九戸政実、策を弄すも踊らされる
天正4年、仙台城の作事は進み、ひとまず主な施設が利用できるようになった。
伊達陸奥守政宗は居城を米沢から仙台に移したのである。米沢から仙台への伊達家本拠の移動は奥州諸氏に新たな緊張をもたらした。米沢が出羽の山を超えた向こうにあるのに対して仙台はまさに陸奥を縦横に行き来するのに向いていたのである。
そしてその影響を最もはっきりと感じていた大名の一つに陸奥、三戸の南部家があった。三戸南部当主である南部晴政は一族の統制に成功し、「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた津軽から不来方に至るまでの広大な領土を作り上げた。南部晴政は嫡男に恵まれず、娘を叔父石川高信の嫡男石川信直と、南部家庶流、九戸家の九戸実親、そして重臣の北信愛に嫁がせ、石川信直を南部信直と名乗らせ、嫡男としていた。しかし元亀元年(1570年)実子の鶴千代(南部晴継)が生まれたことで事態は流動的になった。後の豊臣鶴松の事を考えても、老いて生まれた実子に『鶴』と付けるのは実はまずいのかもしれない。
実子の鶴千代に家督を継がせたい、と思った南部晴政は信直を疎んじるようになった。そのため南部家は大規模な軍事行動を取りづらくなり、その隙を突かれて南部信直の実父、石川高信の居城、石川城を大浦為信に攻め取られてしまったのである。大浦為信は石川家を継いだ信直の弟、石川政信に妹を妾として差し出し、油断していた政信を毒殺し石川城を奪取した。石川高信は幸い信直を三戸に訪ねてきていたために無事であったが、津軽の諸城は次々と攻め落とされてしまった。そもそも大浦為信が自由に行動できたのは、三戸における南部晴政と南部信直の確執によるものであったが、晴政とそれに与する九戸実親とその実兄九戸政実は、公然と石川城や津軽の失陥は石川家の責任と詰った。信直はそれに対して三戸が手をこまねいたのが原因と反論したが、両者の間の溝は修復不可能な程となった。
元亀3年(1572年)には、川守田村の毘沙門堂へ参拝した晴政に対し、南部信直は手勢を率いて襲撃し、鉄砲で狙撃し晴政を落馬させ、またそれを介抱していた九戸実親にも撃ち当てる事態となった。そして天正4年(1576年)、信直の正室(晴政の長女)が早世すると、身の危険を感じた信直は晴政の養嗣子の座を辞退し田子館に引き籠もり、刺客を避けるために北信愛の居城や八戸根城を渡り歩き身を隠していた。ここに至って南部晴政は信直を廃嫡し、数えでわずか7歳の鶴千代を元服させて晴継と名乗らせ、家督を譲ると発表したのである。
南部晴政から晴継への継承は本拠、三戸城でしめやかに行われた。南部信直はもちろん出席しなかったが、信直に近い家老、北信愛は出席し、晴継の烏帽子親となった。儀式が終わると、北信愛は挨拶をしてそそくさと立ち去った。
「北信愛は何を急いでいたのであろうか。今日ぐらいゆっくりしていけば良いのにな。」
南部晴政は晴継への継承がなっためでたい場で、機嫌よく酔っていた。しかしその酔いを覚ます一報が物見から飛び込んできた。
「殿!城が囲まれております!旗印は丸に向かい鶴胸に九曜、信直殿の手勢です!」
「なに、どうせ無勢であろう。返り討ちにしてくれよう……ひっく。」
足元がふらつきながらも南部晴政はまだ余裕でいた。しかし
「信直のみならず、北信愛、南長義、八戸政栄はじめ当家の重臣共が犇めいております!謀反です!」
いくら名将で知られた南部晴政でもこう取り囲まれてしまっては無勢である。酔いがいっぺんに冷めて
「いかん、急いで秘密の抜け穴から脱出するぞ。信直には知らせておらんから大丈夫だ。」
と城から辛くも脱出した。
「お父様、どちらに向かわれるので?」
まだ幼い晴継が心配そうに晴政に聞く。
「九戸だ。いざという時は九戸政実に頼るように約束していたのだ。」
いち早く三戸から離れて九戸に向かう一行。暫く行くと先方に軍勢が見えてきた。
「南部晴政様とお見受けいたしますが。」
「おお、九戸の手のものか。よろしく頼む……?」
相手は確かに九戸の兵であったが、晴政を取り囲んで弓を構えている。
「これはどういうことだ?」
「殿と大殿(晴政と晴継)が亡くなれば遺言では後を継ぐは我らが一門、九戸実親なれば。」
「よせ!わしがいてこその九戸に南部のものは従うの……ぐぁ!!」
南部晴政と晴継は針鼠のようになって討ち取られた。翌日、発見された晴政・晴継親子の遺体を巡って南部信直と九戸政実の間で互いに非難合戦が行われた。
「三戸城を信直の軍勢が囲んだのは皆が知っておる。そこから逃れた晴政様に追手を出して信直の手のものが討ち取ったに違いない。」
といけしゃあしゃあと言い張る九戸政実。
「わしは晴政殿に意見しようと思って囲んでいただけだ。害する気はない。貴殿がこれ幸いと野心を叶えるために討ち取ったのであろう!」
と三戸城を攻撃するつもりが本当になかったかどうかは怪しいものであるが、南部信直も反論した。双方の意見は平行線であり、ここは一旦お互い兵を引く、ということで九戸城に引き上げた九戸政実・九戸実親兄弟が見たのは燃え上がる九戸城とその前に控えている大軍勢であった。
「……紺地金日丸。伊達が何故!」
「信直殿の身が危ういと聞いて飛んできたのよ。」
伊達政宗の出で立ちは漆黒の仙台胴に、三日月。政宗が特に重視した戦で度々付けた異相である。三角形の頬当てからはコー、ホー、と息が漏れている。政宗の左右には純白の鎧をつけた銃を装備した歩兵、晴嵐徒士隊と名付けられた直属の護衛が固めていた。
「その出で立ち、伊達政宗か!貴様何をした。」
「もう遅い。お前達の帰るところはなくなった。」
九戸城は紅蓮の炎をあげ、すでに焼け落ちる寸前であった。
「なぜ!」
「我銀河奥州帝国の理念に南部信直殿は賛同してくださった。我ら伊達は信直殿を援助し、それに背く不逞の輩を討伐したまでよ。」
容易に九戸城を落とせたのは九戸政実の兄弟で、南部信直と親しい中野康実が手引したためであった。九戸政実は悪鬼の如き表情となって
「おのれ伊達ぇ!信直を唆したのはおぬしかぁ!」
「信直殿が囲めば晴政殿が九戸に向かう、と貴殿はどこで聞いたのかな?そしてどうして晴政殿や晴継殿を殺害しよう、と思いついたのかな?」
「それは間者共の情報で南部宗家の弱体化を突けば今が好機と……まさかお主図ったのか!」
「君に恨みはないが君の生まれが悪かったのだよ。」
「謀ったな!謀ったなぁ!」
必死の突撃をしてくる九戸勢に対して手を振り下ろした政宗の号令下に放たれたのは手持ち大筒、『星殺し』の一斉射撃であった。その雨霰と降る散弾に九戸の将兵は倒れ、実親もまた犠牲になった。しかし九戸政実は乗馬に乗ってひらりと躱し、近場の崖を乗馬したまま駆け上がると鹿ですら通れないようなところを安々と走り抜けていく。
「まるで天を駆けているようだ……」
「なんたる勇士、何たる技量……」
むしろ見とれている伊達の軍勢に対し、後藤信康が慌てて号令をかける。
「逃すな、撃て!撃て!」
次々と放たれる銃弾を九戸政実はひらりひらりと躱していく。しかしその先に待ち構えていたのは鮭延秀綱率いる別働隊であった。
「いらっしゃい。」
包囲された九戸政実であったが、古の項羽のように鮭延隊に突入し、近づくものを手槍で仕留めて強引に突破を図った。
「九戸政実、ここまでやるとはね。しかしこれでおしまいだ。」
だんだんと疲れを見せ始めた九戸政実ではあるが、鮭延隊を斬り抜け、馬渕川のほとりまでたどり着いた。伊達勢は政実を取り囲んだが、攻めあぐねて遠巻きしていた。政実は小舟を見つけて対岸に渡ろうとしたが、対岸に篝火が上がり、信直の軍勢が着陣したのを見て取った。
「もはやこれまでか。そこのもの、相手になれ。」
とそこに着いた後藤信康を指差した。身なりから名のある武将と判断したのであろう。
「伊達家臣、後藤信康、参る。」
「九戸政実だ!いくぞ!」
幾合か切りあったものの、そこまでの連戦で疲弊していた九戸政実の胸を後藤信康が突き刺した。九戸政実は近くにその勝負を見守っていた伊達政宗の姿を見て取った。
「伊達殿か……最後に鉄砲で処分することなく、勝負させていただけたことを感謝ス……」
こうして後藤信康の手で九戸政実は討ち取られた。
たどり着いた南部信直と伊達政宗は近くの龍岩寺に場を取り、対面した。
「南部信直様、この度は南部家総領となられましたこと、祝着至極であります。」
政宗は挨拶をした。
「義父の不幸もありましたがありがとうございます。おかげで逆賊九戸を容易に討ち果たすことができました。」
と南部信直が返礼した。これにより南部信直は九戸家など晴政の勢力下にあった諸族をいち早く排除に成功し、南部家は信直の意思のもとで統一された。
「では我々は大浦、安東など北方を制することを目指します。」
「これから南部と伊達、共に奥州の安寧のために手を携えてまいりましょう。」
「政宗殿との約定のとおり、政宗殿の望みに従い、南部も兵を出しましょう。」
「ありがたきお言葉。では我らが境は『高水寺、稗貫は南部の切り取り次第』『和賀は伊達の切り取り次第』で。」
「相わかり申した。三戸は北辺に近く、伊達殿のおすすめの通り九戸に組みした福士氏の不来方を接収して南方経営の拠点にしようかと。」
こうして南部信直と伊達政宗はにこやかに同盟の約定をし、別れた。
……伊達政宗はこっそり、本来ならば後に南部領だった和賀郡を自分のものとして掠め取ってほくそ笑んでいたのである。
2000ポイント突破本当にありがとうございます!




