42 嫉妬
数日後の孤児院への視察の書類を持ちレクスの執務室に向かうロジエは回廊の先に目当ての蒼い姿をみかけて足を止めた。
聞える小鳥の囀りのような明るい声。彼を中心に色とりどりの花を咲かせる見目麗しい女性達。
(クライヴさんに渡して貰えばいいですね)
ロジエは視線を戻しそのまま主のいない執務室に脚をむけた。
可愛らしくそれでいて艶美に話し掛ける令嬢一人一人にレクスは丁重に対応していた。それは王子として至極当然の態度であり、求められる姿勢でもある。それでもロジエの胸にはもやもやとしたものが広がる。レクスの周りには綺麗な女性が多い。それは貴族令嬢を筆頭に女官、侍女すらも綺麗処を集めたのではと思うほどだ。
いつかレクスも彼女達の艶に気付いてしまうのではないか。そう思うと心が沈む。
書類を届けロジエは正式に婚約者となってから王子妃としての務めの為に自分に与えられた執務室に戻ると、はあと溜息を吐く。
そしてじっと、部屋に備えられた姿見をみつめた。鏡に映るのは浮かない顔をした銀髪の娘の姿。胸は小さくはないと思う。だからと言って誇れるほど大きくはない。特別すらっとしたスタイルでもなければ、当然肉感的なものでもない。
はあ、ともう一度溜息を吐く。
(……十人並みって私の為にある言葉なんですね……)
時々、夜会で身体の線が露になるドレスを着ている女性がいる。余程、スタイルに自信があるのだろうし、端から見てもそう思うほど素晴らしい。そういった女性は男性に触れるのも巧い。何時だったか、レクスの腕をとって大きな胸に押し付けているのを目にしたことがある。レティシアなどは「端たない」と言うけれど、男性としては嫌な気はしないだろう。当然、レクスも……。
はあと溜め息をもうひとつ。
(レクス様が私を好きになってくれたのが不思議でなりません)
婚約者のレクスは並み居る美女を歯牙にもかけず自分を選んで求めてくれた。彼が甘い言葉を囁き、優しく触れるのは自分だけなのだと思うと、そのことに甘い喜びのようなものを感じ、剰え優越意識さえも持ってしまう。
自己嫌悪、である。
こんな風に誰かと自分を比べることなど、ロジエはしたことがなかった。
比べる必要など無かったからだ。ロジエは一人だった。ルベウス王家の為に知識を吸収し、武芸を学んだ。他の誰かと比べて、より優れたいと思ったことは無い。自分に出来るだけの事をすれば良かった。
シエルの事は幼い頃から大好きだった。自分に安らげる居場所を与えてくれた大切な人。彼の役に立ちたかった。けれど独占しようと思ったことはない。シエルは血縁者で血のつながりがある以上彼との縁が切れることは無い。その関係は満たされたのもであり、それ以上の存在になるべくもない。たとえシエルに恋人がいても、自分はまた妹という特別な存在だった。比べる存在ですら無い。だから寂しさはあっても嫉妬はない。寧ろ誰よりも幸せになって欲しい。
けれど殊レクスの事に関しては、つい自分と他の女性とを比べてしまう。
美しい容姿や扇情的な身体つきを羨ましく思い、けれどそんな彼女達よりも近く彼の傍に居られる自分に自恃の気持ちを持つ。
好きという同じ言葉であるのにシエルとレクスに感じるものでは大きな違いがあった。
レクスにも当然幸せになっては貰いたい。でもそこに自分以外の女性が並び立つとなるとどうしようもなく胸がざわついてしまう。
浅ましい、浅まし過ぎる。
俯いたまま深く深く吐き出される嘆息。
「こんな格好でいると風邪をひくぞ」
「ひっ!! いやあああああああぁぁぁぁぁああ!!!」
思考の渦に嵌り込み、全く意識が外に向いていないのに、いきなり後ろから抱き竦められれば悲鳴も上がる。ロジエの悲鳴は辺りに響き渡った。扉の外から衛兵が「どうしました!?」と慌てた声を掛ける。ばくばくと波打つ心臓を宥めるロジエに変わり、レクスが耳に手を当てながら「何でもない。ロジエが虫に驚いただけだ」と返事をした。
「全く。何て声を出すんだ」
「うう。だっていきなり声を掛けるから……」
ロジエは恥ずかしさで顔を上げられず、身体の向きを変えるとレクスの胸に縋り付く。レクスはロジエを抱き留めるとあやすように髪を撫でる。
「言っておくが、ノックもしたし声もかけたぞ」
「……いつから見ていたんですか…?」
「いつからって、入ったばかりだが?」
「なら、いいです……」
少なくとも胸を確認していたのは見られていないだろう。と些かほっとして身体をレクスに預けた。
「ロジエ」
「なんですか?」
「俺以外の奴の前でこんな格好するなよ?」
こんな格好。ロジエの今の格好はノースリーブタイプの膝丈のミニドレスだ。前は二段後ろは三段のチュール素材のティアードデザイン。ネックレスの映える首元のカッティングになっており当然のようにそこには薔薇のネックレスが輝いている。背中の開きが広いが先程までは七分袖のボレロを合わせていたので首元しか肌は晒されていないかった。偶々鏡の前に立っていた為にそんな格好であっただけで人前にこんな姿で出る訳もない。いつもなら「わかりました」と素直に言うし、自分でもそうする。だが。
「こんな貧相な身体、誰も見ませんよ」
そんな自嘲めいた言葉が出てしまう。
「……本気で言っているのか」
レクスが低く呟く。レクスの剣を握る武骨な手がするりとロジエの首に伸び、そのままむき出しの肩から腕を滑らせる。
「んっ……」
ぴくりとロジエの肩が震えた。項から肩甲骨の辺りも大きく温かな手でさわりと撫で上げられて、反射的にロジエはぐっと手に力を入れてレクスを押しのけた。
「……ぁ……」
「ほらな。こういう危険な目に合うんだぞ?」
レクスのした行為にか彼を拒絶したことにか些か狼狽するロジエに、レクスはくつくつと笑う。レクスが笑ってくれたことで、ロジエも深く考えずほっとして「もうっ」と頬を膨らませた。
「さっきはどうして声を掛けてこなかったんだ?」
ボレロを羽織ったロジエを応接用の長椅子に座らせ、レクスはその隣に座る。
「気付いていたんですか……楽しそうにお話しされていたので…遠慮しました」
「変な遠慮なんてするな。気にせず俺の傍に居ればいい」
「……でも……」
「この書類を持ってきたんだろう?」
レクスは机に置かれたサイン済みの書類を指した。おそらくこれをとどける口実で訪ねてくれたのだろう。
「仕事の話なら益々遠慮する必要が無いだろう。どうしたんだ?」
「ですから、楽しそうだったので遠慮したんですよ?」
「唯の雑談に遠慮なんかするな」
「でも、王子として皆さんと親睦を深めるのは大切なことですし」
ロジエは視線を落とし膝に置いた手を握った。
「ロジエ。俺は共にいられる時間ならほんの少しでもお前と一緒に過ごしたいんだが、お前は違うのか?」
「え?」
「勿論、皆と親睦を深めることも大切だが、そこにお前がいて何が悪い? 本心を言えば俺はこうして二人きりで過ごしたいくらいだ」
「あ、あの……。私だってそうですけど……。でも私がいると雰囲気が……」
ロジエもレティシアのおかげでだいぶサフィラスの令嬢達と距離を詰められるようになったのだが、あの場にいた令嬢達は皆、未だにレクスの妃の座を狙っていてロジエとは故意に一線を置く者達だった。
「それに……」
「それに?」
「……気後れしてしまって……」
「気後れ? なんだそれは」
「だって、レクス様の周りは綺麗な人ばかりで……レクス様だってそんな人たちとお話ししていた方が楽しいかなって……」
「ロジエは俺が他の女性といても平気なのか? 前に親密にしていたら嫌だと言ってくれなかったか?」
「…… 嫌ですけど、レクス様の気持ちは?……」
「俺は誰よりもロジエといたい。お前より美しい女性が何処にいる?」
(ああ、また。こうして彼のまっすぐな気持ちを確かめて優越感に浸ろうとする自分がいる)
浅ましく醜い自分。こんな自分はきっと彼に嫌われてしまう。
「うぉ!? おい! なんで泣くんだ!?」
レクスは慌てて長椅子から立ち上がる。膝に置かれた手にぽたりと雫が落ちると、ロジエの前に膝を付いて俯いた顔を覗き込む。
「どうした? 俺が何か酷いことを言ったか?」
頬に触れて親指の腹で涙を拭う。ロジエはゆるゆると首を振った。
「れ、レクス様に嫌われてしまいそうで……」
「嫌う? なぜそうなる?」
「言ったら…嫌われてしまいます……」
「お前を嫌う方法があるなら教えて欲しいくらいだ。日を増すごとに好きになっていくだけだ」
レクスはロジエの頬を滑り落ちた雫を拭い、言ってくれと促した。
「……私は…そうやってレクス様が私を好きだと言ってくれるのを確かめて、安心して……他の人より大切にされていると優越感に浸っているんです」
頬を撫でていた手が止まり、レクスが小さく息を吐いて立ち上がる。ああ、やはり軽蔑された、とまたひとつ雫が頬を伝うと同時にレクスが横に座り身体を抱き留められる。
「そんな事か……。そんな事なら俺も常に思っているぞ。こうしてお前に触れることも口付けることが許されるのも俺だけだと優越感を持つ」
「……レクス様もそんなことを思うのですか?」
「思うさ。こんなに可愛い恋人なんだ。優越感を持って何が悪い」
「か、可愛くはないですけど……でも、そうなんですね。私が優越感を持ってしまうのはレクス様が素敵だからなんですね」
「変な納得の仕方をするな。ただ、俺達は互いに溺れすぎているのかもしれないな」
優越感を持つという事は自分の恋人を自慢に思っているという事だ。
「周りに迷惑にならないように自分が思っている分にはいいんじゃないか。少なくとも俺はお前にそう思われていることが嬉しい。ロジエはどうだ?」
「私も……嬉しいです」
「だったらそれでいいだろう。ひけらかすわけでもなし」
レクスの場合は多少見せつける意志もあるが、それは黙っておく。レクスは少し身体を離すと、ロジエの額に音を立て唇を落とす。幾度となくしているというのにびくりと肩が震えるのが可愛くて、頬にも同じように触れた。
「お前は誰よりも可愛く美しい。気後れなんてする必要が何処にある。何度も言うがずっと俺の傍に居てくれ」
頬や目蓋、鼻先にも唇を落として。ロジエは擽ったそうに身を捩る。
「こうしてレクス様に優しい言葉を貰ったり、触れられたり抱きしめられるととても安心するんです。でもそれと同時に怖くもなります」
ふわふわと温かいと感じたり、ひどく心細さを感じたり。本当に不思議でならない。
「俺だって怖いさ」
「……レクス様も?……」
「ああ。好きな相手が一番怖い……そうだろう?」
好きで。好きで。好きで。
どうしようもなく好きだからこそ
嫌われるのが堪らなく怖い。
「俺がロジエを嫌うことはありえない。それでもお前が不安になるなら。好きだと言うことでお前が安心できるなら。何度でも望むだけ……呆れる位好きだと言ってやる。俺は国や民を背負う者として、ロジエの為だけに生きてやる事は出来ない。だが、この躰も心も全てお前のものだ。永遠にお前だけのものだ」
「レクス様……」
「俺だってロジエから言葉が貰えなければ不安になる。 “心で思っていても気持ちは言葉にしないと伝わらない” そう言ったよな? ロジエからも言ってくれると嬉しいのだが」
「……だいすきです レクス様……」
ロジエは幸せそうに甘い声でレクスの名前を紡ぐと長い睫を伏せる。レクスは可愛い恋人の唇をゆるりと覆った。
ふと、脚を止める。
視線の先には普段あまり人には見せる事のない朗らかな笑顔のレクスの姿。そしてその相手は決まって彼女だった。
明るい赤髪をひとつに結い上げた凛とした姿の背の高い美女。長身のレクスと並ぶととても絵になる。
此方の視線に気付くと微笑んで会釈をして下がってくれる礼儀正しい人。
「ロジエ」
レクスも彼女が下がるとロジエにいつものように甘い笑顔を見せてくれる。
だから大丈夫、だとは思うのだけれど。
「どうした?」
それでも浮かない顔をしてしまっていたのだろう。そっと頬に大きな手が添えられた。
ロジエはじっとレクスを見つめた後で、不意に彼に抱き着いた。
「ろ、ロジエ!?」
「余所見しちゃダメです」
ロジエは痛いほど抱き締められた。




