49 赦し
晴れ間の見え始めた空が茜色に染まりつつある頃、ロジエの部屋の居室でレクスは一人掛け用ではあるが大きくゆったりとした椅子に当然一人で座り、テーブルを挟んだ向かいの三人用の大きな長椅子にロジエとシエルが並んで座っていた。
「落ち着いたところで話を纏めたいんだけどいいかな」
「待て。これは落ち着いた状態なのか?」
いつもならレクスとシエルの位置が逆のはずだが。しかもロジエは俯いたままレクスを見ようとはしない。何故か。ロジエの首筋の赤い痕が原因だ。
「結果的にロジエは恐怖より羞恥が勝っているみたいだし、大丈夫そうだよ」
「兄様!!」
ロジエは赤い顔で抗議しようとするが、シエルはそれを片手を上げて制した。
「レクスも婚儀前の僕の大切な妹を下世話な噂の的にするような真似は慎んで貰いたいな」
「いや、それはその……反省している」
「じゃあ、この位置は妥当と言うことで」
レクスが歯切れ悪く答えるとシエルは冷たく言い放った。
「何をどう話したらいいのかな」
顎に手を当て考えるシエルを前にして、レクスも気持ちを切り替えて腕を組み考える始める。
「纏まりが無いからな。一つずつ挙げていくか」
一つ プロドは王の生誕祭の為に帰城した
一つ プロドは自分の国を欲しがっている
一つ ゼノは明らかにロジエに興味を持っている
一つ ゼノはロジエの母親の仇
「でもそれは……!」
「証拠は後付けでいいんだよ」
母の仇ということはロジエの勘でしか無い。ロジエがそれを言おうとすれば、再びシエルに制された。
「後は僕とレクスの知っていることを当てはめて、言えることは、―――プロドと、特にゼノは何か悪どいことを考えているので始末してしまおう、ということかな」
「してしまおうと言っても、相手が相手だけに事無くしては此方も何も出来んのが現実だ」
「そう。だからこそ些細なことにも注意を払わないと足許を掬われるだろう」
“始末”等、極論過ぎるとロジエは思うけれど、二人は当然のように話を進めている。二人は何を知って、これほどゼノの事を危ぶんでいるのだろうか。自分は何も知らされていない。
「君の兄のプロド殿は本気で国を欲しがっているのかな」
「……どうだろうな。兄の考えは俺には分からない」
「似ていない兄弟だな」
「母親が違うしな。兄は元々勤勉で為政者としては遜色の無い人物なんだが」
「遜色無い人物が重税を課そうとしたり国を欲しがったりするのかい?」
「……それについてはゼノが傍にいる所為かと……」
「君も大概お人好しだな。プロドは操られていないよ」
「二人は結託して国、もしくは王位継承権を狙っているということか?」
「そう考えるのが定石だろうが、一番の問題は」
レクスとシエル 、二人が自分を見たので、ロジエはきょとんと首を傾げた。
「「ロジエだな」」
二人は腕組みをして頷きあっている。
「あの、私、確証もなく怯えてしまったので、あまり心配せずとも……もう、落ち着きましたし……」
そう確証は無いのだ。夢で見る男の瞳はいつも赤く妖しく光っているが、ゼノの瞳は黒い。顔も笑う口許しか記憶にない。ただ、ゼノだと感じただけ。
「ロジエのあの様子を見て心配しない方が可笑しいだろう」
「全くだ。だいたい僕もレクスもゼノには猜疑心だらけだしね」
「どうしてですか?」
「「いけ好かないからだ!」」
二人が声を揃える。
レクスが人を悪く言うのは珍しい。それにシエルが感情だけで人を判断することも。
それほどまでにゼノが異端だとも言えるが。
どうして、それほどまで疑わしい相手の事を何も教えてくれていないのか。
「事実、ゼノは君に興味を抱いている。手の甲への口付けがマーキングの様だった」
「手に口付けたのか!?」
「あ、手袋してましたから……」
「ああ、眠ってしまった後で外したあれか。では処分だな。新しいものを用意してやる」
「処分は僕も賛成だ」
ロジエもあの手袋をもう二度と填める気はしないけれど、こうもはっきりと揃って不快を示されれば恥ずかしくもあった。
それにそんな些細な事よりも。
「私よりも御自分方と国の心配をしてください」
何も持たない自分よりも王太子という立場の二人の方が余程大事だ。
「国の内情は落ち着いているよ。レクスは王位継承者として充分に認められているし、余程馬鹿なことをしなければ、揺るがないだろう」
「余程馬鹿なことって何だ?」
「ロジエを無理矢理組み敷いて僕を怒らすとか?」
「俺はロジエが嫌がることはしない!」
「最近ちょっと信用度落ちてるんだよね。さっきのこともあるし」
「あの、お二人とも……」
「ああ、話が逸れたね。僕達の身の心配はね、君次第だよ」
「え?」
「そうだ。ロジエを盾に取られたら俺達は何も出来ない」
ロジエは俯いた。
心配してくれるのは嬉しい。けれど結局自分が蚊帳の外でいて、足手纏いなのだ。
「……以前私を狙ったのもゼノでしょうか?」
「……そうだろうな」
レクスが重く答える。
「私に興味を持つ理由はなんでしょう?」
「わからない」
シエルはさらりと簡単に答えた。話してくれないことがあるときはいつもこうだ。知っているくせに平然と「わからない」答える。おそらくそれはロジエを守るため。
「本当ですか?」
「わかるわけがない」
「銀の徴に関係が?」
「わからない」
「あるのですね」
「わからないと言っている!」
シエルが答えないことに、ロジエもこれ程言及したことはない。苛ついたのかシエルが声を荒げた。ロジエは静かに瞳を伏せた。
「言えないのならそれで結構です。でも私もお二人に言いたいことがあります」
「なんだ?」
「甘いことは仰らず、私の命で始末がつくのなら迷わないで下さい」
「ふざけるな!!」
真っ直ぐに二人を見据え言った言葉に、先に鋭い怒声を上げたのはレクスではなくシエルだった。
「だから君には真実が話せないんだ!! 君が僕の知っている事と考察したことを全て知ったら、君はきっとルベウス王家の庇護を受けなかったはずだ! レクスの婚約者にもならなかったと言いきれる!! 君はいつでも自分の命を軽視する!」
「私は!」
「こうなった以上はっきり言うが君の母は君を守って死んだ! それは限りなく事実だ。ならば何故その命を大切に出来ない!?」
「でもこれ以上……」
「黙れ! 君は聡くそして愚かだ。きっと自分から姿を消して一人で生きて行こうとするはずだ。逃げてどうなる? ゼノに捕まって終わりだ。僕がそれを赦すと思うか。君は正しく僕と血の繋がった従妹で妹だ。幸せにしたいと思って何が悪い!」
「……でも私の存在が兄様やレクス様の王道の妨げとなるならば」
「それが愚かだと言っているんだ! 僕やレクスが女の子一人も守れないほど惰弱だと言いたいのか。君が例え僕達に仇なす存在だとしてもそれが何だというんだ。君は養女とはいえルベウス王女で、サフィラス王太子の婚約者だ。そのように生きていくしかもう道はない。揺らぐな!」
「………」
「頭を冷やしてよく考えてみればいい」
口を挟むことを赦さず言い放つと、シエルは立ち上がり振り向きもせずに部屋を出た。レクスは一度ロジエの肩にちょっと待っていろと手を置くとシエルを追った。
シエルがああも感情を剥き出しにするのは珍しい。しかもロジエに対してだ。いや、ロジエだからとも言えるもかもしれないが。
居室を出ると、追ってくるのをわかっていたようにシエルが待っていた。
「シエル」
「………君の短慮が伝染った。僕も頭を冷やすからロジエについてて」
「遠くに行くなよ」
歩き出し、後ろ手を振る姿を大丈夫なようだとレクスは見送った。
シエルが外に続く回廊に出ると黒髪の青年が壁に背を預けて立っていた。
「……プロド殿、何か?」
「仲違いかい? 楽しいね。レクスに見切りをつけたら私の所においで」
プロドはシエルの肩に手を置いて笑うとそのまま歩いて行く。シエルはそれを怪訝な顔で見た。
「ロジエ」
レクスは俯いたままのロジエの前に膝を付いて座った。覗き込めば、泣くのを耐えるように眉を寄せている。 膝の上で強く組まれた手をレクスが包むと潤む声で話しはじめた。
「母が最後の夜に言ったんです。『貴女をルベウスの王家に預けます。彼処ならば貴女を必ず守ってくれる。母様は確めなければならないことがあるので行きますね』と」
「ああ」
「母様と別れた後、直ぐにルベウス王直々に迎えがあり王城に入りました。それから夢を見るのです。血塗れの母が、『許さない、娘は渡さない』と言って死んでいく姿と、それを見て笑う赤い目の男の姿を」
レクスの大きな手が労るようにロジエの頬に伸びた。ロジエは俯いたままレクスの手に自らの手を重ね、瞳を閉じる。
「母は私を守って亡くなったのです」
「ああ。辛かったな。ロジエの母君は本当に残念だが、お前を守ってくれたことに感謝する。これからは俺がロジエを守るから安らかに眠って欲しい」
「……私、は……」
ずっと疑問に思っていた。自分には守られる価値があるのだろうか。
母が子を守るのは理屈ではないだろう。けれど、従兄が、ルベウス王家が自分を守らなければならない理由はない。まして目の前の他国の王子が。
何の価値があるのかも分からない自分を守って誰か大切な人が傷付くのなら……。
「ロジエ。俺はロジエという存在がなければもう駄目なんだ。だから俺の為にも守らせてくれ」
先手を打たれた。
守られて、自分以外に害が及ぶのが怖いのに。
「狡い言い方をします……」
「シエルに感化されたのかもな」
「……狡いです」
はらりと流れた涙を武骨なそれでいて優しい指が拭う。
「ただの夢だと……。だから何かに狙われているかも知れないのも勘違いなんだと。兄様がずっと諭してくれたんです。私もそうなんだと言い聞かせて……。万が一、事実だったとしても自分が消えればいいと、ずっと思って……」
「俺もシエルもそんな事をさせるわけがないだろう」
「……お二人とも馬鹿です」
「ああ。俺達はロジエ馬鹿なんだ」
どうしてこんなにも大切にしてくれるのだろうか。自分の周りにいる人々は優しすぎる。
温かくて怖くて涙が止まらない。
「どうして……」
「好きだからに決まっている。シエルも俺もロジエを心から愛して、そして自らの拠り所にしているんだ」
「私には……」
「お前の価値を決めるのはお前じゃない。俺達一人一人だ。大事なんだ。いい加減受け入れろ」
「馬鹿です」
「馬鹿でいい」
ロジエは長椅子から滑り落ちるようにしてレクスに縋り付いた。
縋らずにいられないほどにこの蒼き光は温かく慈悲深い。総てを赦してくれそうだ。
レクスの腕がロジエの腰と頭に回り身体全体で包み込むように抱き締めてくれる。
自分の存在が害になるのなら消えてしまえばいい
ずっとそう思っていた。
でも、もう離れられない。
レクスとシエル、二人との繋がりを断ちたくないと欲が出てしまった。
「一緒にいることを赦して下さいますか?」
「赦すことで傍にいると言うならいくらでも赦す。赦すぞ、ロジエ」
「……はい……」
ロジエは溢れる涙を拭うことなくレクスの首に腕を回した。
「私、兄様を傷つけました」
「そうだな。お前は本当に自分に対する認識が甘い。お前に何かあれば、シエルは勿論、当然俺もリアンも、そしてお前を知る者は皆、悲しむ。だから命を粗末にしてはいけないんだ」
「でも」
「ロジエ。お前は俺がお前の為に命を投げ出したらそれを簡単に受け止められるか? 泣かないと言えるか」
「無理です! 嫌……死なないで……」
「そうだ。泣く者がいるから死んではいけないんだ。俺が死んでも、シエルが死んでもお前は泣く。だから俺達は死なない。ロジエも俺達の為に生にしがみ付け」
「……はい……」
レクスはロジエの身体を僅かに離し、滑らかな頬を伝う真珠のような雫を唇で掬う。
「兄様に謝ります」
「それがいい。珍しくシエルが落ち込んでいたぞ?」
「え?」
驚いたように開かれた濡れた銀の双眸に、レクスは気付かなかったのかと小さく笑った。
「お前達はまともな争議は初めてだろう? シエルだってお前に嫌われたらと思えば落ち込むさ」
「……兄様はいつも私に最善の道を示してくれるんです……。レクス様とのこともそうです。勿論その道を選ぶかどうかは私が決めますが……。兄様が私を大切にしてくれているのは嫌と言うほどわかります。だから嫌いになんてなれません。それに私も兄様に嫌われたくはありません」
「そうだな」
「レクス様?」
何故か諦め混じりのような答え方にロジエは首を捻った。「すまん」とレクスは答える。
「……お前が心からシエルを頼ることに悋気を覚えないとは言えないんだ…。だがロジエとシエルは仲良くしていた方が自然だとも思う」
「私もレクス様と兄様には嫉妬しますよ?」
「は?」
思わぬ返答に今度驚いたのはレクスで、小さく笑ったのはロジエだ。
「お互い認め合って同じ立場に立てる存在ですから。私も男に生まれたかったと思います」
「よしてくれ。お前が男だったらなんて考えたくもない」
「ふふ。そうしたらどなたとご結婚されるのでしょうね」
「……誰ならいいと思う?」
意地の悪い質問には同じように返す。
するとロジエは泣き腫らした瞳で、眉根を寄せた。
「…………私以外駄目です…」
「ははっ。二人きりの時にあまり可愛いことを言うなよ。さっきと同じ目にあうぞ」
さっきと同じ目と言われ、ロジエの顔にさっと朱が差す。警戒するかと思えば、ロジエはもう一度強くレクスに抱きついた。そしてレクスの耳元で小さく囁く。
「嫌では無いですよ」
「私、レクス様になら全てを捧げられます」
どくりと心臓が波打つ。
何よりも嬉しいその言葉をレクスは胸に刻み、反芻し、切なげに眉を寄せ瞳を閉じる。
「ロジエ……。頼む。お前の事が大事なんだ。だから今は我慢するから、婚姻後にもう一度言ってくれ」
今はまだ駄目だ。
何もかもが終わり、ただ幸せだと。
身を委ねる事にそれだけしか考えられないくらいに幸せになったときに。
総てを与えて欲しい。
そして自分もそれ以上のものを与えられたらと思う。
「ロジエ、共に、いや、皆で幸せになろう」
「……はい……」
触れるだけ、誓いのような口付けが交わされた。




