48 挨拶
空が重い。雨季が舞い戻って来てしまったような灰色の空だった。こういう日は空気まで重くなるので気分も幾分滅入る気がする。あの空の隙間に少しでも青色が見えれば、それだけで気持ちが少し軽くなるのに……と考えてしまったことにロジエは一人でくすりと笑った。
「ロジエ様、プロド殿下が挨拶にいらしています」
「……応接室でシエル兄様と一緒にお会いします。お通ししてください。それからレクス様に来訪があったとお知らせしてください」
レクスと第一王子であるプロドとの仲があまり良くないということはロジエも何処からともなく聞いていた。リアンも二人の関係には言葉を濁したのでそれ以上は追求したことはない。
レクスも随分と気を揉んでいたようだし、約束したように軽率な事はしない。
(あの方は本当に国を欲しいと思っているのでしょうか。……よく掴めない人柄です……)
第一王子でありながら側室の子のプロドと、第二王子でありながら正妃の子で王位継承者のレクス。
確執がないほうが不思議なのだろう。
階段の下で待つシエルに微笑まれ、ロジエも微笑む。差し出された手を取れば、レクス相手とはまた違うが安堵が広がった。
「やあ、ナイト付きか」
応接室の扉を開けば、先に案内されていたプロドは窓辺でゆっくりと振り向いた。連れだった姿に笑みを浮かべるプロドにシエルもにこりと微笑む。
「不都合でも?」
「いいや。どうせレクスが自分以外の男と二人になるのを許さないのだろう?……それとも私と二人が駄目なのかな?」
「どちらもでしょう」
シエルは答えつつロジエを長椅子に座らせた。
「はは! はっきり言うなぁ。……ロジエ姫はずいぶんとレクスに愛されているね」
「畏れ多い事ですが……」
ロジエは慎んで、それでも肯定した。
侍女がお茶を配すると、プロドもロジエの向かいに座り、部屋を仰いだ。
「否定しないか。それにしてもこの部屋か……因縁とは面白いな」
「因縁?」
「この部屋は、サフィラスの蒼皇が寵姫を囲っていた部屋だ。部屋自体が豪華で特殊だから、その後は特別な婚約者を住まわせる部屋になったようだが」
「特殊……特別な?」
「寵愛深いとでもいうのか。逃げられたくない相手だよ。この部屋は全ての窓に専用の棒鍵が付いているし、扉には内鍵とは別に内側から開けられない外鍵が二つつけられている。その一つは合鍵すらなく王が持つものとされているんだ。余程執着していた相手なのだろうね」
プロドはティーカップを手にして静かにそれを口にした。
蒼皇といえばサフィラスの英雄ともいえる優れた王で、彼のお陰でルベウスとの戦争は終焉となり百年に渡り両国は和平を築いていた。その王に愛妾がいたとは。レクスはその事とこの部屋の意味を……。
「レクスはそういった裏事情は知らないだろうけど?」
ロジエの考えを読んだように返すプロドをやはり喰えないと思った。
「そんなことはいいか。それよりも王太子妃になる君にぜひ挨拶したいと言う者がいてね、連れてきたんだよ。入れていいかな?」
「僕も同席しても?」
シエルの纏う空気が僅かに硬くなった。不思議に思い見上げれば、大丈夫だと頷いて肩を抱かれた。
「勿論、どうぞ。ゼノ、入れ」
プロドの声に控えの間の扉が開いた。
「失礼致します」
入ってきた黒い影。黒い髪黒い瞳、狡猾さと怪しさを滲ませた中年期の痩せた男。
ロジエはシエルの服を知らずに掴んでいた。シエルの手にも力が入る。
怖い 怖い 怖い 怖い 怖い!!
あれは赤い目の男!!
「シエル殿下、ロジエ姫、私の執務補佐官のゼノです。ゼノ、こちらがルベウスのシエル王太子とレクスの婚約者となられたロジエ姫だよ。シエル殿下、挨拶をさせていいかな?」
シエルはロジエの肩を守るように抱いたまま「どうぞ」と微笑んだ。
「第一王子プロド様の執務補佐を勤めております、ゼノと申します。以後お見知りおきを」
ゼノはシエルに慇懃に頭を下げ、ゆっくりとロジエの方を向き、ヒヤリとした手でロジエの手を掬い上げ口付けた。
嫌!!
払い除けたい気持ちと震えそうな身体を全力で奮い立たせ、ロジエは笑った。
「ロジエと申します」
ふっという笑い声はゼノではなく傍らのプロドからだった。
「『こちらこそお見知りおきを』は無いようだ。嫌われたな、ゼノ?」
「はっきり申されますな。私とて、女性に受けない容姿なのは自覚していますぞ」
「ははっ! 女性に受けないのは雰囲気と歳だよ。それにロジエ姫はレクスの婚約者。ああいう美形が好きなんだろうね。さて、挨拶は終わった。下がろう。時間を取らせて申し訳なかったね」
「いいえ」
「ああ、そうそう言い忘れた。蒼皇の寵姫はね、ルベウスの巫女で銀の髪をしていたそうだよ。それが因縁だ。では、失礼」
扉に手をかけプロドが告げた言葉はロジエの中には留まらなかった。
扉が閉じるやロジエはシエルにしがみ付いた。
「にい、さま……兄様!」
「ああ、大丈夫。大丈夫だから落ち着いて」
「あの人は母の……!」
「うん。わかった。大丈夫だよ」
背を抱かれ、頭を撫でられても震えは止まらない。それでも泣かずにはいられる。でも。
「ロジエ!!」
扉が開くと共に聞えた声にロジエは駆けていた。
「レクス様!」
ぶつかるように飛び込んで抱きついた。レクスも飛び込んで来たのがロジエと正しく認識する前に抱き止めていた。
「ああ。どうした? ……何かされたか!?」
ロジエはいいえと首をふる。
「怖いんです! 抱き締めて…!」
怖いと言うように確かにロジエの細い身体は震えていた。ロジエ自身が人目を気にせずに抱きついて来るのもおかしい。
「何があった?」
レクスはロジエを抱き締め、いつものように頭を背を髪を優しく撫で、シエルに問う。
「時間があるのなら話は後でしたいんだけど」
「急ぎの仕事は終わったから大丈夫だ」
「じゃあ、落ち着くまで傍にいてやって。下にいるよ」
レクスが頷くとシエルは静かに部屋を出た。
「ロジエ。どうした?」
「……少しこのままでいて下さい……」
「……いくらでも」
言って、ふわりと抱き上げる。ロジエもレクスの首に手を回し縋り付く。そのままロジエを膝にのせ長椅子に深く腰かけた。
「ロジエ」
未だ縋り付いたままのロジエの髪を梳き、頭に口付ける。
「ロジエ。大丈夫だ。俺がいる」
流れる髪を耳に掛け、耳元で囁いた。
「絶対に離さない。愛している」
ロジエは縋り付いたまま、小さくこくりと頷いた。
背をぽんぽんと優しく叩き、ゆっくりとまた髪を撫で背を撫でる。繰り返し、繰り返し。愛していると囁いて。
やがてロジエは身体の力を抜いてレクスの胸に凭れ掛かった。
「……音、安心します」
「そうか。なら、このままいよう」
ロジエは規則正しく聞こえる心音と抱き締められる温もりに身を任せて瞳を閉じた。
『私の贄となれ』
「いやあああああぁぁぁぁぁああ!!!!」
弧を描く口許と赤い瞳に恐怖して、跳ね起きた身体はガタガタと震えている。心臓が大きく波打ち呼吸は荒く息苦しい。
ぱたぱたと寝具に落ちた雫を見て自分が泣いていることに気付いた。
怖い 怖い 怖い 怖い 怖い
誰か
だめ だめ だめ だめ だめ
呼んだら、だめ
でも お願い
――――― レクス様!!
コンっと一つ小さく扉が叩かれた。続いて「ロジエ」とごく小さな声で呼びかけられる。
レクスの声だ。ノックの音も呼びかける声も寝ていたら気付かない位の小ささで、それでも耳になじんだ温かな声に更に涙が零れて咄嗟には声が出ない。
そう言えば自分はいつ寝てしまったのだろうか。レクスに抱かれていたはずなのに。
起きたときの叫び声が微かにでも聞こえたのだとしたら、下のシエルの部屋にいたのだろう。
このまま黙っていれば、気のせいかと心配させることもなく執務に戻ってもらうこともできるだろう。
「……れくす、さま……」
そう思ったのに声が彼の名を紡いでしまった。
「開けるぞ!」
届くとも思えない小さな声をそれでも彼は聞き取ったらしい。性急に鍵を開ける音がして間もなく扉が開かれた。レクスは寝台の上の涙に濡れたロジエを一目見て足早に彼女の元に向かう。
ロジエは広げられた腕の中に身を委ねると躊躇いなくレクスの背に腕を廻した。
「…レクス様……」
「ああ。もう、大丈夫だ。俺がいる」
「…はい。はい……」
強く強く抱きしめられて心地の良い温もりを感じて漸く息が付けるような気がした。
「…すみません……私、声を上げていたんですね……」
「ああ。聞えてよかった。いつもこんな風に耐えているのか……」
レクスはロジエを横抱きに抱えなおして寝台に腰を下ろす。
「いいえ。最近は全く…。それにここまで苛まれたことは……」
「……なんの夢なのかは話して貰えないか?……」
背中に廻されたロジエの手がレクスの服をぎゅっと握った。ひゅっと息を呑み込む音がしてその言葉はぽつりと落とされた。
「……母が、殺される夢です……」
顔を寄せたレクスの胸で、規則正しい心音が小さく跳ねた。
「それは辛いな……」
「……母が殺されるところを見たわけではありません。でも夢に見るのです。……赤い目の男が母に魔法でとどめを刺す瞬間を……」
「赤い目の男?」
「……ゼノ……」
根拠のないことを言ったのに、今度はレクスの心臓は凪いだままだった。心を隠しているのか、予測していたのか。
「わかった」
「……信じて……?」
「信じるさ。ロジエの言う事ならどんな戯言でも」
額に触れる口付けに目頭が熱くなる。どうして彼はこんなにも自分を落ちつけるのが巧いのだろうか。
「……嘘も吐けません……」
「吐かなければいい」
頭にも頬にも口付けて、露の滲む眦に触れる。
「ロジエ」
優しく穏やかで、それでいて熱の籠った声にロジエは唇を差し出した。
啄むだけの口付けが何度も何度も落ちてくる。やがて表面の触れ合いが長くなり、深さも増していく。口腔内を擽られ、舐められて、舌を絡め取られれば、もう蒼い色しか見えなくなった。流し込まれた唾液を飲み込めば良くできたとばかりに頭を撫でられ抱き締められる。こんなにも落ち着く場所が他にあるとは思えない。ロジエは暫くその温かみに縋った。
どのくらいそうしていたのだろうか。
ロジエも落ち着いて考えられるようになってくると、今度はその状況に落ち着かなくなってきた。寝台の上でレクス膝の上に乗って抱きついているだなんて、自分は何をしているのだろうかと顔も身体も熱くなる。
「レクス様、私、その、もう大丈夫です。ですから、あの……」
「俺が大丈夫じゃない……」
まずい
まずいだろう
ここは寝台の上だ
しかも腕の中にロジエだ!
細いけれど柔らかくて温かくて甘い香りが
って違う!!
今まで脅えるロジエを宥めていたんだろう
それが、ちょっと落ち着きを見せたからって、途端に男の本性を曝すなんて
落ち着け!! 俺!!
「大丈夫じゃないって、どうしたんですか!? 具合が悪いなら横になりますか!?」
違う!! ロジエ!! いっそ突き放してくれ!!
「……ロジエ……」
「あっ!」
葛藤を続けるレクスがした行動はしかし、ロジエを寝台に押し倒しその首筋に口付けることだった。
「ロジエ……好きだ…」
「ん、あ……あ、の……ぁっ…」
首から鎖骨へと唇を這わし、好きだと呟き耳朶を優しく食めば、小さく身を震わせて艶のある吐息を溢した。
感じやすい事を窺わせる反応にもっと先をと身体が命じる。
まずい まずい まずい まずい まずい!!
「じゃあ 止めなよ」
「きゃああああぁぁぁっっ!!」
戸口から聞こえた冷めた声に、驚きの悲鳴を上げたロジエによってレクスは寝台から突き落とされた。




