37 王と王子
レクスには成人してより剣の鍛錬のほかに習慣としている事が一つあった。
就寝前に父王と寝酒を一杯飲むのである。
きっかけは体調を崩した父の見舞いに訪れた際、回廊で出会った侍従が持って来た葡萄酒をレクスが代わって届けたことからだった。
「この楽しみのも直になくなるな」
「父上?」
「お前が結婚したら流石に夜寝る前に此処に来ようとは思わないだろう」
「いや、そんなことは……。彼女もそんなことで気分を害すような心柄ではないし」
寧ろ、行けと責付かれそうだ、と心で笑ってレクスはグラスを口にした。
「馬鹿な事を。お前があの姫にどれほど入れ込んでいるかは私の耳にも入っているぞ。姫の心柄の問題ではなくお前が来なくなるんだ。だが、それでいい」
酒のつまみがあるぞと、グラント王はテーブルに細長いパイ生地の菓子を置いた。
「これは……」
レクスはそれに見覚えがあった。午後の休憩の際にロジエが作ったと出してくれた塩味のパイ菓子だ。
「昼間リアンが茶請にと届けてくれた。姫が私の分もと作ってくれたらしい。本人が届けてくれなかったのは残念だが、気を使っているのだろうな。リアンと茶を飲むのも楽しいが、今度はリアンと一緒に来て欲しいものだ。ああ、だがその時間はお前と過ごしているらしいな?」
「……時間をずらせば問題ない」
「はは……。自分との時間は譲る気はないか。なるほど入れ込んでいるらしい」
「一緒にいられる限られた時間だから」
「そうだろうな。お前を執務づけにしているのは私自身だ。すまないな」
「父上の所為ではない。王子の務めだ。……それに王子としての自由な時間を与えてくれているのは、…父さんだ」
レクスのこなしている執務の量や王の体調を見れば、譲位があってもおかしくない。そうすべきだという意見も多くある。だが、それをしないのはグラント王の優しさからだった。王と王子では国からの束縛度が大きく変わる。せめて自分が多少なりと動けるうちは息子に王子としての枷がある中でも最大限に自由であって欲しいと願っていたのだ。
「父さん、か。懐かしい呼び名だな。――……レクス」
「うん?」
「姫を大切にしてやれ。王族に生まれ、自らが心から望んだ相手と添えることは稀だ。姫がお前を愛してくれたことに感謝して、優しくな」
「わかった」
「……お前とこんな話をする時が来るとは思わなかった」
「俺もこんなことを言われる時が来るとは思わなかった」
「お前は恋情や愛情というものに冷めていたからな」
「正直、今の自分を自分でも不思議に思っている」
「そうか。……ところでな、お前は甘い物があまり好きではないだろうが、私は好きなんだ」
「わかった。伝えておく。リアンだけでなく今度は俺も連れてくる」
「楽しみにしていよう。……ああ、お前が来なくなる代わりに、いずれ新しい娘と孫が来てくれると思えば寂しくなどないな」
「いや、……まあ…その辺は……追々……」
レクスは父の言葉に歯切れ悪く答える。
「色々風説はあるが、結局は人同士。励めば何とかなるだろう。あまり待たせないでくれると助かる」
「……父さん……」
居心地の悪そうなレクスに対し、グラント王はにっこりした。楽しげで、それでいて悲しげな笑顔だった。
「年寄くさいことを言わないでくれ」
レクスは困ったように笑い返した。グラント王は息子を抱きしめた。
「愛しているぞ。お前の事もリアンの事も……そして……」
「ああ、俺もリアンも父さんの事を愛しているよ」
レクスは父の言葉を遮るように笑顔で答えた。
「母さんも父さんを愛していた」
「イレーヌが? そうだと嬉しいが」
「俺とリアンを授けてくれて、いつも優しくしてくれた父さんに感謝している。愛していると……いつかきちんと伝えたいと言っていた。……母さんは自分の口から父さんに伝えただろうか」
「……いや、イレーヌの死は突然だったからな……」
レクスの父と母は政略婚だった。議会の示した候補の中からグラント王はイレーヌ妃を選んだのだ。それでも互いに尊重し合う穏やかな夫婦であったのだが。尊重し合うが故に互いの気持ちを表に出そうとしなかったのかもしれない。イレーヌは、リアンを産むと共に亡くなった。本人も周りもまさかそんなことになるだろうとは思っていなかったのだ。
「ありがとう、レクス。なによりも嬉しい言葉だ」
「俺の口から言うべきではないかと黙っていたんだが、もっと早く言えば良かった」
「今だから言えたのだろう」
「……ああ、そうかもしれない」
母の言葉はずっと胸にあった。だが、伝えなければと思ったのはロジエと想いが通じ合ってからのような気がする。
「レクス。もういいぞ。下がって休め」
グラント王が退室を促すと、レクスは立ち上がる。豪壮な扉に手を掛けたところで、再びグラント王がレクスを呼んだ。
「レクス。……プロドの事は」
「……兄は兄なりにやっている。父さんが心配しなくても大丈夫だ」
おやすみとレクスは部屋を辞した。
扉が閉まり、部屋に一人になるとグラント王は空の二つのグラスを見つめた。
ゼノ。
あいつがプロドに付いて城を出た時から、身体こそ良くなることはないが、頭はいやにすっきりした。
今ならば王としてもっとできたことがあったのではと思える。
だが、もういい。
イレーヌがレクスを授けてくれた。
あれ程将来が楽しみな王子はいない。
あれはきっと善い王になる。
それだけで自分が王であった甲斐があると言うものだ。
グラント王はひとり微笑んで、呼び鈴をならすと、空のグラスを片付けさせた。
*****
「レクス殿下がいらしています」
その夜、宛がわれている寝室で本を読んでいたロジエに突然侍女がそう告げた。
「え? 兄様ではなく私ですか?」
「はい。すぐに済むので応接室に出て来て欲しいと言われています」
「……はい。わかりました」
夜、寝るにはまだ早いが、女性を訪ねるには少し遅い時間だ。それを考慮して直接部屋ではなく応接室でと言っているのだろうけど。
(こんな時間に突然、何かあったのでしょうか)
ロジエは寝衣の上に侍女の差し出した上着を羽織り部屋を出た。
「遅くにすまん」
応接室に入ると窓辺に立っていたレクスが柔らかな笑顔でロジエを出迎えた。それを見てロジエはほっと胸を撫で下ろす。悪い知らせなどではないようだ。
「何かあったのですか?」
「ん? いや? 急に顔が見たくなっただけだ」
レクスの大きな手がロジエの頬に伸びる。
「え? あの、それだけですか……?」
「ああ、もしかして心配させたか? すまん。なんでもないんだ、ロジエに逢いたいと思っただけだ」
「あ、そ、そうですか……」
頬を撫でられて、顔を赤くしたロジエの耳元に唇を寄せ、そっと言葉を送り込む。
「ロジエ 愛している」
そのまま、ちゅ、と音を立てて形の良い耳に唇を落とす。
「ひあっ?!」
ロジエは耳を押さえて更に真っ赤に熟れた顔でレクスを見上げる。
「なななな、なん、なんですか!?」
「伝えたいと思った時に伝えなければと思ってな」
「そ、それが…今なんですか!?」
「ああ。 お前は? ロジエは俺に何か言いたいことは無いか?」
「はい!?」
“何か”と訊きながら彼が言わせたい、聞きたい言葉は一つだろう。彼は意地悪く、そしてとても魅力的に微笑んでいるのだから。ロジエは直接その言葉を紡ぐのがどうしても恥ずかしくて、いつものように伝えてみた。
「……あの……私もです……」
「私も?……何だ?」
「れ、レクス様……っ」
「先を言って欲しい」
「う……あの ……て、……す」
「ん? 聞こえないぞ」
「あ、あいして……います……」
そのまま卒倒してしまうのではと思うほど赤くなって、消え入りそうな声で紡がれた大切な愛の言葉を聞き取った。レクスはひどく幸せそうに微笑むと「ありがとう」とロジエの唇を攫う。
額に頬に鼻先に髪に、そして最後にもう一度唇に触れて。
「おやすみ」
と、硬直するロジエを部屋の前で待つ侍女に託して満足そうに部屋を出た。




