大阪に諸将は……
天正13年(1585年)夏。豊臣秀吉は関白太政大臣となった。奥州は伊達、東海は徳川、中国は毛利、九州は島津が覇権を握り、畿内と四国を制した秀吉は諸侯と連絡を取り、今後について話し合おうと呼びかけた。毛利はすでに従属的な態度をとっており、他の諸侯が応じれば全国に秩序がもたらされるはず、であった。
しかし秀吉の元には悩ましい報告が次々と入ってきたのである。
「徳川家康殿はまだ江戸を蒲生氏郷に引き渡さぬのか。」
秀吉は語気を荒げて石田三成に尋ねる。
「はっ。それが工事途中で撤収に時間がかかるだのせめて信長の菩提寺として本応寺を再興したいだの色々と理由をつけて江戸を引き払わず、蒲生様は行く所に困って川越城に入ってずっと待ちぼうけだとか。」
「家康め、本当に江戸を渡すつもりはあるのか。」
「ここはあらためて真意を問うべきでしょう。」
家康本人から弁明を聞きたい、という意志もあり、秀吉は全国の諸侯に号令して大坂城に集まるように呼びかけた。当然徳川家康と伊達政宗もその対象である。諸侯とのやり取りには存外時間がかかり、ようやく各国から大阪に出向いてきたのは秋の始まりぐらいになっていた。
しかし、その集まった面々をみてまた秀吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
秀吉は確かに大名本人を今後の方策を話し合うために、と呼んだはずなのだが
「島津家から参り申した。島津義弘でごわす。」
……島津はまだ良い。当主義久ではないとはいえ次弟で軍事の実権を持つと言われる義弘が上洛してきたのだ。毛利は当然当主の輝元とともに両川と呼ばれる吉川元春と小早川隆景が来ているし、長宗我部も当主の信親が来ていた。大友宗麟も筑前、豊前、豊後の支配を守るためか立花宗茂を引き連れて来ている。しかし東国はなんだ、と秀吉は思った。
まず徳川家康がいない。秀吉の前にいるのは言い訳で汗だくになった石川数正である。四天王か息子ぐらいは来るかと思いきや、数正に付いているのは本多重次と大久保彦左衛門となんとも微妙な格の武将たちである。上杉も当主の成実はおろか一門の景勝すら来ていない。佐久間盛政を匿った件だけでもなんとか赦したのに、今度は越中から逃亡した佐々成政まで匿っているという。その上その越中に進んだ前田利家の動きが不穏、との理由でいつの間にかしれっと帰参していた直江兼続が元々譜代でござる、というようなずうずうしい顔をして来ているだけだ。関東・北陸の諸将も似たようなもので、真田は上杉の寄騎とみなして呼んでいなかったのだが、なぜか次男の信繁が来ており、当主の氏直を呼んだはずの北条家も先代の氏政もおらず、叔父の氏規というこれまた微妙な顔ぶれ。佐竹も義宣ではなく、一門ということでなんと岩城常隆を送ってきた。
「……お主ら、来てくれたのは歓迎するが、この関白秀吉、当主にお願いしたはずだが……」
と見ると陸奥の諸大名もいない。当然ながら伊達政宗もいない。
「陸奥・出羽はどいつが代表なのじゃ!誰も来ないということはわしに逆らうつもりか!」
と声を荒げた秀吉の前に現れたのは京で学んでいた後藤寿庵8歳を引き連れ、白装束に金の巨大な十字架を背後に背負った伊達政宗であった。
後藤寿庵は秀吉に告げた。
「控えなさい。この方こそが日の本を救うデウスの化身、月の使者、伊達政宗様であります。」
「そこの餓鬼!何を言い出すか!」
切れる秀吉。それを政宗は
「ほらこんなことをすれば怒られると言っただろう。」
と後藤寿庵を叱りつける。寿庵はしゅんとすると
「大眼様の化身としてはぴったりだと思ったのですが……」
としょげる。
「関白様、お許しください。なにぶん子供の戯れであれば。」
と十字架をおろし、平伏する政宗。寿庵に手で合図をして下がらせる。
「……ならばしかたないか。しかし肝が冷えたぞ。」
と気を取り直す秀吉。
「東国から主なものは貴殿のみ、ということは貴殿が東国の総意と見てよいのか。」
と政宗に尋ねる。
「御意。」
「ならばまず家康が江戸を渡さないことについて伺おう。」
「江戸は低湿地で水の便も悪く、家康殿はそこを良くしようと水道を作り、入り江をの埋め立てをしております。その辺りが片付かないと、ということでは?」
「ではそれはいつまでかかるというのだ。」
「3-5年ぐらいはいるかと。」
と政宗はしれっと答える。
「それまで蒲生に待てと言うか。」
「さぁ。」
「さぁ、とはなんだ。」
「そもそも殿下は我らをどうなさるおつもりで。」
と政宗が聞いてくる。
「よもや信長公のように米沢だけで満足しろとは言いますまいな。」
「ち、鎮守府大将軍殿をそのようにはできまいよ。」
とちょっと目を泳がせながら秀吉はいう。
「しかし関白と鎮守府大将軍、両雄並び立っては日の本は狭くないか?ここは日の本の安寧のため、奥州も我が奉行と相談して……」
「それはお断りいたす。」
と政宗は言った。
「殿下とは殿下が織田の取次をなさっていたときからの仲。できれば今後とも仲良くしていただきたいのですが。」
「信長公のように過大な減封を押し付けるつもりはない。」
「それはありがたきお言葉。」
「しかし奥州諸侯を今のように貴殿が取りまとめる、というのもまた力が強すぎるであろう。東海を支配する徳川もだが。」
「であればいかがいたしますか?」
「形として我が配下に徳川殿共々入っていただけないだろうか。」
「我らにそれでどのような利が。」
「豊臣家と戦って滅ぼされないですむぞ。」
と言って秀吉はニヤリと笑った。
「いやぁ、それはきついですな。」
と政宗もニヤニヤしている。
「ではここは戦で決着を付けますか?」
と石田三成が突っこむと
「それもいいかもしれませんなぁ。」
と嘯く政宗。
「では某は一旦帰らせていただきます。」
と席を立とうとするので
「待て!ここで頭を下げれば殿下はお主を許すのもやぶさかではないと思うぞ!」
と石田三成が声をかけるが、
「是非も無し」
といい残して出ていこうとする。
「では我らも……」
と東国諸将の使いも席を立つ。
「こうなってはここで討つのもやむを得ないのでは?」
と秀吉の家臣、増田長盛が進言するが
「いやここで手を出しては卑怯の誹りを受けよう。」
と秀吉は制した。
「しかし伊達政宗は許せぬ。今晩宿所を囲み、討つのだ。」
と密かに命じた。その番宿所を取り囲み、政宗と目される人物を討ち取ったが、
「……影武者でございました。」
との増田長盛の報告を苦虫を潰すような顔をして聞く秀吉であった。
「やむを得ん、東国を攻めるぞ。徳川を押しつぶし、関東ぐらいまで侵攻すれば伊達も態度を和らげよう。信長公の二の舞にならぬように深入りせず、一歩一歩固めながら進むのだ!」
と西国の諸将に出陣の陣触れを出し、まずは尾張、信濃から、と兵を集中させた。そしてそれは準備に時間がかかったので11月も末が近い日となっていた。
「ではまず徳川を攻める!者共!出陣じゃ!」
と10万の軍勢を率いて号令した秀吉の足場が揺らいだ、と思うと巨大な地震が軍勢を襲った。それは11月29日の事である。世にいう天正大地震が起きたのであった。
来なかった。




