紙袋を拾ったよ
平凡な町並みだ。特産品もなければショッピングモールもない。それでも、ここを通って茜が帰ってくるのだと思うだけで十分輝いて見えた。
晴明にとって、町並みを描くことは大したことではない。一つ一つの描写に意味を込めたこともない。だから、茜が晴明を訪ねてくるまでの道筋を話してくれた時も、ピンとくなかった。
そんなこと書いたっけな、とついついぼうっとしてしまう。
だが、今回は違う。一歩一歩に意味がある。だってこの風景は、そっくりそのまま茜の記憶、思い出になるのだから。
翌朝、起きてみると両腿に鈍痛。筋肉痛らしい。久しぶりに歩いたからなぁ、と晴明は後頭部をぼりぼりかきながらぼんやり思った。
コーヒーを喉に流し込み、あぁー、と間の抜けた声を出すと、蒲団はそのままに原稿用紙に向き合って座った。
茜が病院から帰ってくるところを描きながら、窓の外から聞こえるムクドリの声を聞く。
筆を握る手はおもむろに熱くなっていく。それでも手首を止めなかった。頭も初夏のアスファルトのように熱を帯びている。胡座を組む足の上下を時折入れ替えながら、茜の帰り道が幸せになるように書きまくった。多少、削れと言われるかもしれない。
ピンポーン。
午前9時を少し過ぎた頃、呼び鈴が鳴った。
まさか、もう帰ってきたのだろうか。それは困る。すぐに消えてしまうじゃないか。晴明はそう思いながらも、初めて出会った時のように超特急で玄関に向かった。
「晴明さん。」
晴明は一歩後ずさる。
「少し早いですけど、お昼食べに来ませんか。
豆ご飯、炊きすぎちゃって。」
深緋はにべもなく言う。
「またかよ……。」
晴明は小上がりになっている三和土に落ちそうになりながら溜息を吐いた。いささか拍子抜けした。
申し出はありがたいが、集中してきたところだったのだ。
晴明は断ろうとしたが、ぐうう、と腹の虫がそれを阻止する。深緋は何事も無かったかのように晴明の顔を見ている。今更恥ずかしいとは思わないが、こんな音を出しておいて断るのは無礼に思えた。
「食べようかな。いつもありがとう。」
深緋はつっかけの上で足の指をグーパーと開いて閉じてさせながら、無言で頷いた。
深緋の部屋は相変わらずキレイだ。言い方を変えれば、ものが極端に少ない。
低収入でやむを得ずものを買えない晴明とは違い、深緋は安定したそこそこの収入があるだろう。だから、この剥き出しの、埃すらないフローリングは彼女の性格によるものだ。
深緋はその床の上を裸足でぺたぺたと歩き、台所へと向かった。
晴明は左足の内側で足の裏についた砂を払い落とし、靴下のまま上がる。恐らく、昨日出掛けた時に靴の中に入ったのだろう。晴明は未だ残る気障りな感触を努めて無視し、ダイニングテーブルについた。
「あれ、窓開けてるんだな。」
晴明は大根の漬物をポリポリと噛むついでに言った。深緋の部屋の窓は大抵いつも閉めきっている。
泥棒や黄砂が入ってくるのを防ぐためだと言っていた。
「そうですねぇ。」
深緋は食器を見つめていた目を一瞬窓の方へ上げると、そう言ってまた伏せた。
睫毛が瞬きによって上下する。
晴明はその理由を知りたかったのだが、漬物と一緒にくっと飲み込んだ。よくよく考えたら、窓を開けるのに深い意味などない。
「順調ですか。」
「ん?」
深緋はこうやって時々、主語のない質問で晴明を困惑させるのだ。しかもそれは大抵、答えづらい問いの時に繰り出される。
「小説ですよ。昨日、珍しく留守でしたからね。
新しい話を書いてるのでは、と思いまして。」
「あぁ。」
晴明は箸を止め、ぼりぼりと後頭部をかいた。ついでに伸びをする。
「まあまあかな。
あんまり進んでないけど、締め切りまではまだあるから……。」
深緋は箸を中空で彷徨わせながら、頷いている。関心があったのかなかったのか、晴明には分からなかった。
「ん?こきちゃん、昨日来てたの?」
晴明は豆ご飯を箸に乗せたまま聞いた。深緋は箸を持ったまま、晴明を見据える。それから何も入っていないのに口をもごもごとさせ始めた。晴明は時折目を泳がせながら、それを見守っている。
「実は、」
深緋は溜息を吐くと、観念したように箸を箸置きに置いて、席を立った。
晴明はひとまず箸の上の豆ご飯を口に入れ、その背中を見つめる。
「こんなものが、玄関前に。」
深緋はデパート風の紙袋を持ってきた。とはいえそこには店名も何も書かれていない。ミントグリーンを基調とした大理石のようなマーブルの袋。それに、紫色の紐がついている。
「ん?」
晴明は深緋からそれを受け取ると、中を覗いた。
晴明の目の奥が突き刺されたように痛む。袋を指の先に引っかけたまま一歩後ずさった。
込み上げてくる混ざり合った感情がせり上がってくるのを感じ、慌てて口を両手でふさいだ。指と指の間からか細い息の音がする。
そこに入っていたのは。黒く汚れ、引き裂かれた洋服だった。
「これは、茜さんのもので間違いないですね?」
深緋が刑事のように言う。
とはいえ彼ら独特の気怠さや虚無感はなく、むしろ一種の優しさを秘めた声だった。
晴明はがくがくと頷いた。涙がこぼれそうになるのを天井を見ることでやり過ごそうとする。しかし、嗚咽だけが口から漏れた。
ボロボロの服は、あの日茜が着ていたものだ。
あの日。つまり、茜がトラック事故に遭った日。
茜はこの服を着てはねられた。この汚れと傷は、その時のものだろう。
「一体、誰がこんなことを……。」
深緋は独り言のように呟いた。
晴明は上がった息を整えながら、紙袋を椅子の上に置く。
ガサッという音を立て、軽くへしゃげた。
深緋にもらったコーヒーを飲み、晴明はようやく落ち着いた。
「実はな、俺も変なものが置かれていたんだ。」
昨日、家を出たときにたまたま見つけたのである。
それもまた同じ紙袋に入っていた。だが、深緋にどう説明して良いか分からなかった。というのも、それは茜が病室で着ていた入院着だったのだ。
深緋には事故のことは言っていない。だがこのままあれを見せれば、深緋は先程の紙袋の中身と繋ぎ合わせ、何かに気づいてしまうだろう。しかも、よほどの奇跡が起こらない限り、それは的外れなのだ。
よもや事故をトリガーにして消えてしまったとは考えつくまい。
「えぇと、俺も服だったよ。
なんなんだろうな……。」
晴明は言葉を濁して、深緋をちらりと見た。相変わらずの無反応。
晴明はほっとしたがその次の瞬間、背中にぞくっと悪寒が走った。
こんな変なことがあった後なのに、どうして警戒心の強いこきちゃんが窓を開けてるんだ?
もしかしたら、深緋は晴明よりもこの超現実な状況を説明できる論理に近いところにいるのかもしれない。
晴明の喉から渇いた笑いが出たが、深緋は紙袋を部屋の隅に押しやって、また食事を再開した。




