巨星墜つ
再開します。よろしくお願いします。
関白(を譲りそこねて太閤になりそこねていた)豊臣秀吉は歳をとり、1598年、ついに病状が悪化した。自らの終焉が見えてきた秀吉は家康や政宗と城を並べている京よりも、自らが自らの本拠として築いた大坂城を好んでそちらに滞在するようになった。そんな時、徳川家康が大坂城に訪ねてきた。
「関白殿下、体調はいかがですか?」
家康が訊ねる。
「今は落ち着いておるが……もはやわしも長くはあるまい。」
「そんな事をおっしゃらずに殿下。誰が秀頼殿の行く末を見守るというのです。」
「うむ。秀長も先年急に身罷ったしな。なまじ南朝鮮が上手く落ち着いてしまっただけに秀俊(小早川秀秋)や加藤清正らも呼び戻せず、手元は寂しいばかりじゃ。」
「であれば某が秀頼殿をお守りしましょう。」
「おお、家康殿。それは心強い。伊達の政宗では歳が若すぎて次を秀頼に回してもらおうにも難しそうでなぁ。」
「ではここにご署名と花押を。『家康に後のことは任せる。』と。」
そこには豊臣家の全ての権利や所領、配下を家康に委ねる、とあった。しかし病で目も閉じることが難しくなった秀吉は家康に読んでもらった『秀頼を守る。』の一文のみを信じて署名し、花押を記してしまったのである。
秀吉が書を家康に渡した直後、家康は立ち上がるとポンポン、と手を叩いた。
すると完全武装の徳川兵がズカズカと入ってきた。
「家康様、下知を。」
「うむ。天下の英傑、豊臣秀吉様がたった今世を去られた!これは『家康にすべてを任せる。』との関白殿下の遺言である!」
と書を掲げた。秀吉は
「馬鹿な、わしはまだ死んではおらぬ……ぐゎあ!」
とその腹には深々と槍が刺さっている。家康は倒れた秀吉を見下して
「秀頼公はお守りいたそう、しかし守った上で守りきれずに死んでもそれは世の定めよ。」
「家康ぅぅ!!」
と恨めしげな目を向けつつ秀吉は絶命した。家康は直ちに
「秀吉様は流行病で亡くなられた。病の伝搬を防ぐため直ちに荼毘に付す。」
と命じて秀吉の遺体を素早く木棺に収めると、血の跡の付いた布団も詰め込み、庭に運び出した。そして入念に油をかけると灰も残らぬほどに焼き尽くしてしまったのである。
それから家康は引き連れてきた兵を素早く指図し、大坂城を徳川兵で占拠した。ここに至ってようやく秀頼とその母の淀の方は変事を感じて出てきたが、そこには鎧兜に身を固めた家康が待ち受けていた。
「秀頼様。これからはこの家康を父と思いお過ごしくだされ。これが父上から家康が託された証拠の書状です。」
と秀吉の花押を見せる。
そして早急に大坂城の金蔵を掌握すると、秀頼の名代を名乗って秀吉の領分に盛んに書状を送り、差配をはじめたのである。
その際、大坂城に兵を置いていなかった毛利輝元は疑念を抱いたものの、秀吉の花押の入った書状を見せられて引き下がる他なかった。家康はまず、朝鮮からの諸将の撤退を命じた。
「南朝鮮の経営はうまく行っておりますれば、抑えの将を置いたほうがよろしいのでは?」
と聞く石田三成に対して
「今は国内を固める時なれば、諸将を帰国させるべし。」
と家康は譲らなかった。
「それでは名代を勤める小早川秀秋様は帰国しても所領がありませぬ。朝鮮の総督をするほどの仕事をしておりますれば。」
となおも長束正家が訊ねると、
「元々豊臣の跡取りとされていた方なれば豊臣に復姓していただき、聚楽第に戻っていただいてはいかがであろう。」
と答えた。
結局南朝鮮への軍勢はその殆どが引き揚げた。日本軍が引き揚げると南朝鮮王は直ちに明への朝貢を行い、廃絶や侵攻はひとまずまぬかれたのである。また朝鮮の役に兵を割かなかったため明の兵力にはまだ余力があり、後の清の太祖ヌルハチの華北への侵攻は史実よりも遅れ、明の命脈は今しばらく保たれることになった。
帰国した諸将はなまじ朝鮮での経営が軌道に乗っていただけに不満げな者が多かった。総督の小早川秀秋は家康に強く勧められたが、
「秀頼殿がいるので。」
と復姓は拒否し、ただ豊臣家親族の重鎮として秀吉の遺領から山城、丹波が与えられ、聚楽第に居城した。毛利輝元も徳川との協調を選んだ。黒田孝高は朝鮮からの引き揚げ勢の出迎え、などを理由に所領が多忙と九州に引き、島津義久はそれこそ朝鮮に直接兵を送っていたためその後始末を理由に国元から動かなかった。
ただ双方とも徳川家康が秀吉の権威を代行する、ということに表立った反対の意思は表せず、むしろ祝の使者を送ってきてはいた。
「さて、こうなると後は伊達の小僧だな。」
大坂城の天守で家康は東を睨んで言う。
「わしが天下の大老となっても祝の使者一つよこさん。関東と奥州に引きこもり通しじゃ。」
「中央に顔も出さないというのは天下を投げ出したのでしょうかな。」
と本多正信が答える。
「しかし若く、鎮守府将軍(あえて家康は『大将軍』の呼称を避けた)でもある政宗が屈しなければ天下は一つにまとまらぬな。」
「はっ。」
「かくなる上は軍勢を率いて伊達に天下の責任を詰問せねばなるまい。」
「御意。」
こうして徳川家康は秀頼に『天下静謐のためには態度を明らかにしない政宗を糺さねばなりません』と同意をさせ、『天下』の名目で大阪で挙兵した。
旧豊臣秀吉配下の諸将を招集した家康であったが、加藤清正・福島正則の両将は
「朝鮮帰りの始末すら終わりませぬ。」
と領国から動かず、結局九州の諸将はほとんど来なかった。家康は朝鮮の役が終わってまもなくなのでやむなし、としつつも四国の長宗我部信親や仙石秀久が参陣したのと比較すると、と爪を噛んだ。
毛利勢はその兵力を3万以上動員し、徳川勢と並んで主力となっていた。また小早川秀秋も『豊臣家の戦だから』と説得され、1万5千と所領を考えると限界に近い兵力を動員していた。毛利や小早川と並んで主力を期待されたのは前田利家であったが、『上杉成実に相対する必要がある。』と畿内には兵を出さなかった。大谷吉継は信濃から帰らず、結局旧豊臣の諸将のまとめ役となったのは……石田三成であった。




