白菊
「久しぶり。1年ぶりかな。」
男が口を開く。
晴明はそれでやっと張り詰めていた弦が切れた気がした。
「どうも。」
晴明はそう返し、花束を持ち直した。クシャクシャと、包装紙が音を立てる。
「あの、心さんは。」
晴明が男の右側をそっと見ながら聞くと、男は頬をかいて答えた。
「ああ、妻は。その、なんというか。」
「俺のこと、まだ許せないんですよね。」
晴明はぼそっと言った。
男は少し俯きかけていた顔をふっと上げる。
もう何年もこの日に墓参りに来ているが、晴明がこんなことを言うのは初めてだ。薄々感づいてはいたのだろうが、今まで黙っていたのに。
「晴明くん、それは……。」
男が何か言おうとするのを、晴明は手で遮った。
「いいんです。敏夫さん。
あの日のことは、忘れてませんし。」
晴明が言うあの日とは、明音の葬式の日である。
男と晴明は、あの日を思い返した。
病院のベッドで最期に明音の手を取るのは、晴明の役目のはずだった。それを奪ったのが心だ。こう言うと、人聞きが悪いが、心は明音の母だ。
だから晴明はあの時、明音が晴明と繋いでいた手を引き剥がして、心が明音の手を取ったことを責めようとは思わない。
そして敏夫は、その様子をじっと見ていた。それは耐え忍んでいるようにも見えるし、むしろ無関心なようにも見える。
敏夫には病室の光景が、まるで幽体離脱した者が時々そう言うように見えていた。つまり、自分の体が浮き出して、真上からそれを見ているような。
足がにゅうと伸びていく。病院のスリッパが酷く小さい。
目眩がした。
だから、敏夫は何も言えなかったのだ。
そして、葬儀の日。
死後しばらく経ってから行われたのだが、多くの人が参列していた。明音の人望の厚さを物語っているのだろう。
晴明の頭にはあの笑顔がこびりついていて、遺影を見ても別人に見えた。
どうにもあのイメージが離れてくれない。
あの、笑顔だけが。晴明に残された、遺骨。
それだけが、牧明音だ。
晴明は貪欲になることを諦めている。心の中で生き永らえさせてもらうことすらできない。それだけのことをしたんだ。と。
心は人目も憚らず泣いていて、それを敏夫が慰めていた。
深緋も晴明も、全く泣かなかった。ただじっと、遺影を見ているだけ。
制服姿の参列者はあまりいなかったのもあって、2人はとても目立っていた。そんな2人の元に、つかつかと心が歩み寄ってきた。
「あんたのせいよ。」
そんなことを言う。
晴明の全身の筋肉が強ばる。
頭の中で思い描いていたよりも、ずっと悪い。心の息遣いも、参列者達の視線も、本物だ。
「あんたのせいで明音は死んだのよ!返して!返してよ!」
心は興奮した様子で、晴明の肩を揺さぶった。それでも晴明は黙っている。
深緋は一応晴明を見てはいるが、特に止めようとしなかった。
止めると事態が悪化するのは分かっていたし、晴明のためにならない。そう思ったからだ。
しかし。
「やめなさい!心!」
敏夫は心に掴みかかるようにして止めた。あまり効力はなかったが。
「警察から全部聞いたのよ!
あんたさえいなければ……。」
「心!」
敏夫が、いや心もだ。2人が怒っているのを見るのは、これが初めてだった。
事故の前までは、晴明は時々明音の家にお邪魔していた。そんな時、心も敏夫もいつも暖かく出迎えてくれ、名前で呼んでもいいと言ってくれていた。
だから晴明はその頃の名残で、今でも敏夫のことを敏夫さん、と呼んでいる。本当は心にもそうしたいのだが、残念ながら呼ぶ機会がない。
特に敏夫と晴明は良く話が合って、明音がいない時でも話していた。
心はそんな2人にいつもコーヒーとクッキーを振る舞う。
部屋で着替えてきた明音が抜け駆けされたことに文句を言いながら加わる……。
そんな、日々だった。
でもあの日。葬儀の日から、全部変わってしまった。
晴明は2人に会えなくなったし、未だに心に許されていない。敏夫とは毎年会うものの、心とは何年会っていないだろう。
いつか、どうして心は命日にも関わらず墓を訪れないのか敏夫に尋ねたことがある。
敏夫はこう言った。
「妻は……。忘れたいんだろうね。
心にとって、あれは悲しすぎた。
そうでもしないと、前に進めないんだよ。」
それは、僕もだけどね。
敏夫のその言葉が、晴明の胸に巣食っていた。
「最近ね、妻が趣味を見つけたんだ。
ちぎり絵。時々食事も忘れて没頭してるよ。」
敏夫は溜息を吐いた。
そして、茜を優しく見て、
「君も、前に進んでいるね。
立ち止まってるのは、僕だけだ。」
そう言って微笑む。
敏夫は帽子の位置をそっと直して、今度は晴明を見た。
「俺は……。」
敏夫は首を振った。
晴明も茜も何も言えなくなる。
「花も供えたし、水も注いできた。
もう、君にすることはないよ、晴明くん。」
敏夫はそう言って、ポリバケツを拾い上げて、坂を上り始めた。
すれ違いざま、一際大きく聞こえたバケツの音。
強く握り締めすぎた菊の花は、晴明の手の中でしおれていた。




