7 中庭で
中庭は王族専用の庭である。
園丁がとりわけ丹念に手入れをしているそこは季節ごとの花が見事に咲き誇る壮麗な花園だった。プリムラ、パンジー、シクラメン、エリカ、クリスマスローズ、ナーシサス……サフィラス王都の冬はさほど厳しくないとはいえこれほどまでに花が咲き乱れているのは圧巻だった。
そして花の芳香が漂う中、どこか似つかわしくない空気を斬る音が聞こえる。
設えられたベンチに座る義兄が黙って手招きしている。静かに傍に寄り、視線で促された方を見た。
頭上に振り上げられた青白い光を帯びた剣が斜めに振り下ろされ、地面と一線のところで切っ先が止められる。呼吸を整え今度は横一線に空気を切り裂く。
速さや威力よりも剣の軌道をそらさない正確さに重きを置いたその一連の動きは眼を瞠るほどに流麗なものだった。
「……きれい……」
そんな言葉がつい漏れてしまうほど。小さな呟きが聞えるわけはないだろうが、気配を感じたのか剣を止めた彼、レクスは視線をロジエに向けた。ロジエがぺこりと頭を下げるとレクスは剣を鞘に収めながら近づいて来た。
「あ―……おはよう、ロジエ」
些か決まりが悪そうな彼を不思議に思いつつロジエも挨拶を返す。
「おはようございます、レクス殿下」
「どうした? こんな早い時間に」
「目が覚めてしまったので散歩に……」
「一人、ではないか。女官長が一緒か」
後方で頭を下げる女官長を確かめてレクスは頷いた。
「僕はさっきレクスに怒られたんだよ」
「え?」
「一人でふらふらするなって」
きょとんと首を傾げるロジエにシエルは肩を竦めた。
「ふふ。殿下は心配性ですね」
「お前達こそ浅慮だろう。こう言いたくはないがルベウスに対していい感情を持つ者ばかりじゃないんだ。何かあってからでは遅いし、それに些細なことがまた戦火の切っ掛けとなる」
「それは…そうですね。少し軽率でした。すみません」
「一理あるけど、そういう君が警備を総括しているなら大丈夫だよ」
詫びる姿勢を見せるロジエに対してシエルは悪びれる様子もなくにこりと笑った。
「警備を統括しているのは俺じゃなくて騎士団長だ」
「君の信頼厚い側近の、だろう? ますます大丈夫だよ」
「あまり信用されても困るが?」
「わかってるよ。注意は受けたし、これで何かあったら自分の所為だと納得しているしどうする気もないよ。それよりさ、ロジエ散歩に来たんでしょ? レクスにこの庭案内して貰ったら?」
「兄様!? 事前の申し入れもなくここに訪れただけでも良くない事なのに、ましてそんな事!」
「いや、俺は構わないが……」
義兄の無遠慮さや礼儀や手順を無視した行為を邪険に思われても仕方ないはずなのに、レクスは何をそんなに畏まるとでも言いたげにロジエを見た。本当にいつの間に義兄とレクスは打ち解けたのだろうかと、些か呆けるロジエに女官長が変わって声を掛けた。
「左様でございますね。今日はもう鍛錬はお止めになってロジエ様をご案内なさってください。王族として賓客をもてなすのも務めでございます。その間に沐浴と朝食の支度を致しますから、今日はこちらでシエル殿下とロジエ様もご一緒されてはいかがでしょうか」
「いいね! 決まり! ほら、さっさと行ってきなよ!」
こうしてロジエはシエルと女官長に半ば追い出されるように散歩に向かわされた。
隣りを無言で歩く身長の高い彼をこっそりと見上げる。冴えた空気と眩い朝の光の中で、整った顔立ちの彼はとても格好が良いのだけれど…眉間に深い皺が寄っていて不機嫌そうだ。やはり軽率な自分に怒っているのではないだろうか。ロジエはおずおずと声を掛けた。
「あの……アネモネの花が綺麗ですね」
「ああ、この花はアネモネというのか」
庭で風に揺れる咲き始めたばかりの青い花を目に留めてレクスは答える。彼には花を愛でる趣味は無いらしい。そして、やはり機嫌が悪そうだ。
「……えっと、レクス殿下。鍛錬の邪魔をしてすみませんでした」
「は!? なんだ突然!?」
レクスはばっと音がしそうな勢いで隣を歩くロジエを見下ろした。
「いえ、鍛錬の途中のようですし…私の軽率な行動の事も…その、怒っています?」
「怒ってなどいないが?」
「不機嫌そうですけど………」
「ああ、そうか。すまん。俺は黙っているとそう見えるらしいな。別に怒っているわけでも不機嫌なわけでもない。地顔だ」
そういう顔も眉間に皺を刻んでいて、ロジエは思わず笑ってしまった。
「ふ、ふふ……そうなのですか?」
「ああ。何故笑う?」
「いえ、真面目に言うものですから。すみません」
「……いや、良かった。何を話したらいいのか考えていたんだ」
自分で“良かった”と言うように、確かに彼の表情も雰囲気も柔らかくなった。これが本来の彼の姿かと思うとロジエも緊張を解いた。
「何を、ですか?」
「俺は正直、話術が得意ではないし、特に女性とは何を話したらいいのかわからないんだ」
「昨日の夜会ではにこやかに女性と話されていましたが?」
「あれは仕事だからな。ああいう場では振られた話題に適当に合わせて笑っている」
レクスは人前に出る時は王族として礼を尽くす。できるだけ無愛想にならないようにし、会話も続くように意図して心がける。それが王族としての務めであり処世術だからだ。
上辺なら取り繕える。だが、好意を寄せる相手となると勝手が違う。
「私にそんな話をされていいのですか?」
「君には…ロジエには昨夜散々醜態を晒したし、それに上辺の付き合いをしたいわけではない」
レクスは昨日のことを恥ずかしそうに語り、そして優しく微笑んだ。その笑顔を見て、ああ、成程。確かに昨夜、令嬢たちに向けた笑顔は作られたものだったのだなとロジエは解した。
今自分に向けられた笑顔と優しい蒼色の瞳に心臓が僅かに跳ねる。なぜか居心地が悪いような気がして、それを一蹴するべく話題を提供する。
「えっと、話ですよね。ではシエル兄様の嫌な処でもお話ししましょうか?」
「はは! シエルの嫌な処? なんだそれは」
また笑った。こうしているとちっとも無愛想ではないし、笑顔も可愛いのだが。
「今のところ私達の共通の知り合いが兄様だけなので…サフィラスで兄様がどういわれているのかも興味ありますし」
「なるほど共通の話題か。ロジエは従兄とはいえ彼と随分と仲がいいようだが嫌な所なんてがあるのか?」
「ありますよ。私は七歳の時に王家に引き取られて……その時に兄と呼ぶように言われたのですが、私は拒否したんです」
「何故?」
「お仕えしようと思ったからです。“兄”ではなく“殿下”として。…そうしたらですね、“お兄様”と呼ばなければ食事抜きだと言いまして。七歳の子供にご飯抜きですよ? 言いますかそんなこと。更には本当に食事を与えて貰えず、しかも目の前で自分は美味しそうに食べるんです! 食事どころかおやつまでも!!」
「くっ…それで?」
熱弁するロジエに笑いを堪えるような態度のレクスを一瞥してロジエは先を続ける。
「……呼びましたよ。“お兄様”って。空腹なのに目の前にケーキの刺さったフォークを突きつけられて呼ばずにいられる子供はいないと思います。あの時の屈辱は忘れられません。以来、兄様の掌の上で転がされていうような気がして……いつかぎゃふんと言わせるのが夢なんです」
ぐっと拳を握りロジエは決意を固めるように青い空を睨む。
「はっ! はは! っくっ……!!」
「殿下……笑い過ぎではないですか?」
レクスは腹を抱えるようにして目じりには涙まで溜めそうな勢いだ。
「す、すまん。なんだかその様子が容易に想像できてしまって」
意地悪く微笑みながらフォークを差し出すシエルに、苦悶の表情でフォークを口にするロジエ。シエルはどうでもいいが、ロジエは可愛かっただろうなとシエルに少し焦れた。
「わかっているんですよ? 兄様が優しいことは。でも食事抜きは無いと思うのですよ!」
「ふ…は……」
「もう! 笑いたいなら笑って下さって結構ですよ。それでサフィラスで兄様はどういわれているのですか?」
「いや、本当にすまん。…そうだな……彼はサフィラスでは鬼才と言われて恐れられている。こちらが武力や数で勝っていても彼の軍略でやり込められたことは何度もあるほど恐ろしい知略の持ち主だ。それから…優しい顔をして拷問とか得意そうだとか報告が上がっていたな……」
「あー実際みたことはないですが得意そうですね……」
しみじみと納得するロジエにまたレクスは笑ってしまう。これほど笑ったのは久しぶりではないだろうか。
「まあ、いい奴だとも言われているぞ」
「拷問が得意そうないい奴ですか」
「いや、そうではなくて。実際は彼に捕まって捕虜にされた者達が不当な扱いは受けたことはないと言っていた」
「それはレクス殿下がそうしたからですよ」
「ん? なんのことだ?」
「殿下がルベウスの捕虜に対してそうしていたでしょう? だから兄様も礼を尽くしているのです」
「それは…なんというか、お互い様なんだな」
「はい。お二人ともとても立派な王子様です!」
とても晴れやかな笑顔を向けられ常は無愛想と言われるレクスの表情も柔らかくなる。
「嫌なところの話ではなかったか?」
「ああ! そうでした! 殿下の所為で話が逸れました」
「俺の所為か!?」
ふっとお互いに微笑み合って、そろそろ戻るかと振り返る。
ほぼ初めて交わす会話であるにも関わらず女性とこれほど打ち解けたことがあっただろうか。あるわけがない。女性との会話に王子としての態度を崩したことなどないのだから。
朝の爽やかな風がそよぎ、花々をゆらす。その風はロジエの銀の髪も揺らし、流れた髪をロジエは耳に掛けた。レクスはその姿を眩しそうに見つめた。
「? どうかしましたか?」
「あ! いや、昨日とはまた印象が違うと思ってな」
見つめていたことにばつの悪さを感じ、レクスは咄嗟にそんな事を言ってしまった。
ロジエは瞬間かあっと頬を染めた。 身支度を整えたと言っても髪を梳いて貰っただけで、朝の早い時間で誰に会うという事もないだろうと簡素なワンピースを着ただけ、化粧もしていない。
「す、すみません。そうですよね、殿下にお会いするのにこの格好は無いですよね。私、普段からお化粧とか着飾ったりとかあまり得意ではなくて……気を付けます……」
「ああ!いやいや!! 違う。そうじゃないんだ」
畏まって俯いてしまったロジエにレクスは慌てて否定する。
「何というか……昨日の夜会のような姿も勿論美しかったが、今の姿も自然で…可愛い…と思う」
実際そうだ。彼女は化粧など必要ないくらい十分に可愛らしい。
「俺はどちらもいいと思う」
もうちょっと褒め方とか言い方とかあるだろう、と自分で突っ込みを入れるが口下手なレクスにはこれが精一杯だった。
「いえ、すみません。お気を使わせてしまって………恥ずかしいです」
「違う! 本当に、そう思っているんだ。俺自身堅苦しい格好は苦手だし、それで充分だ!」
レクスの言葉は簡潔で、でもだからこそ彼の真摯さが伝わるようだ。顔を朱に染めてどこか澱みがちに告げるレクスは、夜会でみる王子としての堂々とした姿や、先程の剣を振るう敢然たる姿とは全く違う。微笑ましくて可愛らしい。一国の王子に充てる言葉ではないけれど。
ロジエはふわりと笑みを漏らした。
「ありがとうございます。でも、これからはサフィラスで過ごすことになるのですし本当に少し気を付けますね」
その和らいだ様子にレクスもほっと胸を撫で下ろした。
ふわりとまたも風がロジエの髪を流した。
風に流れる銀の髪はあの夢を思い出させる。怪訝に思われるかもしれないが訊かずにはいられなかった。
「なあ、ロジエ。訊きたいことがあるんだ」
「何ですか?」
「俺と以前に会ったことは無いか?」
「え?」
「夢に見るんだ。顔は分からないが銀の髪の女性が泣く夢だ。子供の頃から何度も……。昨日ロジエを見たときにその女性はロジエだと思った。けれど思い出せないんだ。ロジエは何か知らないか?」
「いいえ。私は何も……」
「そうか……」
突拍子もないことを言ったのはレクスなのにロジエは申し訳なさそうな顔をしている。本当に何も知らないのだろう。それにレクスにしても、もしロジエに会ったとこがあるとしたら覚えているはずだ。この目の前の少女を忘れられるわけがない。
「いや、突然悪かった。忘れてくれていい。そうだ。サフィラスで過ごす事で一つ言っておきたい事がある」
「なんでしょう」
レクスは態度を改めてロジエに向き合った。
「さっきも言った通り、情けないがサフィラスの全ての者が君にいい感情を持っているとは言い難い。だから、何かあったら隠さずにすぐ言ってくれ」
レクスの澄んだ蒼い眼差しは真っ直ぐで欠片の濁りもない。偽りのない心で案じてくれていることが窺える。
「俺が守るから」
「殿下」
「我慢はして欲しくないんだ」
なんて優しく温かな人。
「はい。ありがとうございます」
ロジエは花綻ぶような笑みを浮かべた。




