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もしもし、聞こえますか?  作者: クインテット
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16時の看護士

 Aはまだ5歳くらいの子供だ。にもかかわらず、見舞いに来るものはいない。医者も何度連絡しても両親が一度も病院に来ないことを(いぶか)ったが、このまま放り出すわけにもいかない。

 治療費を踏み倒されなければ良いが、と口の中でぶつくさ言いながら、麻酔が効いて意識のないAを担架(たんか)で運んだ。

 Aは看護士の号令で持ち上げられ、リネンのベッドの上に下ろされた。未だ意識はないが、口角は上がっている。

「それで?両親から折り返しは?」

 担当医は耳をかきながら看護士に聞いた。看護士は黙って首を横に振った。

 ふぅん……。という医師の溜息(ためいき)が病室で鳴る。

 看護士はその脇で、ネームペンを使ってベッドに設けられている名札に、『アンリ・ゾグラフ』と書いた。この引っ込んだところには珍しい、外国人の患者なのだ。

「まさかとは思うが、国に帰ったんじゃあるまいな。」

 医師は笑いを含ませながら言ったが、看護士は冷ややかに、

「でも先生、住所は日本ですよ。」

と言った。

 医師は耳の中に指を突っ込んで、ぐりぐりとやった。

 今度は看護士が溜息を()く番のようだ。

 A―少年アンリ―は、そんなことを知ってか知らずか、すやすやと眠っている。


 晴明(はるあき)鬼灯荘(ほおずきそう)廊下(ろうか)に出ると、うぅんと言いながら(こし)をパキパキと鳴らした。詰めていた息を解放してやると、腰が温かくなる。血の巡りを感じた。

 昨夜いろいろと考えすぎて、寝付けなかったのだ。おかげで昼前に目が覚めてしまい、腰が重い。

 晴明は軽く曲げた両腕を腰を起点に振り回しながら、また(うな)った。

「ど、どうもー。」

 2つ隣の部屋に住んでいる主婦が気まずそうに頭を下げ、隣の部屋の呼び鈴を押した。晴明はねじくれた体勢で固まり、ぺこりと頭を下げる。

 今度から、体操は部屋の中でしよう。そう心に決めて、足元に置いていた紙袋を拾って歩き出した。


 ここのところ毎日のように出かけている気がする。健康的でいいけどな、と晴明は心の中で呟きながら、鬼灯荘前の坂を下りていく。

 あまり気は進まないのに、足だけが坂に耐えきれずにしゃかりきに動いた。晴明の上半身と心は依然足と10cm程の距離を保ったまま、坂は終わった。

 晴明は今更ながら小銭入れの中を確認する。

 100円玉が……3枚。足りそうだな。

 晴明は夏の終わり、もの寂しい風を顔に浴びながら、歩き出した。


 バス停の塗装(とそう)()げかけていて、最早(もはや)最近越してきた者はバス停の名前を知る(よし)もない。

 俺が学生の頃はちゃんと読めたのに、と晴明は時刻表を眺めながら思った。

 今から5分待てば来るようだが、実際は8分ほど待たされるだろう。

 晴明は腰に両手を当ててさりげない範囲で()らせながら、その時を待った。

 今回も、深緋(こきあけ)には伝えていない。言ってしまうと恩着せがましい気がしたし、うっかり茜の秘密をばらしてしまいそうで(はばか)られた。

 深緋は案外、あの袋のことを気に病んでいる。と、思う。だから、晴明は一人で病院に行って、事の真相を確かめることにしたのだ。

 もしかしたら不安になったこきちゃんが、俺のことを探してくれるかもしれない。

 晴明はそんなふうに自惚(うぬぼ)れてみたりもしたが、やがてそんな自分を鼻で笑った。

 入院着の入った紙袋はうすら冷たくて、不思議と空っぽに見えた。中を覗いてみる。確かに、ある。

 こんな風に、この後家に帰ってみたら、部屋の真ん中に座っていたらいいのに。

 晴明の溜息は、バスのエンジン音に(さえぎ)られた。


「どうされましたか?」

 少し込み入ったところにあるわりには規模の大きなこの病院では、受付は下がり眉で応対している。

 ええと、と晴明は口の中で言った。

 なんと言えばいいだろう。質問ばかりに気を取られて、口実を考えていなかった。

「あれ、もしかして、鳴海(なるみ)さん?」

 受付の奥から声がした。そちらに顔をやると、薄ピンクの服を着た女性が立っている。看護士だろうと思われた。

「そうですけど……。」

 晴明はこう言って鼻をすすった。

「奥さん、見つかったんですか?」

「いや、まだ……。」

 ずけずけと言う人だな、と晴明は服の(しわ)を伸ばす。だが、ムッとしたところを見せてはいけない。むしろ、好都合ではないか。

「あの、そのことで聞きたいことが……。」

 晴明がこう切り出した時、彼女はすでに引っ込もうとしていた。

 晴明は舌打ちを(こら)えたが、受付は相変わらず困ったような顔で二人を交互に見ている。


 16時まで待っていて下さい、の言葉通り晴明はずっと待っていた。雑誌もテレビも普段は見ないのでどれも新鮮で面白く、暇潰しは苦ではない。

 マスクをして来なかったことを後悔しつつ、時々壁にかかった時計を見ながら待っていた。

 午後4時。時間ぴったりにその女性は現れた。シフトが終わる時間らしい。

 女性はここからどこかに移動して話す気はないらしく、晴明の向かい側のソファに腰を落ち着けた。無言のまま晴明の言葉を促す。

「実はですね……。」

 晴明は2つの紙袋の話をした。

 看護士は分かりやすく眉をひそめ、口元を(ゆが)めている。そんな顔をしたいのはこっちだ、と思いつつも晴明は努めて淡々(たんたん)と話した。

 こちらが感情的になっては、相手が事実を曲解(きょっかい)してしまう可能性がある。それでは、話がこじれてしまうだけだ。

「それで……まさかとは思うのですが……。この病院の方が、なさったのでは、と。」

 晴明は遠回しに聞いた。言葉通り、晴明は病院が犯人ではないことは知っている。

 だが、何が()()()()になって何が起こるか、もはや分からない。万に一つということもある。


「確かに、入院着が一つ無くなるという騒ぎはありました。」

 看護士はこめかみを撫でながら言う。

「それに、鳴海さんの服をお預かりもしてましたよ。

 しかし……だからと言ってそんなことは……。」

 看護士はそう言ったものの、住所のデータもこちらにあるわけだし、自分が知らないところで起こっていないとも言い切れない。

「あー、分かりました。

 確認をとってみるので、明日同じ……16時に来ていただけますか?」

 看護士は観念したように言った。

 晴明は分かりました、と言って念のため自宅の番号を書いておいた。


「奥さまのことは……本当に……。」

 病院の出口で、看護士はしどろもどろに言う。

 晴明は鼻で笑って、

「いいんですよ……。」

とイチョウの木の方角を見ながら言った。

 入院着は返却し、手元には謎の袋だけが残されている。それを振り回すようにして大股で帰っていく晴明の背中を、看護士は一礼の後、見守っていた。


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