54 求婚
ロジエの部屋は王族の婚約者の為の部屋だ。
王や王子が特に執心する相手を住まわせる部屋が低層にあるわけもない。
窓から飛び降りれば、当然地面に叩き付けられ命を落とす。
けれどロジエは精霊の力を使える。
「風の精霊!」
精霊を召喚しようとしたとき、落ち行く地に信じられないものを見た。
「ロジエ!!」
信じられないが見間違えようもない蒼い姿。
「レクス様……」
レクスが両手を拡げている。
駄目だ。例えレクスでもあの高さから落ちる人間を支えられる訳もない。慌ててもう一度精霊に命じ直す。
「風の精霊よ! 真綿の如く我を受け止めよ!」
ふわり
レクスに届く寸前でロジエの身体が浮いた。
ぶつからずにすんだと安堵した刹那、ぐっと身体を引き込まれ逞しい腕に捕らえられる。
「何をやっているんだ お前は!!」
「す、すみません……」
レクスの剣幕にロジエもつい謝ってしまう。
前から抱かれるような形だったのが、横抱きに変えられ、やはり怒ったような表情で顔を覗かれた。
「怪我は!?」
「へいき、平気です……」
「……心臓が停まるかと思った……」
無事を聞いて、力が抜けたようにレクスは片膝を地面に付く。ロジエは立てた脚の上に乗せたままだ。
「あの、レクス様はどうして此処に……?」
「外からお前の姿が見えるかと思って……落ちてきたから本当に、もう……」
勘弁してくれと、長々と息を吐く。その姿を見て、ロジエはもう一度すみませんと呟く。
あまりにも消沈した様子にロジエはレクスの頬に手を伸ばそうとして気付いた。「あ」と小さく戸惑いの声が漏れる。
「どうした!?」
「……すみません……指環が……」
今度はロジエが消沈した。今にも泣き出しそうな顔で指環をした左手を差し出す。其処に付着する赤黒い液体。
「怪我を!?」
「私ではありません。私……プロド殿下をこれで……」
あの時、夢中で手を振るった。そして、この指環がプロドの頬を擲ったのだ。
涙ぐみながらそれに目を落としていれば、レクスの指が付着したそれを拭った。
「汚れたのが嫌ならまた新しく作ってやる」
「違います……大切な指環をそんなことに使ってしまって……」
「ロジエ。大切だと思ってくれているならそれでいい。お前を守れたのなら益々贈った甲斐があるというものだ」
泣かなくていいと瞼に口付ける。「後で職人に綺麗にさせよう」と言えば、「はい」と微笑んだ。
一度優しく頬を撫で、レクスの蒼瞳がすっと冷たくなった。
「これはその時、兄が?」
「え?……あ!」
これはというレクスの視線の先には、破かれた服と覗く胸元の肌。下着はあるので全てが見えることは無いが、それにしても恥ずかしい。ロジエは慌てて隠そうとしたが、レクスにその手を捕られた。
「何かされたか?」
何かと言われ、レクスの姿を見てから忘れていた先程の恐怖が甦る。でも、もう大丈夫。ここはレクスの腕の中だ。ここより安心できる場所はない。
それに何もされてはいない。
「いいえ!! いいえ! 何も。大丈夫です」
「真実か?」
「はい!」
「良かった」
レクスは覗く肌理細かい素肌に顔を近づけた。
「きゃあ!? あ、あのレクス様!?」
「心臓の音……生きている音だ。落ち着くな……」
プロドよりも近い距離。それでも恐怖など全く感じない。感じるのは羞恥と戸惑い、こそばゆいような不安だ。
「わ、私は心臓が壊れそうです……」
「すまん。もう少しだけ」
甘い香りと温かさを堪能するようにレクスは白い谷間に顔を埋めた。
「んっ。っあ……あぁっ!」
早鐘を打つ心臓付近を唇で擽り、覗く銀の徴に強く吸い付いた。
顔を離し、銀の徴の上に咲いた赤い華に指を這わすとロジエがふるりと身体を揺らした。
「あまり可愛い反応をしないでくれ」
「……だったら触らないで下さい……」
「ロジエ……」
涙目で顔を朱に染める愛しい女性に、煽られそうになるが理性を総動員して耐えた。自らの上衣を掛けてやると手をとって立ち上がらせる。
「お前は俺だけのものだ。醜い独占欲だと言われようがこれだけは譲れない。
そしてそれと同じにこの国も俺が治めるべき国なんだ。どちらも誰にも譲れない」
申し訳無いような表情と、それ以上に真摯な表情が漲っている。
レクスは生まれながらの王族だ。国を民を背負う事は至極当然の事で、疑念の余地は無い。レクスがレクスとして生きることに“王”という道は当然に付随してくるのだ。
それを当たり前と受け入れているこの人を誇らしく思う。支えたいと思う。
「はい。お手伝い致します」
ロジエは花綻ぶような笑顔で応えた。
「ロジエ、真実が暴かれればお前には酷な事になるかもしれない」
「いいえ。レクス様と兄様。二人と共にいるために共に戦いたいのです。何よりも私は貴方の傍にいたい。何があっても揺らがないと約束します」
「ロジエ……。俺が支える。俺とシエルが傍にいることを忘れるな」
「はい」
凛とした表情にレクスは眩しそうにロジエを見た。
「レクス様」
「ああ?」
「全てが終わったらレクス様の花嫁にして下さいね?」
咲き始めた花の可憐さと、犯しがたい月の光のような美しさにレクスは息を呑む。
「ああ、もう、お前は!」
レクスはロジエの前に片膝を付き頭を垂れる。
「サフィラス王太子レクスは、ルベウスのロジエ姫に婚姻を申し込む。生涯貴女だけを愛し誰よりも大事にするとサフィラスとルベウス双方の神に誓う。私と共にこの国を守って欲しい」
「はい。貴方とこの国に生涯の愛を捧ぐことを双方の神に誓います」
確かな承諾の言葉を受け、レクスはロジエの左手を取る。既に成約の指環の填められたその手の甲に誓いの口付けを落とした。
「思えば、ちゃんと求婚したことが無かったな」
手を握ったまま立ち上がり、銀の双眸を潤ませるロジエを正面から捉えた。
「出逢ったその日にして下さいましたよ。それから青薔薇を頂いたときにも」
微笑んだロジエの頬を透明な雫が伝う。レクスは空いている左手の親指でそれを優しく拭う。
「一度目は忘れてくれ。二度目も勢いだった」
「いいえ。一度目も建前だと思っていても本当に本当に嬉しかったんです。二度目も今もこんなにも嬉しい事があるのでしょうか。大好きな方から三度も求婚していただきました。とても幸せです」
「ロジエ……」
「私達、共に在るために出逢ったのですね」
ロジエは一歩距離を詰め、レクスを見上げた。
「ああ。絶対に離さない。愛している」
「私も愛しています」
レクスの唇がロジエの唇に触れるのも、ロジエがそれを受け入れるのも、当たり前のように自然で。
青く揺れる花の中、それはまるで一つの絵画のようだった。
かつかつと固い足音が回廊を進む。
普段、飄々とした態度のその人は些か機嫌が悪そうに見えた。左の頬には何かで斬られたような跡もある。
「ゼノ。見えないようにしてくれ」
回廊の脇で待つ人物に通りすがりに声を掛ける。ゼノが何かを呟くと傍目からは傷が見えなくなった。だが、事実傷はあるし、痛みもある。プロドは煩わし気に舌打ちした。
「プロド様、ルベウスの姫は」
「視ていたんだろう。逃げられた。彼女、胸に銀の徴があった。知っていたのだろう? 何故黙っていた?」
速足で回廊を進みつつ会話をする。二人の会話は雑音のようなものが混じり周りの人物にはうまく聞きとれない。精霊に邪魔させているのだ。
「言う必要が?」
「私もサフィラスの血を引いているのでね、隠し事が嫌いなんだよ。普通の精霊師とどう違う?」
「それは失礼を。精霊師としては普通ですよ」
「はっ。良く言う。お前が普通の精霊師に興味を持つか。まあ、いい。気が殺がれた。姫はお前の好きにすればいい」
「ありがとうございます」
「なんだか全てが面倒になったなぁ。決着を付けようか」
「随分と急がれますな」
「急ぐ? 待ち草臥れたの間違いだろう?」
プロドの焦れた様な言い方にゼノの口許に嘲笑が浮かぶ。
「……王も随分とお疲れの様だ。そろそろ休ませてあげたいと思わないか? なぁ。ゼノ?」
「孝行ですな」
「ああ、私は優しいんだ」
プロドは正面を向いたままふっと穏やかな笑みを浮かべた。




