ノンフィクション作家
もうお湯は沸騰した頃だろうか。分からないが、鍋はぱちぱち弾いている。
「それにしても、いいお相手を見つけたものですね。」
深緋は眼鏡を拭きながらそう言った。コーヒーの湯気で曇ったのである。
晴明は空のマグカップを指でごろごろ回して遊んでいたが、その手を止めて、何が?と聞く。
深緋は溜息を吐いて眼鏡をかけると、
「茜さんのことですよ。」
と言った。
晴明は、ああ……。とだけ言ってまたマグカップを回し始めた。
うわん、うわんという音が深緋の部屋を支配している。
「どこで知り合ったんですか?
まあ、下世話ではないので言いたくなければ黙っていて構いませんが。」
晴明はマグカップを回しながら、言い訳を考え始めた。
鍋はいよいよふしゅるるると声を立てている。深緋は回答待ちもそこそこに席を立って鍋の具合を見に行った。
水は煮えている。
深緋は片手鍋を持ってコーヒーメーカーへと向かうと、1人分の湯を注いだ。晴明の分である。
「取材先で。」
コーヒーメーカーもまたぎゅるるると不機嫌な音を立てた。
それと同時に、晴明は半ば叫ぶように言った。
深緋は片手鍋をシンクに置いて、何も言わず、音も立てず待っている。
晴明は急かされて続けた。
「取材先の神社で、巫女をしていたんだ。
アルバイトだったんだけど、話を聞いてる内に仲良くなって。」
深緋はまだ無言だ。片手鍋から手も離さない。だが、やおら振り向き、
「ここ数年、神社を舞台にした小説なんて無かったと思いますが。」
とだけ言う。
こういう時、無表情は困る。皮肉なのか興味なのかくらいは、教えてくれてもいいものを。
「ぼ、ボツになっただけだよ。」
晴明の言葉に、深緋は納得したそぶりも見せない。
しばらくして出来たコーヒーをシュガーレスで飲もうとした。
でも、水面は揺蕩うばかり。
晴明はここのところ参っている。コーヒーもろくに飲めないほどに。
はらわたに遺物が溜まって仕方ないのだ。
「こきちゃんはさ、期限付きの2人って、どう思う?」
晴明はそれとなく聞いたつもりだった。
しかし他人には深緋が無表情に見えるのと同じように、深緋にもまた世界は無表情に見える。言葉をニュートラルに判断できるのが、彼女の強みなのだ。
「ほら、映画で良くあるだろ。
余命何ヶ月の……って。
今度、そういうの書いてみないかって言われたんだ。」
晴明はマグカップから手を離して早口に言った。
宙を舞う手のひらは何も掴んではいない。
「へええ、ノンフィクションですか。
いいですね。」
深緋がそう言うと晴明はマグカップを包むようにして持って、
「そうなんだよ。って……あ。」
晴明は安堵して言ってしまった。
茜の周辺の人には、隠し通しておくつもりだったのに。
深緋は溶け残った砂糖を溶かそうとコップをくるくる回す。
「そんなことだろうと思いましたよ。
あなたはいつも、大切なことを言わないんですから。
しかも優しいんじゃなくてお人好しなんです。
最後に誰かに夢を見せるのはいいとは思いますがね……。」
ああ、こきちゃんのお説教が始まる。
そう思っていた時。
「住民票。」
「は?」
晴明は口に含もうとしたコーヒーを思わず置いて、深緋に目をやった。
深緋は砂糖を諦めてコーヒーを啜りながら
「まだもらってないんですよね。
もちろん、茜さんはいい人ですし、晴明さんが選んだ人ですから。
まあ、その。いいんですが。
さすがに身元不明の人を預かる訳にも、ね。」
と言う。
晴明は目を瞬かせ、とりあえずコーヒーを喉に送り込んだ。
そんなもの、すっかり忘れていた。
いや、そういうことじゃなくて、と言いそうになったがコーヒーで流し込み、深緋を見つめる。
「もう少し、待ってください……。」
「昔のよしみですよ。」
頭を深々と下げた晴明に、深緋は言う。
コーヒーは飲み干していた。
晴明が頭を上げかけた時、ノックの音が部屋を包んだ。
「未月です。晴明さんいますか?」
管理人室の隣に暮らす、未月という女性だった。
わざわざここまで来るということは余程の緊急事態であろう。
晴明は走って玄関まで行き、三和土を飛び越すようにドアを開けた。
「実は、茜さんが……。」
晴明がなぎ倒したコップからはコーヒーがぽたぽたと零れて、床にシミを作っていた。
深緋はそれを、眉一つ変えず見守っている。




