あとのまつり
パソコンに向かうと、いつもよりも集中力が切れる。打ち込む度にいちいちキーを探すからか、改行や段落をつけるのにも戸惑うからかは分からないが、気持ちだけ先行してイライラする。
とはいえ、早めに原稿を仕上げれば、予定より早く出版してもらえる可能性も出てくるのだ。それならば、億劫さや気怠さは手を止める理由にはならない。
晴明だって、出版日にすぐ茜と再会できるとは思っていないのだ。それから何年、いや、何十年も待たされるかもしれない。それでも、一日でも早く会って、一緒に特売のポテトサラダを食べたい。そして、俺たちのサラダ記念日だな、なんて冗談を言いたいのだ。
空咳が何度か出たので、ふと席を立った。そういえばあまり飲み物を口にしていない。
ちみちみ飲みながら作業できるようにと、少し歩いて自動販売機で緑茶を買った。普段は買わないので気がつかなかったが、こんなところにまで増税のしわ寄せが来ている。晴明はバス移動が多くてただでさえ寂しい財布から小銭をじゃらじゃらと出して、できるだけ大きいのを買った。
ペットボトルを軽く振りながら鬼灯荘を歩いていると、遠くの方から子供が歩いてくるのが見える。
もし、俺とリサが結婚なんてしちゃったら、茜はずいぶん大きな娘だな。と、勝手に妄想して、小さく笑った。
緑茶を口に含み、また画面に向かう。すると、今度はお腹が鳴った。
晴明は苦笑し、昨日の夕飯の残りを食べた。
未だに、時々二人分作ってしまう。そんな時は翌日の昼食なり夕食なりになるのだが、食器の音と咀嚼音しかしない食卓は、好きになれない。
前は一人で食べるの、何ともなかったのにな。そうやって感傷に浸ると、同時にやる気が湧いてくる。
今の作品さえ完成させてしまえば、こんな日常も一発逆転、木漏れ日の射すような日々が帰ってくるのだ。
晴明はキュウリの浅漬けをぽりぽりと噛みながら、あのキーボードと単調な画面に向かう覚悟を固めた。
気がつけば緑茶は半分ほどに減り、原稿もそこそこ進んでいる。晴明は一休みすることにし、壁に凭れて体を起こしたままうたた寝をした。
窓の外の音が聞こえる。
微睡み。
深い白。
脱力。
カーテンが晴明の視界を占領したかと思うと、またどこかへ消えていった。
黒板だ。見渡せば木製の机がずらりと並んでいる。教室の様子からして、ここは高校らしい。
ははあ、どうやら俺の記憶から高校時代の夢を作ったんだな、と晴明は思った。
時々、夢の中でこれは夢だと分かるときがある。
今回はその口だった。
「では、自己紹介をしてください。」
どうやら都合が良いところだけ適当に切り取っているらしく、何の脈絡もなく担任が言った。
次々と人が立っていくが、晴明は彼らのことをあまり良く覚えていない。
話した記憶もほぼないし、考えてみたら成人式の時も顔を見ても名前を思い出せず冷や冷やしたのだった。向こうは晴明たちのことを何故か良く覚えていて、少し申し訳なくなったのは覚えている。
何故か夢の中では―でたらめかも知れないが―みんなきちんと自分の名前と趣味を言えている。
深緋が立ち上がった。
「深緋 怜美です。趣味は……ないです。」
そう言ってすぐに座る。
数人の男子生徒がざわついた。実は、晴明もその一人だった。
まさか自分が孤立する側だとは思ってもいなくて、この「ヘンな人」を呑気に楽しんでいたのだ。
興味はそそられる。しかし、近づいてはいけない……。
森の長老的存在になった熊が罠の匂いを嗅ぎ付けるように、晴明は自然に深緋を忌避することにした。
気づけば、自分の前の席の生徒が立ち上がっている。次は……。俺か。
晴明はどうせ夢なのだからと、特に何を言うか考えていない。
とはいえ律儀に立ち上がり、名前と、趣味は無難なものを言って座った。
教室はしんとしている。
夢とはいえどこか背中が冷えるのを感じる。この空気感。未だに苦手だ。
晴明から数人が立ち、明音が立ち上がった。人並みより少し整った顔が薄く微笑む。それは少しだけ、初対面の人には冷たさを孕んで映った。ポニーテールが、揺れる。
「牧、明音です。趣味は……特にないです。」
明音はクラスをさっと見回し、席についた。
今度は、誰も何も言わなかった。晴明も、異質なものを感じこそしたが、何も言えなかったものだ。
声を出せば、彼女というガラス細工にヒビを入れてしまう気がした。彼女の自己紹介というものは、この沈黙も含めて完成品なのだ。そんな気がした。
夢の中で、晴明は初めて瞬きをした。
随分と長く目を瞑って。
目を開けると、目の前にいる人が変わっている。
朧気ながら記憶を呼び起こすと、確かこれは初めての席替えの後だ。
隣の席を見ると、明音が座っている。こちらをちらりとも見ない。
晴明は胸算用して、教卓の目の前の席を見た。やはり、深緋が仏頂面で座っている。
懐かしい。俺たちはみんなひとりだったよな。ひとりなのに、他の2人と関わろうともしなかった。
だけど。
「晴明くん……次、移動だよ?」
手を引いてくれたのは、あなただった。
どうして名前覚えてるんだろう。下の名前で呼んでくれるんだろう。
晴明はそう思いながらも、熱に浮かされたかのように立ち上がることしか出来なかった。
深緋は他の人と交わらないようにいつも一番最後に教室を出ていたから、二人の様子を不機嫌そうに見ている。
「あっ、怜美ちゃんも、一緒に行かない?」
深緋は、戸惑ったように瞳孔を右往左往させた後、黙って頷いた。
どうして、この人は一人なんだろう。
晴明はますます不審を強めたのを覚えている。
きっと、今まではそうではなかったのだ。高校に入ると、どうしてだかこうなった。
色鮮やかなグッピーが海に放られた途端色を失うように。
廊下に何故か地平線が見える。進んでも進んでも終わらない。
歩けば歩くほど、仲良くなってからの会話になっていく。
「今度の桜祭り、行く?」
「いや……俺はいいや。」
「私も遠慮しておきます。」
「そう?じゃあ、お餅持っていくね!
いつもの公園で食べようよ!気分だけでも味わいたいし!」
「次、小テストか……。
生物に小テストなんていらないだろ……。」
「ほんとですね。」
「ほらほら、アッキも、こきちゃんも元気だして!
それ終わったら~……お昼御飯だよ!」
教科書を抱えて、他愛もない会話をしながら歩く。
不意に、足元ががくん、と下へ落ちた。
床が無くなったのだ。
急に体を襲う落下感。
晴明は体をびくっ、とさせ、目を覚ました。
「あー……。」
思ったより眠っていたらしい。
口の端から垂れた唾を拭って、キーボードの前にまた座った。
余談ではあるが、桜祭りはもう行われていない。




