47 帰城
サフィラス城の雰囲気がいつもと違う。
何が、という事は分からない。けれども何かが違う。空気が重いような、ねっとりとしたような……纏わりつくような。
レクスからは何も聞いていないが、なにかあったのだろうか。
ロジエは図書室へ向かう回廊で常とは違う城の空気を感じていた。
そうしてその理由を目の前を歩いて来た黒髪の青年に見た。
その人物を目にしたのは初めてだが、彼の醸す雰囲気は一般の人にはない程に重々しい。そしてその重さはロジエのよく知ったものだった。紹介されたことは無い。婚約式にも顔を見せなかった。だが、おそらく彼は……。
ロジエは回廊の端により頭を下げた。
黒髪黒瞳の良く整った容姿の青年はロジエの横を通り過ぎる際にピタリと脚を止めた。
「君がレクスの婚約者殿かな」
王太子を呼び捨てにする人物。どこか人を試すように微笑む彼に問われ、ロジエはやはりと確信した。
――― 彼はサフィラス第一王子プロド様だ。
「ロジエと申します。プロド殿下?」
「ああ、自己紹介がまだだったね。君の言う通り第一王子のプロドだ。顔を上げて」
言われるまま、ロジエは顔を上げた。グローブを嵌めた右手が頤を掬う。視線の先にあるのは切れ長の冴えた瞳を持つ端整な顔。面差しは違うがやはり少しレクスに似ているような気がする。
「環指に蒼金剛石、首に青薔薇……ははっ。女に興味ない振りをして唯の器量好みか! まあ、これだけの佳人ならばわからなくもないが」
「兄上!」
鋭く跳んできた声にプロドの手がロジエの頤から離れた。
「やあ、レクス。久しぶり」
声の主レクスは、兄の挨拶に無言で頷き、眉間に深い皺を刻んで大股で距離を詰めロジエの前に立ちふさがった。
「帰城の際には連絡をと言っておきましたが」
「いいだろう。自分の家に帰って来ただけだ」
「準備というものがありますので」
「必要ないよ、別に。直に父上の生誕祭もあるし、ちょっと相談があって来ただけだ」
「相談?」
「国を半分貰おうかと思ってね」
さらりと事も無げに大事を言う。
「!? 何を!?」
「サフィラスは大国だ。東部と西部に分けてもいいかと思うのだが?」
「そんなことをしなくとも、今でも西部の自治は兄上に任せているはずだ」
「お前の指示の元な。ちょっとでも自由にしようとすると意見してくるじゃないか」
「それはこの間の課税案のことか。あれでは西部の収益と合わない。重税になりすぎる!」
「お前が思っているより国民は潤っているよ」
「国もこれ以上増税しなくとも潤っている」
「はあ。意見が合わないなぁ。だから」
プロドはあからさまに溜息を吐くと、人の心を冷えさせるような笑みを浮かべた。
「私は自分の思い通りになる自分の国が欲しいんだよ」
レクスがカッとして口を開こうとすれば、きゅっと柔らかな手がレクスの手を握った。振り向けばロジエが落ち着いてというように微笑み頷いた。豁然と心が弛む。レクスもロジエに微笑みを返して兄に向き直った。
「兄上。このようなところでする話ではない」
そうだ。ここは人の行き交う回廊だ。今は人影がないが何処で誰が聴いているか分からない。
「後でゆっくりと場を設けたい。出来ればもう一度考え直して欲しい。……ロジエ、送っていく」
ロジエの腰を抱いて踵を廻らす。背には嘲るような視線を感じるが振り返らない。
兄は本気であんな事を言っているのだろうか。
いや、それは話し合いでどうとでもなるはずだ。
ただ
兄が帰城したということはゼノも来ているはず。
レクスは何故か幼い頃から宰相であるゼノにいい感情を持てなかった。自分が王になった際には、適当に理由をつけて暇を出そうと思うほどに。けれど、ゼノはそれをすり抜けるように宰相の地位を捨て、プロドの執務補佐官となった。第一王子の重用する者を特に理由もなく罷免することは叶わない。上手く逃げている。シエルが言うように。
ロジエの部屋へ入ると、レクスはロジエの薄い両肩に手を置いた。
「ロジエ。いいか、城の中でも決して一人になるな。……必ず誰かを傍に……」
シエルはゼノが千年前のルベウスの王かも知れないと言っていた。ルベウスに不老長寿の妙薬があるならばありえない話ではない。
だが、何故ルベウスの王であった者がサフィラスの王家に仕えているのか。
サフィラスに何かしたいのか、それともルベウスか。
何よりも怖いのは。
レクスは目の前の銀の少女に目を落とす。
あの男が少女一人を気にかけるとも思えないが、それでも何故か胸が騒ぐ。
シエルが放っておけないというのは、ゼノが自国の者である可能性と共に、ロジエに関係しているからではないのか。
ニーデルを操ったのが真にゼノであるとしたら尚更。
「俺が傍に居ないときは常にシエルといてくれ。それと護衛を増やした方がいいな。近衛の者を交代で……」
「レクス様」
レクスは真っ直ぐにロジエを見ているが、話を聞くという余地がないようだ。ロジエは厳しい顔をするレクスの頬に手を添えた。
「レクス様、好きですよ」
「え? あ? ああ…何だ? 突然……」
突然告げられたその言葉を耳に止め、レクスは己を取り返した。ロジエもそれを確認して安堵した様に穏やかな笑みを浮かべる。
「落ち着いて下さい。私は大丈夫です。レクス様が何に心を砕いているのかはよく分かりませんが、軽はずみな行動はしないと約束します。兄様もクライヴさんも、皆さんいますよ。私も微力ですが貴方の力になりますから」
「ロジエ……ああ、そうだな。ありがとう。周りを頼っていいんだよな」
レクスは頬に添えられた細い手を握り、瞳を閉じた。
「はい。その方が私も皆さんも喜びます」
握った手を口許に引き寄せ誓いのように口付ける。
「ロジエ。好きだ」
「え? あの、え? 今、そんな話…?」
「お前も突然言っただろう」
「それは、レクス様に落ち着いてもらいたくて……きゃあ!?」
今度はその手をぐいっと引いて、華奢な身体ごと引き寄せ抱き止めた。肩口に顔を乗せ閉じ込めれば体中に温かな安堵が広がった。
「ああ、落ち着いた。お前の言葉は、いや存在自体が魔法のようだ」
「……レクス様だってそうですよ。すごく心が温かくなります」
ロジエが腕の中で顔を上げれば、レクスの顔が近づきあっさりと唇が重なった。
「ロジエ 好きだ。愛している」
唇が離れるか離れないかという距離で愛の言葉を囁いて、舌を差し込んで絡めあう。
「……あ、んぁあ……ぁ」
「は……ろじえ……」
自分の理性の限界まで柔らかく甘い唇と口腔を堪能し、もう一度強く抱き締めた。
「これから色々な事が起きるだろう。必ず守る。大丈夫だ」
「レクス様、私も貴方を守ります」
「ああ、互いに……」
一人で背負う必要は無い。
重い荷は周りの者が助けてくれる。
自分はロジエという存在で安堵し強くもなれる。
いつもこの小さく頼りなげな少女は、大切なことを教え、強く頼もしく自分を支えてくれる。
決して無くせない大切な存在を閉じ込めるように抱き締め、改めて必ず守ると心に決めた。




