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伊達幕府、成立する

 伊達政宗は征夷大将軍に就任すると、幕府の中心を正式に仙台においた。ここにおいて仙台は日本の唯一の中心となり、その人口は数十年後には100万を超えて世界最大の都市として栄えることになった。


 しかし東北の仙台からは直接統治が難しいこともあって、政宗は自らの子どもたちや有力な臣下を全国各地に配した。


 例えば黒田氏が移された後に筑前に長男(だが庶子)の秀宗、周防山口に宗清、福井に兄の留守政景、といった様子で全国に大領を与え、他氏を圧倒したのである。


 それとともに京都に京都所司代、大坂に大阪城代を置き、京都所司代は片倉景綱が、大坂城代は白石宗実が務めた。他の家臣も万石級の所領を与えられ、各地で大名となったのである。


 政宗が仙台で統治する一方、嫡男の忠宗は江戸で政務に勤しんだ。以後伊達幕府においては将軍は主に仙台で政務をとる一方後継者もしくはそれに準ずるものが江戸でそれを輔けるという二元支配が確立した。


 政宗は前世の家光が行っていた参勤交代の制度を導入したが、諸大名は仙台と江戸の両方に屋敷をおいて参勤しなければならなくなり、その費用面の負担は史実の比ではなかった。そのため、幕府に対しての抵抗力は早急に失われていったのである。


 その一方で京都で関白の座についた豊臣秀俊(小早川秀秋)であったが、その俊才ぶりは天下を驚かせたものの、幼いときからの酒毒が体を蝕んでおり、就任して2年ほどで亡くなってしまった。その時(まだ生きていた)の豊臣秀吉の落胆ぶりは大きなものであったが、すぐに持ち直した。というのは良い後釜がいたからである。


 それもこれも朝鮮の役が長引かなかったことが要因なのだが、一門の豊臣秀勝が病死せず健在であったのだ。そのため、秀俊の死後秀勝は速やかに関白の座に就いた。そして『仙台時代』と後に言われるこの時代において、藤原摂関家と並んで秀勝の子孫が関白を務めることになったのであった。(豊臣秀頼も関白の座に後についたのだが、数代で途絶え秀勝の系統が長く続いた。)秀吉は秀勝が関白を無事についだのを見届けてから大往生したのであった。


 風が吹けば桶屋が儲かる、というが秀勝が関白に就いたことで人生に大きな影響を受けた男がもうひとりいた。


それは徳川秀忠である。


秀忠の史実の正妻は浅井長政の三姉妹の一人で秀吉の側室、淀の方(茶々)の妹である江なのだが、その江は病死せず元気に活躍している関白豊臣秀勝の正妻として仲睦まじくしているのだ。


 いきおい浮いてしまった秀忠だったが、そこに将軍、伊達政宗から声がかかった。


「秀忠殿よ、うちの五郎八姫を嫁にもらってくれないか。」


 十五も年下で将軍様に申し訳ない、と固辞した秀忠だったが、結局政宗に押し切られて五郎八姫は秀忠に輿入れした。それにより秀忠は伊達家の縁戚となり、その優秀さもあって幕府の政務組織として組織された老中(年寄)の筆頭となり、いつしか『丞相殿』と人々に呼ばれるようになったのであった。五郎八姫とも仲睦まじく、(史実では江が生んでいる)家光、忠長兄弟など後継にも恵まれたのであった。


 徳川家康は


「なんか本当ならわしが天下を取れた気がするのだが…」


 と鷹狩をしながら時々つぶやいていたが、それに付き合っていた秀忠は


「それがしのほうはなんか怖い妻がいたような気がしまする。今は優しく美しい妻に恵まれていますが。」


 と答えた。


 徳川家康は狸につままれたような顔をしていたが、秀忠の活躍ぶりもあって『まぁまずまずか。』と自分に言い聞かせたのであった。



 こうして伊達幕府の治世は安定し、政宗は仙台城下に立ち並ぶ大名屋敷から人を招き、能を楽しむなどして楽しく過ごした。


 さて先の大乱を起こしたキリスト教など外国に対する態度であるが、敗戦後、カブラルは司祭オルガンティノらを解放してゴアへ去っていった。オルガンティノは政宗らと交渉し、秀吉は追放するべし、と主張していたが政宗の提案はそれとは違っていた。さきの戦乱にさすがの政宗も反省し、交易は前世の徳川家を真似て長崎に出島を建設して、そこでオランダやイギリスなどのプロテスタント国家を相手にのみ交易をすることにしたのである。ただしその奉行は西欧に理解がある同情的な支倉常長であり、カソリックは表向きは禁じられ、また動乱を起こさないように慎重に監視されていたものの、迫害まではされなかったのであった。

 しかし全国的にはキリスト教は禁教となった。その一方で政宗が提案したのは以下のようなものであった。


「カソリックの布教と信仰は後藤寿庵の領地である陸奥三戸の戸来にて認める。」

「それはどこでございますかぁ!」


 思わず聞いたことのない地名にオルガンティノはのけぞる。伊達政宗は続けて


「うむ。そこはな、わざわざ南部信直殿から割譲いただいて熱心なキリスト教徒である後藤寿庵に与えた地なのだ。」

「わざわざというのは。」

「そこに『キリストの墓』があるのじゃよ。」

「キリストの墓?ですと。」

「なんでも復活したキリスト様が世に教えを広めた後、戸来村にたどり着いて亡くなったそうなのだ。」

「そんなバカな。」

「しかし宣教師の伝道以前からその伝説はあるというぞ。であるからぜひその聖地にてキリストの教えを深めてもらいたいと。」


 将軍の命にも逆らうわけには行かず、追放や殉教ではなかったこともあって、カソリックの神父や信徒は陸奥戸来村キリストの墓を中心に栄えることとなったのである。


 もちろん伊達政宗も眉唾ものでは?と思っていたのだが、陸奥の奥深くで欧州とのやり取りが困難な地に置くことで策謀をめぐらしても連絡するのは難しかろう、とその案を立てたのであった。

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