第一次関ヶ原の戦い
天正13年(1585年)12月初旬の払暁、霧のかかる関ヶ原を井伊直政の部隊が先陣を務めるべく、西軍の正面に布陣する豊臣秀次の陣を目指して前進していた。両者が接触するばかりに近づき、井伊隊は鉄砲を撃ちかける。それに対して豊臣秀次は
「防戦に努めよ!殿下が到着するまで攻勢に出てはならぬ!」
と厳命し、井伊の攻撃に対してよく耐えていた。しかし、その時井伊隊の脇からするすると『無』の旗印を挙げた一隊が出てきた。
「秀次の臆病者!引きこもっていても秀吉にまた怒られるだけだぞ!ばーかばーか。またひっ捕らえて今度は猿の檻にでも入れてやろうか。」
と罵詈雑言の限りを尽くすその大将は、榊原康政である。
「おのれ言わせておけば!もう構わん!とりあえずあのバカをひっ捕らえたら戻ればいいだろう!全軍押し出してアイツを捕らえろ!」
と周囲が静止するのにも構わず進軍を命じた。西軍は馬防柵の内側に立てこもっていたのを止めて前進を開始する。秀次の正面に当たるのは井伊直政の隊であるが、直政は猛攻を繰り出す秀次隊に対してジリジリと後退をしていく。
「うはははは!何が海道一の弓取りだ!押せ!押せ!南宮山と松尾山の毛利勢にも進軍して狸を討てと伝えよ!」
下がっていく井伊隊を前に笠に着て攻めかかる豊臣秀次である。それに釣られて秀次麾下の田中吉政、山内一豊などの諸将も前進する。
「島津の率いる左翼の九州勢の侵攻が遅いが。」
と秀次が気にかけた。
「島津義弘様はひきいる兵数も少なく慎重になっておられるのかと。」
「うーむ。笹尾山の大谷吉継はなぜ攻めないのだ。」
「使いを送りましたが、『殿下の命令に従うのみ』と。」
「今が好機ぞ!重ねて前進の使者を送れ!」
そこに京から早馬でやってきた石田三成が本陣に駆け込んできた。
「秀次様!殿下の命令は持久戦だったはず!ここは一旦兵をまとめて防戦に戻るべきかと。」
「治部(三成)お主はやっぱり戦というものがわかっておらぬ。今が攻めどきなのは明白であろう。お主もなかなか動かない大谷や小早川に対して使者として赴くのじゃ。」
『……これはまずい予感が……野戦では最強と言われる徳川に鉄砲狂いの伊達までいるのだぞ……』と石田三成は心のなかで汗をかいた。
「某は大谷吉継殿の所に言ってまいります!」
と言い残すと石田三成は急ぎ笹尾山に向かった。三成は笹尾山にたどり着くと大谷吉継の本陣へ入った。
「吉継殿!」
「おお、三成か。見ての通り、秀次様は押しているが……」
「まずいな。」
「うむ。井伊を押し込んでいるのに側面の松尾山から小早川が出てこない。家康の本陣はほぼ無傷だ。しかも南宮山の毛利勢も動いていない。」
「まともに戦っているのは秀次様の直卒の兵のみだな。」
「なれば徳川・伊達のほうが余力があろうよ。」
「毛利め、何を考えておる。」
「ここはひとまず上杉の猛攻をしのぐのみだな!」
と大谷隊は上杉、真田の攻撃を耐える。その頃南宮山では安国寺恵瓊が吉川元春に詰め寄っていた。
「元春様!今出陣すれば徳川家康の背後を襲えますぞ!なぜ動かぬ!」
「……戦のことがわからぬ坊主は黙っていよ。俺は今弁当を食うのに忙しい。この鮭が旨くてな。」
「鮭……元春様まさか。」
「俺は知らんよ。しかしこの鮭は美味いなぁ。生きていてよかった。」
と吉川隊は動く様子を見せなかった。
秀次はなおも井伊隊を後退させ続けた。そしてついに徳川家康の本隊の旗幟を視界に捉えられるようになった。
「皆のもの!狸は指呼の間にあり!いまこそ小早川に合図を!」
と号令する。すると、後退していた井伊が2つに割れ、間から漆黒の武将を中心とした純白の部隊が現れた。
「秀次様いらっしゃーい。」
と漆黒の鎧の面頰からコー、ホー、と呼吸音をさせながらその部隊の大将は言った。
「撃て。」
左右に展開する純白の歩兵はことごとく銃を装備していた。その数千の銃が一斉に射撃を開始し、秀次の軍勢の勢いは一気にせき止められた。
「あの呼吸音!伊達政宗か!こんなところで!構わぬ。進め!」
と秀次は号令するも、伊達の濃密な弾幕は途切れることがなく、そこからは進めない。
「さて、ここで鉄床の役目は果たしたな。では金槌に登場していただこう。」
と伊達政宗は松尾山の方を見て、空砲を撃たせた。
すると松尾山が動いたように見えた。山が動いた、と感じたのは松尾山に陣取る小早川勢が駆け下りてきたからであった。
「おお、小早川隆景殿が援軍に動いたぞ!これで伊達を粉砕……はぁ?」
と味方だと思っていた豊臣秀次に小早川隆景隊が襲いかかったのである。
「秀次様、ここは一旦退却を……うわぁ!」
なんとか秀次を守ろうと前野長康が田中吉政と山内一豊に命じて下がらせ、自らが小早川隊の攻撃を引き受ける。
しかし正面の伊達の射撃で怯んでいた秀次の隊は側面からの小早川勢の攻撃にすぐに壊乱状態となった。そして前野長康は小早川隆景を『人面獣心なり』と言い残して討たれてしまったのである。
笹尾山の大谷吉継と石田三成も戦況不利と見るや撤退を開始した。散り散りになりながらもどうにか退却に成功したのであった。
豊臣秀次も多大な損害を出しながら退却・逃亡には成功した。そして島津義弘は
「こうなってはやむをえん。家康殿に挨拶をご馳走しよう。」
というと配下を率いて正面に進軍をはじめた。全滅もやむなし、と座禅陣で退却を考えていたが、家康の陣に近づく前に伊達政宗の陣の前に接近した。側面へ展開していた井伊直政が早速追撃しようとしたが、政宗がそれを制するように使番を送り、みずからは島津義弘のところに直接出向いた。
「政宗殿か!敵味方となっては是非もない。我らはここで一戦しようかとおもうのだが。」
と島津義弘が言うのに対して政宗は
「あいや待たれよ。貴殿が関白に与したのは島津の意志ではなく、たまたま上洛していたからでろう。」
「その通りだが……こうなっては。」
「見ての通り毛利も関白の先行きに不安を感じて我等と通じていたのよ。今頃輝元殿も大坂を引き払って四国にいるはず。」
「なんと。」
「ここは我が引き受けるから義弘殿も部下をむざむざ殺すことなく引かれよ。」
しばらく思案した後、島津義弘はその提案を受けた。
「かたじけない。」
井伊直政がここは討つべきだったのでは、と言ってきたが
「命拾いしたのは貴殿の方よ……」
と政宗は言ったのであった。
関ヶ原での豊臣秀次の敗北は、豊臣勢を東海から駆逐する結果となった。豊臣秀吉はその直卒の兵を率いて瀬田まで進軍していたが、逃げ帰ってきた石田三成達の報告を聞いて進軍を止めた。そして毛利勢の裏切りを聞くと、毛利輝元に四国へ出発するのを認めたことを地団駄を踏んで後悔した。もはや自らの力が及ぶのは畿内と北陸、四国に限られる事になったのであり、今回離反した諸侯も合わせると自らよりも彼らの勢力のほうが上回っているのは確かであった。
「……家康と政宗に使者を送れ。京で今後について話し合いをしたい、と。」
そして双方は停戦した。まもなく年が明け天正14年(1586年)となった。秀吉は京に急ぎ聚楽第の建築を始め、ひとまず仮ながら使用できるようになった時点で諸侯を招いた。諸侯は大軍を率いて上洛し、京の街は兵卒で埋め尽くされた。京都の人々は
「関白様が城を築かれたと思いきや、この様子。また応仁の乱の再開か。」
と畏れた。そして聚楽第で諸侯の話し合いがもたれたのである。




