ブルーと赤
茜の風邪は完治した。
晴明は結果が分かっていながらも、どこか安堵した。
神様、気まぐれに俺を見捨てないならば、どうか1秒でも長く茜といさせて下さい。晴明は願っている。
茜がいなくなったら、晴明の部屋の蛍光灯は何ルクス暗くなるだろう。きっと、『木枯らし』が読めなくなるくらいには暗いだろうなぁ。
晴明は寝転がって、天井をぼうっと見た。
今宵は、満月だ。新聞の天気予報の欄に、そう書かれている。
茜はそれを読んで、見たいです!と息巻いた。
晴明は、病み上がりの体で夜風に当たるのは……。と言いかけて、子供の頃、親にこう言われてどんなに嫌だったか思い出した。あんな思いはさせたくないな。そこで晴明は、いいですね、とだけ返した。
人間は、心の中でぐだぐだ呟く生き物である。
だが結局、口から出てくるのはその中の3%。しかも、結論の部分に当たる数文字だけだ。その中でも、その数文字が10字だったり3字だったりする人がいるだけで、さしたる違いはない。
少ない人は誤解されやすいが慕われる。多い人は信じられるが嫌われる。
それだけだ。
仮に、あまりにも相手が多く語るようなら気をつけた方が良い。
相手はその何百倍もの文字数を、頭の中の繰言に割いているのだから。
太陽は勤務時間を終え、いそいそと帰宅した。彼に残業はないのだ。
晴明たちは夕食を済ませ、何をするでもなくぼうっとしている。
満腹になった後、動かないこと以上の幸せは見つけ難い。
満月はしばしお預けである。
蛍光灯は弱々しくも部屋を雄々しく照らしている。
「そろそろ、行きましょうか。」
茜がそっと腰を上げた。晴明は無言のままそれに倣う。
今宵は満月である。
台所の窓から逃げ出した煙は、月明かりとなって帰ってきた。
小説家らしくどこかシニカルな文句が浮かびそうだったが、晴明が水を飲むために蛇口を捻り、流れ出た水がコップを叩く音で消え去った。
茜はもう玄関でつっかけを履いて待っている。晴明は一息に水を飲んで、自らもサンダルに足を突っ込んだ。
「わぁっ、予想よりも大きいですね!」
鬼灯荘の小さな駐車場で、茜ははしゃいでいる。晴明も同じように騒ぎたかった。
そう、俺は、あなたになりたかったんだ。
「そう、ですね。」
晴明はスウェットをきゅうと握った。
でも何ともならない。ただ衣擦れの音が夜の青に消えていく。
茜はうさぎを探している。いればいいな、なんて晴明も思う。思いを共有できているんだかいないんだか、よく分からない。
それでも幸せだ。晴明は胸を張って言える。
「月に関する文句はたくさんありますから。
昔から人は、月を愛していたんでしょうね。」
晴明がそう微笑みながら言うと、茜は笑いながら返した。
「晴明さん、仮にも小説家なんですから。
月を前にして、愛してるなんて無粋ですよ!」
「えぇっ。人は昔から、月を……月を……月が綺麗だと思ってた?
何か変じゃありませんか。」
「それがいいんですよ!」
「そういうもんですかね。」
晴明はそう言ってはははと笑う。茜も小さく笑う。
月だけがそれを密かに見ている。
「あっ、晴明さん、見てください!
鬼灯荘の明かりが綺麗ですよ!」
月を見飽きたのか、茜が鬼灯荘を指差しながら言う。
住民の生活が、四角く切り取られている。
光るところもあれば、暗いままの部屋もある。それが星空のイミテーションのようで趣深い。星とて、全てが光っている訳では無いのである。
「自然な光も綺麗ですが、人工的な光もいいですね。
都会の方はもっとたくさんの光がありますよ。
今度、一緒に電車で都市の方へ行ってみましょうか。」
「行きたいです!」
茜は間髪入れず答えた。
晴明はまた笑う。
幸せに色をつけるなら、きっと茜色だ。晴明はそう胸の中で呟いたが、終ぞ何も言わなかった。




