりん!』
『ぎゃあああ! ミっちゃんだぁぁぁあああ!!!』
……少々地雷の匂いがする少女が白龍に近づいた。白龍が身を屈め、顔を覗き込みながら手を差し出すと——その少女から離れるため、一瞬で後ろに下がった。少女の腕が前に突き出て、包丁が出されていた。かすった箇所が悪かったのか、白龍の腕から大量の血が出た。ファンが悲鳴をあげ、ミツカさんが血の気を引かせ、ゆかりさんがすぐに白龍の元へ駆け寄り、警備員が少女を取り押さえた。
『痛い! 痛いってば! 離しなさいよ!!』
『白龍刺されてる!』
『きゃーーーー!!』
ゆかりさんが自分のリボンを白龍の腕に巻きつけた。
『これで大丈夫』
『びっくりしたぁー』
『お前にいくら金投げたと思ってるんだよ!! ふざけんなぁー!!!』
『血が止まらないから、一旦裏行こうか……』
『すみませーん! お騒がせしましたー!』
『女作ってんじゃねぇよ! この詐欺師ーーーーー!!!!』
『う、うう……!』
『おい! ミっちゃん泣かしてんじゃねーよ!』
『そうだ! そうだー!』
『白龍ー!』
『うぇーん! 白龍刺されたー!』
(……なんだろう)
あたしはデータを眺めながら思った。
(安心した自分と、拍子抜けした自分がいることに、心から驚いてる)
人間というものは、ここまで悪魔になれるものなのか。
(個人的に言えば、大したことなくて良かった)
動画編集者としては、もっと白龍に怯えててほしかった。
(でも迫力はある)
インパクトはある。
(この素材は完璧だ)
白龍がもっと怯えててくれさえしていたら。
(……衝撃的なシーンは撮れた。これならうちの会社の編集チームに振っても、誰が担当しても絶対面白い映像になる)
あたしはため息を吐き、天井を見た。
(……ココア飲みたい)
時計を見ると、24時を回っていた。
「……はーあ」
財布を持って、廊下に出る。夜中の自動販売機の前には誰もいない。
(部屋戻ったら素材整理の続きしないと……)
小銭を入れたらボタンが赤く点灯する。アイスココアとココアが並んでいるボタンに指を近づける。
(夜中に甘いものって美味しいけど太るんだよなぁ)
——横から指がボタンを押し、その指をあたしが押した。
「っ!?」
驚いて目玉が横に動くと——西川先輩と目が合った。
「っ、な」
アイスココアが落ちた。
「解散、じゃ……」
「うん。エメとミツカは佐藤さんと帰った」
「……えっと」
「ゆかりんとスイは部屋にいるよ。もう寝てるけど」
「……」
「そっちももうとっくに帰ったかと思った」
上着で体を隠した西川先輩がアイスココアを拾った。
「試しに下の自動販売機で水を買いにいくものだね。アイスココアの気分になっちゃった」
「……」
「今日ライブ頑張ったから奢ってくれない?」
「……もう寝ます?」
あたしの言葉に、西川先輩が瞬きした。
「ちょっと外に出たい気分だったんですけど」
「……もしかして、デートに誘われてる?」
「周辺ぐるって回るだけです」
「私もさっきまで寝てたんだ。疲れたせいか、腕を切られたせいか。なんかすごく眠くて寝てた。晩御飯も食べてないんだよ?」
「下のコンビニでなんか買います?」
「あーいいね。つまみながら歩こ」
二人でホテルの中にあるコンビニでおにぎりを買い、裏口から出て、湖が目の前のレンガの道を歩く。西川先輩から袋を奪い取り、おにぎりだけを渡す。
「ん」
「ツゥ、持つよ」
「大丈夫です」
「……平気なのに。これくらい」
西川先輩が子供のようにおかかのおにぎりを頬張る。これも高校生の頃から変わってない。
「まだ好きなんですか。おかか」
「まだ好きですよ。おかか。ツゥはツナマヨでしょ」
「ツナマヨ以外のおにぎりは認めません」
「あれ、言うようになったね。前は『ツナマヨ以外もいいと思います』って言ってた」
「いや、ツナマヨ以外はもう具なしのおにぎりと変わりませんって」
「それは極端すぎるだろ」
夜中ってラーメンとか、唐揚げとか、炭水化物が美味しいイメージがあるけど、……おにぎりも悪くない。というか、普通に美味しい。
「なんかいいね。こういうの」
夜風が肌に当たる。
「ライブ終わったばかりのせいかな。すごい解放された感じ」
「トラブルだらけでしたけどね」
「まあ、そんだけ色んなファンが来てくれたってことだよね」
「怖くなかったんですか?」
西川先輩の足元を見る。
「包丁」
「まあ、避けれたからね」
「よく気づきましたね」
「うん。なんか光ったなって思って。腕動いたから、あ、これやばいかもって思って、無意識に後ろ下がってた」
「あれ下手したら刺されてましたよ」
「あ、見てた?」
「データを」
「え、もうデータ見たの? 仕事早くない?」
「動画編集者は速さが命ですから」
あたしはツナマヨおにぎりを頬張る。やっぱり美味しい。
「スイとエメがさ、握手会終わってすぐに来てくれてさ」
「心配されてましたよ。すごく不安そうでした。ファンの方も」
「佐藤さんも顔真っ青にしてた」
「ゆかりさんって元看護師ですか?」
「いや? 大学で緊急処置の仕方、勉強してたらしい」
「へぇー」
「でも、今回が初めてだったな。殴られそうになったのと、刺されそうになったの」
「……」
「やー、そんだけ人気になったってことだね。ありがたやありがたや」
「やめ」
「ん?」
「あの、ん、や……彼女、ネタ」
(もう言うのやめましょう。過激なファンが増えますから)
「……」
彼女ネタ、もっと言いましょう。それこそ、炎上の勢いで。数字が増えますし、やっぱりそういうネタに釣られてくる人も、数字から見て多いと上が言ってました。
「……」
動画編集者としては、言って欲しい。炎上して欲しい。この勢いに乗って欲しい。
個人としては、もう言わないで欲しい。危険な目に遭ってほしくない。
「……、……、……」
「……彼女ネタが何?」
あたしはおにぎりを口に含む。噛む。飲み込む。また食べる。
「別にさ、25歳で恋人いるって、何もおかしいことじゃなくない? てか、普通じゃない?」
あたしはおにぎりを頬張る。
「リア恋とか、確かにいるけどさ、別に色恋営業してないし、歌聞いてほしいだけだし」
あたしの口の中に、まだおにぎりが残ってる。
「でも今回ので警備は厳しくしないといけないなって思った。私だけじゃなくて、メンバーにも可能性あるからさ」
あたしは噛む速度を遅めた。
「これからね、もっと大きいドームでやるんだ。みんなそのためにボイトレもダンスレッスンも頑張ってるからさ。あと配信も」
口の中のおにぎりが少なくなっていく。
「切り抜きもいっぱい作ってもらわないとなぁ。企画動画も」
飲み込んだ。
「知名度広めてもらうために、プロダクション所属契約したんだから」
で、
「ツゥ」
あたしは袋に入れてたアイスココアに手を伸ばした。しかし、取り出した瞬間それを奪われ、西川先輩がストローを穴に刺して飲んだ。
「彼女ネタが何?」
「……」
袋の中にあったもう一つのアイスココアを取り出して、あたしもストローを穴に刺して唇に挟んで吸った。アイスココアが口の中に入った。
「……他の話題もトークに入れましょう。そればかりだと、いずれ飽きられます」
「もちろん。ライブのこともだし、アニメのことも、映画も、流行ってるものとか、話題はいくらでもある。ゲーム配信なんてしてたら口が止まらなくなるしね」
(……そうだよ。この人タワマン住んでるくらいの配信者なんだから、トーク力はあるんだよ。彼女ネタばかりじゃないって。たまに出てくる彼女ネタで、ファンが過激になってるだけだから)
「大丈夫。飽きられないように頑張るよ。だから飽きられない企画動画の編集お願いね」
「……」
「次の撮影っていつだっけ? 三日くらいは安静にするようにお医者さんに言われたんだけど」
西川先輩があたしを横目で見て——ぎょっと、目を見開き、足を止めた。
「ツゥ!?」
あたしは歩き続ける。
「ツゥ!」
手首を掴み、引っ張られる。
「ツゥ!」
「なんすか」
「いや、なんすかじゃないでしょ!」
「なんすか」
追いかけてくる視線から顔を逸らす。
「歩きたいんですけど」
「いや、そんな顔で歩かせられないって」
「そんな顔ってなんすか」
「ツゥ」
「なんすか」
顔が熱くなる。
「普通の顔ですけど」
目から、涙が、鼻から、水が、いっぱい、溢れ出て、落ちていく。
「歩きたいんですけど」
「いや、今、歩いたら、なんか、私が泣かせたみたいになるじゃん……」
「泣かされてませんけど」
「泣いてるし」
「泣いてませんけど」
「泣いてるじゃん!」
「泣いてない……!」
大量の涙が落ちる。
「泣くわけ……ないじゃないっすか……!」
「……」
「歩きましょう! 早く!」
「いやいやいやいや……ちょっと待ってって……」
「歩きたいんです!」
「芝生綺麗だね。うん。座ろう座ろう」
「部屋戻りましょう!」
「いけるいける! 外国人座ってそう! うん! いけるって!」
湖の側の芝生に引っ張られ、あたしは膝を抱えて座り——顔を埋めて、隠した。そんなあたしの肩に、西川先輩が優しく手を置き、引き寄せた。あたしの耳に、西川先輩が囁く。
「ツゥ、大丈夫だって。怪我、本当に大したことないから。かすり傷だから」
「あたし、部屋に戻りたいだけです!」
「さっき歩きたいって言ってたのどこの誰?」
「ふぐぅ……! ぐすっ……! ぐすん……!」
「ほら、ツゥ、腕。ね? 大したことないの。本当に、ちょっと包丁の刃がかすって、血が出ただけ……」
「ぐすっ! ぐすっ! ぐすっ!」
「わかった、わかった! 大丈夫! ツゥが落ち着くまでここでさ、ゆっくりしてよ! ね! 湖も綺麗だし! アイスココアも美味いし!」
「ぐすっ! ぐすっ! ぐすっ!」
「わかった、わかったから……」
西川先輩があたしの頭を抱くように腕を回し、寄せた頭にキスをした。
「大丈夫。ツゥ。私は、大丈夫だから」
「……」
「ほら、手も動くし、指も動く」
西川先輩が指でキツネを作り、あたしの頭に噛み付く素振りをした。
「ね、ツゥ、歌えるし、なんともないから」
「うるせぇです。っ、や、優しくしないでください」
「はいはい、泣かない泣かない」
「泣いてねぇです!」
「うんうん。心配かけたね」
「心配してねぇし!」
「うん。心配したね」
西川先輩が自分の頭とあたしの頭を重ね、そのままあたしの頭を撫でた。あたしは、……膝に顔を隠し続ける。
「大丈夫だよ。ツゥ」
「……やめてください。まじで。あたし、そんな優しい人間じゃないんですって。本当に」
「なんで泣いてたの?」
「自分が可愛くて」
「それは良いことだよ。私も私が大好き」
「……西川先輩が、刺されたって、聞こえて、素材のことしか、頭にありませんでした。っ、今、困惑したメンバーの顔を、撮っておこうとか、っ、ファンの方々の、不安そうな、顔、とか、様子、っ、とか、グスッ、重い空気とか、緊迫した感じとか、ぐすんっ! だって、動画を編集する上で、絶対……大事な素材ですもん……。これがあるのとないのとで、本当に、動画とか、映像って、変わるんですよ。でも……」
涙が、また溢れてくる。
「でも……でも、撮影なんかしてる暇があったら、救急車なり、なんなり呼ぶとか、するべきなんですよ。人として、困惑してる人や、不安そうにしてる人を映像素材としてほしいなんて、どうかしてるんですよ。でも、必要なんですよ。どうしても必要なんです。だから撮影してました。スイさんの様子もエメさんの様子も。ずっとカメラを回してました。お陰ですごい素材が撮れました。メイキングに入れたら絶対バカ売れします。話題になって、伝説になります。その自信があります。それくらいの素材だったんです」
涙は止まらない。良心が、ボロボロになっている。
「あたし最低です。でもそんな仕事が好きです。だからこれからもそういう素材を求めます。インパクトがあって話題になるような素材を。これからも、ずっと、映像制作を続ける限り、ずっと、ずっと。だから、……優しくしないでください」
また、あたしは顔を隠す。もう見てられない。
「お願いします。……優しくしないで……」
「……ツゥ、それもクリエイターの役目だよ。……わかってるから」
「……」
「ツゥは正しいことしたよ。上さえ許可すれば、絶対腕切られたところは入れるべき。このことが過去になった時、絶対笑い話になるし、すごい回として話せるから」
「……」
「ツゥ、わかってるから。理解してるから。それを覚悟でこの活動してるから。……だからツゥが泣くことないよ」
「……」
「苦しい立場だよね」
けれど、夢を売る側としての責任を果たさないと。
「いつもありがとう。ツゥ、助かってるよ」
腕が痛いはずなのに、隣で泣く女のために西川先輩が抱きしめてくる。怪我をした当日に、タレントにそんなことをさせる女が許せない。拳を握り、体を震わせ、女に対して凄まじい憤りを感じる。西川先輩にこんな顔をさせる女が許せない。自分が許せない。涙が収まらない。罪悪感と嫌悪感でいっぱいになる。そんな自分が可哀想と思う自分と仕事のためなら極悪人になれる自分はやっぱり特別なんだと意味のわからない有頂天な気持ちになる。良くない良くないこんなの良くない。
心が、ぐちゃぐちゃだ。
「……部屋、戻りませんか。本当に……」
「……高橋さんは?」
「長野県に行きました。……仕事で……」
「……ってことは」
西川先輩が気がついた。
「二人部屋を独占状態?」
「戻りましょう。……体も、冷やすので」
二人で立ち上がり、芝生から離れる。歩いてる間、あたしは足元を見て、西川先輩はあたしと手を繋いで部屋まで誘導する。
なんだか高校時代の帰り道みたい。
誰もいない道で、人がいないのを確認して手を繋いで、見られても、仲の良い先輩後輩が手を繋いで歩いてただけ。ただそれだけ。
大人になってしまった今では、とてもそんな危険な行為はできない。
けれど——繋いだ手は離れない。




