山彦
晴明はもう何度押したか分からない電話番号を煩わしそうにプッシュした。耳には少し遠くの方から鳴るコール音が入ってきている。晴明はその数を数えながら、待っている。
胡座をかいた膝は忙しく上下していて、その周りを埃が舞っている。
ガチャ、と電話独特の音がした。
「もしもし、東出版です。」
ベテランらしい男の声がする。
電話をするといつも彼が出るのだが、直接会ったことは一度もない。もしかしたら、電話の時声が変わるタイプなのかもしれないが。
「ああ、もしもし、鳴海です。
編集の柊さんはいらっしゃいますか。」
晴明がこう言うとしばらく無音が続いた。恐らく確認をとっているところなのだろう。
「替わりますねー。」
突然また例の男の声だ。がさがさという音が次いで聞こえる。
かけ直す必要がなさそうで安心した。
「はいはい、鳴海さん?どうしました?」
柊は相変わらず早口で話す。
晴明はそのペースに飲まれないようにするため、深呼吸をして話し始めた。
「実は、『木枯らし』の件なんですが……。」
晴明の言葉に柊が咳払いをした。恐らく気が変わったと思われているのであろう。
晴明は慌てて二の句を継いだ。
「続編を、書きたいなと思いまして。」
ほら。ドラマ化ですし、せっかくですし……。と晴明は怪しまれないように言い訳を浴びせた。
柊はまるで一切聞いていないかのように物音ひとつ立てない。
「やっぱり、難しいんでしょうか。」
つい晴明は物怖じしてしまい、声のトーンがぐっと下がる。
ペンを回しながら無言のまま相槌を打っていた柊はいつも以上の早口で、
「いやいやいや滅相もない!
こちらとしては嬉しいくらいで……。」
と受話器を殴りつけるように言う。
ボールペンがカラカラと机を転がる音がした。
柊はしまったと思ったが、晴明は気づいているのだかそうでないのだか、
「本当ですか!分かりました!
時間はかかるかもしれませんが、必ず完成させます!」
こう捲し立てるなり受話器を置いてしまった。
「ドラマ化に合わせるんちゃうんか……。」
柊はそう呟いて机と机の間に入ってしまったボールペンをごそごそと探し始めた。
晴明は真っ白な原稿用紙を机にどかっと置いたところで自分の発言の矛盾に気がついた。
これはなるべく早く書いた方が良さそうだ。
柊はやたらめったら人の事情に首を突っ込むタイプではないが、事を進めるテンポが異常に早い。だからそれに着いていくのに疲弊した時に、ついポロっと言い漏らしてしまうことがある。すると柊はマシンガントークを一瞬止めて晴明の片目―大体右目―を見つめて、また話し続けるのだ。
あの沈黙と睨みがどうにも受けつけず、担当編集というものにいくらか憧憬を覚えていた晴明もあまり会わなくなった。
今回はたまたま相手が黙っていたのが功を奏したのかもしれない。
いや、あるいは突飛すぎてずっと睨んでいたのか。
そんな悪い妄想に取り憑かれていると、耳元で茜の声が聞こえた気がした。
少しだけ怒った声だ。そうだよ。もうすぐ会えるからな。
晴明は万年筆をぎゅっと握って、一マス目に手をつけた。




