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もしもし、聞こえますか?  作者: クインテット
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Sigh pole

 プルルルルル。

 薄ぼけた意識の奥に、電話の音がある。

 晴明(はるあき)は部屋の真ん中で、あのノートを見ていた。明音(あかね)との思い出を(つづ)ったノート。もっとも、晴明の記憶にある思い出は一つしかないのだが。

 深緋(こきあけ)はよく協力してくれた。このノートの9割は深緋のたまものだ。

 ひとつひとつ、想像で頭を埋めていく。そうして、忘れたいから。

 そんな時間を邪魔されたことに晴明は釈然(しゃくぜん)としないながらも、のそりと立ち上がって受話器を取った。

「はい。鳴海(なるみ)です。」


「鳴海さぁん?

もしもし、(ひいらぎ)ですけどね、ちょっとお知らせがありまして……。」

 電話の主は、晴明の担当、柊史朗(ひいらぎしろう)だった。

 彼は少々早口ではあるものの、そう悪い男ではない。

「木枯らし」の草案を拾い上げたのも彼である。晴明は感謝こそすれ特に嫌悪感(けんおかん)は抱いていなかった。

「そうですか。今から(うかが)います。」

 晴明は静かにこう言った。

 えぇっ、という声が受話器の奥から聞こえる。

 それもそうだろう。晴明は余程(よほど)のことがなければ出版社には出向かない。しかも自ら行く、と言い出すのは初めてのことだ。

「はぁ、そうですか……。

 まぁ、急ぎじゃないんで。待ってます。」

 柊はそう言うと電話を切った。

 用件人間なのだ。

 晴明もツーツー音の後に受話器を置くと、鼻から溜息(ためいき)()いた。

 人と話したい。それも、(あかね)のことなど全く関係のない話を。

 柊は、その相手におあえつらむきだ。

 ノートは閉じて丁寧(ていねい)に押し入れにしまった。

 そして今まで着ていた服をその辺にポイと捨てて、適当な服に着替えた。茜が選んでくれたのではない、そんな古い服。少しだけゴワゴワして、着辛かった。


 バスと電車を乗り継いで、出版社を目指す。

 普段見ない風景が続々と現れる。ビルも、コインランドリーも、デパートも。どれも、晴明の街にはないものばかりだ。

 久しぶりに見るな。晴明はそう心の中で独りごちて、(まばた)きをする。世界が何度か暗転した。


 バスを降りると、そこからは徒歩移動だ。

 出版社はバス停からそう遠くはないものの、普段運動しない晴明からすればそこそこの骨折りだ。

 運動しておけばよかったと、いつも思う。上り坂が辛くて仕方がない。それでも息を荒くしながら上っていく。できるだけ、ゴールである坂の上を見るようにしながら。

 坂の頂上に、何かがくるくる回っている。歩きながら目を()らして見ると、サインポールのようだった。どうやら理髪店があるらしい。

 そういえばしばらく行ってなかったな。晴明は、ここ数ヶ月鏡を見ながら自分で髪を切っていた。

 茜と暮らし初めて、理髪店に行く金銭的余裕がなくなったからだ。

 それも、今月から行こうと思えばいけるのか。そういや、(ひど)(なり)だな、俺。そう心でぶつくさ言いながら、坂を上る。

 それにしても、どうしてあんなものが目についたんだろう。物珍しいとはいえ。晴明は(ひげ)を引っ張りながらちょっと考えてみた。はっとした。

 そうだ。結局俺の世界は3色だったのだ。

 あかねの赤、自分の青、それ以外の白。

 そこで色が1つ突然なくなれば、動揺するのは当たり前だ。しかも俺はあまりにも白の部分が小さすぎた。これでは俺の世界に俺一人しかいなくなったと錯覚しても仕方ないではないか。

 坂を上りきった晴明の隣で、白井理髪店(しらいりはつてん)のサインポールが軽快に回っている。


「おお、鳴海さん、お待ちしてました。

  どぞどぞ。」

 柊はパーテーションで作られた小部屋に晴明を通した。手には何やらホチキス留めされた書類を抱えている。ソファにどかっと腰を下ろし、コーヒーを一杯すすると柊は飛び付かん勢いで言った。

「めでたいですよ。

 なんと、鳴海さんの作品がドラマ化することになりました。」

 晴明ははぁ、と小さく言う。

 そんなはずがない。

 発行部数や売り上げで決められたわけではないだろうことは分かった。

「いやー、実はですね、毎年この時期になりますと、新人脚本家たちのコンペティションがあるんですわ。

 その最優秀新人賞の受賞者が鳴海さんの大ファンでしてね。

 何でも、『木枯らし』を元に脚本書きたいとかで……。

 許可、頂けますか?」

 柊は持っていた書類を晴明に手渡した。

 一枚ずつ確認してみると、どうやら企画の説明書、脚本家の経歴、そして晴明が書くための許可書らしい。

 晴明はそれらにじっくりと目を通し、柊を散々いらつかせた上で結論を出した。

「いいんじゃないですか。」

 柊は再びえっ、と言うはめになった。

 今まで晴明は自作―特に『木枯らし』―をメディア化することに関しては、絶対に首を(たて)に振らなかった。だが、今こうして晴明は許可を出したのだ。驚かずしてどうする。

「よろしいんですか?」

 柊が再びそう聞くと、晴明はペン立てから荒っぽくボールペンを引き出し、(うなづ)いた。

 鳴海晴明、と丁寧(ていねい)署名(しょめい)する。

 晴明は目線だけちょっと上げて柊を見た。

「いやー、どうも……。

 じゃあ、ちょいちょい連絡しますね。

 打ち合わせに参加してもらうこともあると思うんで、そん時はよろしくお願いします。」

 柊はコピー機にドラマ化の許可書を突っ込み、コピーを晴明に渡した。


 ビル風だ。晴明の背中を優しく()でている。

 坂の上から見下ろしてみれば、何もかもが小さく見える。それでいて、遠くがよく見える。

 ああ、海だ。目を凝らせば、青色がビルの隙間から覗いている。

 晴明はひとつ深呼吸をして、許可書を見た。

 そうだ。俺は進んでいる。茜が消えてなくなってしまっても。俺たちの物語が、終わるわけではないのだから。


 晴明はサインポールの頭を平手で軽く(たた)くと、鼻歌を歌いながら坂を下った。

 その手の中で、許可書がひらひら()っている。

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