第14話
美味しそうな山盛りのカツ丼と味噌汁を出されたら、誰が目の前にいたって箸が進むというものだ。それはもう、視線なんか気にしない。どんなに満面の笑顔で見られてても、あたしはただ、ひたすら、胃を満たすために、このカツ丼と味噌汁を食さなければいけないのだ。だって、朝も昼も夜もずっと動画編集してて、もう脳が栄養を欲しているのだから仕方ない! これは、生きるためなのだ!!
「げふっ」
ゲップが出た。どんぶりをテーブルに置く。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
西川先輩が頬杖つきながらあたしを見守る。
「美味しかった?」
「はい。ありがとうございました」
あたしは封筒に入れた千円札を取り出し、テーブルに差し出した。
「これで勘弁してください」
「何のお金?」
「カツ丼定食代……」
「いや、いいよ。別に。違うことに使いな」
「いえ! そういうわけにはいきませんから!」
「変なところで見栄を張るなよ! 大人なんだから!」
「うう……じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……」
千円を大切にお財布に入れると、西川先輩が深刻そうな顔で聞いてきた。
「……あの会社、そんなに給料入らないの?」
「いや、それが……結構貰ってます」
「んだよ。貰ってるなら使いなさい」
「生活水準を上げるのが怖いんです! 動画編集ができたところで、稼げなかった時の記憶は未だに残ってます! 衝撃的でした! 30分動画を3日間で仕上げて500円! 10分くらいデータのある1分動画を半日で仕上げて300円! 絶対生活できないから仕事しながら編集して、寝る間も惜しんで編集して、だのにあれしろこうしろって注文と指摘は多くて、朝も深夜も仕事と編集とバイトと編集……あはは! あはははは……!」
「悪質なところでやってたんだね」
「今の会社がたまたまマイのナビバイトで募集してたんです……! ポートフォリオを送ったのがあたし一人しかいなかったらしくて……へへ……運良く……採用されました……」
「いくら貰えてるの?」
あたしは数字を手で表した。
「十分だわ!!」
「このご時世、いきなり会社が倒産するなんてことありえない話じゃありません。今のうちに貯蓄はしっかりしておかないと……」
「そんなに心配なら投資とかやっとけば?」
「そんなギャンブル怖くて出来ません」
「早く連絡してくれてたら映像会社紹介したのに。ていうか、絶対家に呼んだから生活費も浮いたのに」
「というわけで、ご飯ありがとうございました」
あたしは荷物をまとめて立ち上がる。
「ネカフェで寝るので、お邪魔しました」
「いやいやいやいや、待て待て待て待て」
西川先輩に鞄を奪われた。あ! ちょっと!
「何しやがるんですか!」
「今夜は泊まっていきなよ。もうこんな時間だし」
「嫌です」
「なんでよ」
「あたしは今の先輩から身を守ることを覚えました。部屋に入ってもさっさと出ろ。これが教訓です」
「別に襲ったりしないって!」
「……へー」
じろりと西川先輩を睨む。
「じゃあなんで配信でエロかったとか言ってたんですか?」
「……」
「目の前にいたらやりたいじゃんとか、抱きたいじゃんとか」
「……や、それは……」
「盛り上げるためですか?」
「や、盛り上げるためというか」
「なんですか。地味顔って。地味顔の女の子がエロいって、なんですか。あれ」
「……」
「はいはい。どうせ地味顔ですよ。すみませんでした。可愛くなくて」
「……いや、普通にさ」
「なんですか」
「したいじゃん」
——西川先輩と、目が合った。
「好きな人が目の前にいたら、そりゃ、触りたいって思うよ。私は」
真剣な目で言われたら——あたしの悪いところだ——西川先輩から逃げるように、目を逸らす。
「……食器洗います」
「え」
「水場お借りします」
キッチンカウンターに自分の使った食器を持っていき、水で濡らす。それを見てると、西川先輩が追いかけてきた。
「ツゥ」
「洗剤これですね」
「ねえ」
(あーあー、高い洗剤使っちゃって。お金持ちはいいねぇ)
「月子」
(あ、いい匂……)
——背後から抱きしめられた。
「……」
水が流れる、ので、あたしは、冷静に、蛇口をひねって、水を止めた。水滴が食器に落ちた。
「……」
冷静に、と、あたしは思う。冷静に、この腕から抜け出す方法を考えなくては。冷静に、この状況をどうにかしなくては。
(冷静に)
「月子」
冷 静 に 。
「……相変わらず抱き心地いいね。月子」
「……」
「……目逸らすのやめてもらってもいい?」
「……逸らすって、なんですか?」
「高校の時からそうだったよね。月子ってさ、目合わそうとしても恥ずかしがって目逸らすし、顔見ないで手元とか足ばかり見てた」
「そうでしたっけ?」
「今もそう。ふざけてる時はちゃんと顔見てくれるのに、真面目な話しようとしたら目逸らすんだよ」
「濡れちゃいますよ」
あたしは冷静に蛇口をひねった。水が出て、スポンジを濡らす。その様子を見て、西川先輩が言った。
「食洗機に入れたら?」
「え、食洗機?」
横を見ると、食洗機があった。
(うわ、食洗機付きキッチン? 豪華すぎない?)
食器をその中に入れ、扉を閉めてスイッチオン。すごい。食洗機が動いてる。
(いいなぁ。あたしももう少し広い所に引っ越したら買おう)
「はい、洗い物終わり。こっち」
「いや」
「は?」
「汗かいて汚いんで、シャワーお借りします」
「いや、その前に話すことあるから」
「いやいや、色々終わらせてからの方がいいですよ」
「わかった。じゃあ話し終わったら入っていいよ」
「いやいや、夜も遅いことですし」
「大丈夫。10分もあったら話せるって。いや、5分でもいいね」
「あたし朝から栄養ドリンクとかコーヒー飲んで口臭いと思うので」
「へー。臭いんだ」
「はい。臭いので」
顎を掴まれた。
「お風呂入ってから歯磨きして……」
――唇が触れた。
「……」
きょとんとした。
顎が掴まれてる。
思考が停止した。
西川先輩の顔が近い。
もはや視界からはみ出てる。
抱きしめられる腕が、逃さないと言ってるようにあたしを締め付ける。
唇が触れてる。
瞬きする。
唇が塞がれてる。
落ち着くために呼吸しようとした。
唇が塞がれてる。
あれ、唇が塞がられた時って、息していいんだっけ?
「……」
待って。何この状況。どんどん意識と思考が戻ってくる。唇、触れてる。これ、キス。待って。キスされてる。キスしてる。誰と? 西川先輩と。え、ちょっと待って、待て待て待て待て。キスしてるって。これ、待って、やばい。
慌てて唇を離すと、西川先輩と目が合った。あたしの顔を見た西川先輩が――更に――唇を寄せてきた。
「ちょ、まっ……」
体を振り向かされて、正面からキスされる。だが、あたしは唇から逃げるため、重なった唇を離しては顔を逸らす。
「先輩、ま、まって、くださ……!」
顎を掴まれ、唇が重ねられる。
「待って、お願い、待っ……!」
唇が重なり、舌が入ってきた。
「ん!」
西川先輩の舌が、あたしの舌を舐めてきた。
(ちょ、ちょっと待って、ちょっと待って……!)
西川先輩の膝が、あたしの両腿の間に入ってきた。
(待って、これ、ちょっと、本当に……!)
西川先輩の手があたしの服の中に入った瞬間――声を上げた。
「やめて! リンちゃん! 怖い!!」
「っ」
……手が止まった。
「……」
あたしの服の中から、手が出ていった。両腿の間にあった膝がその場所から退かれた。
(……やばい、心臓、バクついてるって……)
少し、体も震えてる。
(何、ちょっと、何々? もう、大丈夫だって、バカだな。あたし。こんなの、西川先輩の、ただの悪ふざけの、スキンシップ……)
「ごめん」
西川先輩に強く抱きしめられる。
「ごめん、ちょっと、強引だった」
「……い、いえ……」
心臓が揺れながら、西川先輩の背中を撫でる。
「すいません、あたしも……かなり、態度、悪かったです……」
「ん、いや、……怖かった、ね。ごめん」
「いや、いやいや、怖く、ないです」
「ん、……怖がらせてごめんね」
「……」
「ちょっと、座んない?」
「……そう、ですね」
リビングに移動し、ソファーに座る。歩いてる間ずっとあたしの腰を掴んでいた手はあたしの手を握り出し、正面から顔を近くで合わせられる。
「月子、目合わせて」
「……」
西川先輩の目を見る。……申し訳なさそうに、眉を下げている。
「本当にごめん」
「……あたしも、態度悪かったです。ごめんなさい」
「いや、ごめん。本当に、なんか、焦ってた」
「……焦ること、あります?」
「あるある。特に月子の場合は本当に焦る」
「焦ることないですよ。……別に彼氏がいるわけじゃないし」
「いや、だってさ、高校の頃と全然違うし、なんか、月子、怒りっぽくなったし……」
「怒りっぽいって……」
「月子としたいこと沢山あるんだよ。ゲームもしたいし、カラオケも行きたいし、デートしたいし、もう、沢山。毎日会いたいし、毎日喋りたい。愛してるから、これ以上月子と離れたくない」
「……だったら、言わせてもらいますけど」
あたしは胸のモヤモヤを打ち明けるために、覚悟を決めて西川先輩を見た。
「西川先輩」
「ん」
「あたしが養うので、メジャーデビュー諦めてくださいって言ったら、諦めますか?」
「……んー……無理かな」
「ですよね」
「無理だけど、納得させる。説得するかな。結果出して、月子が続けてもいいよって言ってくれる物を見せるかな」
「あたしは貴女の切り抜き動画を作って100万回再生行かせました。そんなあたしに、貴女はそれを言ったんです」
西川先輩が黙った。あたしは西川先輩を睨み続ける。西川先輩が考える。あたしは睨み続ける。――西川先輩の目が見開かれた。思い出したか。この野郎。
「言った」
「言いましたね」
「養うからって」
「はい」
「……いやでもそれは、月子が辛そうだったから」
「辛いですよ。朝から晩までパソコンに向き合って。でもやるんですよ。なんでだと思います? あたしの編集した動画が万再生行ってバズって、クライアントが有名になって、感謝されるのがたまらなく好きだからですよ」
「……」
「リコネだってそうですよ。どうやって売っていくか、どうやってマネジメントしていくか、うちの会社が請け持った以上先輩達を売れるタレントにするために必死です。命をかけてます。でもそれも全部、達成感と感謝される優越感と、それに見合った金が欲しいからですよ。見返りが欲しいから命かけてやってるんです。撮影も、企画も、編集も!」
それを、
「仕事辞めて、ここに住みなよ、ですよ。イラつくのが理不尽ですか? だとしたら、あたしは先輩こそ理不尽だと思います!」
「……」
「配信でネタにされて、バカにされて、笑われて、何なんですか。ネタのためにあたしと付き合いたいだけじゃないんですか」
「それは違う」
西川先輩が遮るように言った。
「違う、違う……けど、まずは、そうね、うん」
「……」
「うん。……月子、……本当に……ごめんなさい。その言葉は、もう、ごめん。無神経すぎた」
「……はい」
「……言い訳なんだけど」
「はい」
「あの時は……その……月子とさ、ちゃんと再会できたって、時だったじゃん。お互い認識しあって、やっと会えたーっていうのと、やっと話せるー! っていう、なんか、勝手に盛り上がっちゃったんだよ。一人で」
「はい」
「で、やっぱり、仕事辞めたがってるリスナーの話も沢山聞くんだよ。だから、月子が嫌々で働いてるなら、仕事しなくても楽させてあげるから一緒に住みたいっていう、もう、私の中では最上級の愛の告白というかさ」
「はい」
「いや、もう、謝罪しか出てこない。本当にごめんなさい」
「はい」
「……」
「……仕事は好きなんです。なんだかんだ、職場も、悪い人いないし、だから……愚痴は言うし、辛いし、眠いけど……辞めたくはないんです」
「……いや、気持ちはわかるよ。私も、……歌うの好きだし、配信も……目立つのが好きだからさ。ボイトレも行くし、収録も、案件もやるし、寝る時間、少ないけど、楽しいし、確かに、うん、それを養うから辞めてって言われたら、うん、ブチギレるわな。それは」
「……」
「月子、ごめん。もう、謝ることしかできない。ごめん」
……もっとヘラヘラしてごめーんって言うのかと思ってた。言い訳だけ並べて、ごめんねてへぺろ。許してねって。そうすれば、それをネタに別れ話に持っていけた。
でも、忘れていた。この人は西川リンだった。
こんなに、一生懸命手を握られて、必死に、誠心誠意込めて謝られたら、
(……別れ、られないじゃん……)
「いや、なんかさ、高校の頃って、もっとさ、私、気遣えたよね? なんか、配信業で生きていくってなってから、常識から外れた気がして」
「……」
「いや、だからって、ごめん、それは、もう、月子に甘えすぎた。ごめん。本当にごめん」
「撮影」
「ん?」
「明日……もう、今日か、……今日の撮影、面白くしてくれたら……許します」
「……本当?」
西川先輩が希望を見つけたような顔をした。
「撮影頑張ったら許してくれる?」
「バズりそうな素材くれたら、……はい、そうですね。水に流します」
「ああ、もう、全然やる! 楽しく、もう、全員爆笑しちゃうような感じで、やる!」
西川先輩があたしの手にキスをした。
「月子、愛してる」
「……あと、LINEを大量に送りつけるのやめてください。そんな暇あったら配信つけて数字伸ばしてください」
「たまには息抜きが欲しいんだよ。私にとって月子に連絡して、その返事を待つのも、返ってくる返事を見るのも息抜きになるの」
「だからってあんなに大量に送ってきます? 普通」
「私、普通じゃないんだろうね」
(納得してしまう自分がいる……)
「月子、ね、仲直りのぎゅーしてもいい?」
「……」
正直、ここで別れ話を出してもいい気がする。やっぱり無理です。本当にすみません。世間の目が、人の目が気になるので、これ以上仲が深くなる前に別れたいです。
本気で言ったら、西川先輩は無理に引き留めない気がする。むしろ、今までありがとうと、ちゃんとお別れを言ってくれて、所属契約も解除しない気がする。
でも、今日、あたしは彼女の手作りご飯と、寝床も用意してもらったわけで、それをすると、あまりにも相手に対しての感謝がないと思った。思った、から、
「月子?」
今日は、まだ言わなくていいや。
「……ツゥ」
あたしから西川先輩に抱きつくと、優しい手があたしの背中に触れ、優しく抱きしめ返された。
「……撮影頑張るね」
「……はい」
「……今夜も一緒に寝ようね」
「……」
「枕の壁作っていいから」
「……それなら」
「うん。……もう少ししたらお風呂入って、髪乾かして、寝ようね」
「……」
「あ、ちょっと待って。まだ、……大丈夫。良い匂いしかしないから……もう少しだけ」
それからしばらく、抱き合い続けた。




