36 波紋
その光景を見たのは本当に偶然だった。
レクスは会議室に向かう途中、回廊の先を歩く姿勢のよい栗毛の女性を目に止めた。
「レティシア」
「レクス殿下、ごきげんよう」
声を掛ければ、足を止めて優雅に頭を下げる。
「今日はラザフォード卿と?」
「はい。リアン様とロジエ様のお茶会に招待されまして、定例会議に出席する父と参りました」
「本当にすっかり仲が良くなったのだな」
「ええ。お二方ともお人好しで困ったものです」
「ははっ! 君の潔さには参ったと言っていたぞ」
そんな話をしていたときに、目の端に捉えたのが銀の髪だ。女官が後ろを付いているにも関わらず、自分で重そうな本を持っているのは。
「ルベウスの姫君、今日もまた勉強熱心なことですな」
レクスが声を掛けるよりの先にそれを遮ったのは中年期の恰幅の良い男。貴族官吏のニーデル伯爵だ。
「ニーデル様。知らないことがたくさんありますので、色々な事を勉強させていただいています」
「知らないことを知って、ルベウスに報告でもなさるのですかな」
じわり、と嫌な空気が漂う。
後ろに控えていた女官が思わず乗り出そうとするのをロジエは小さく制した。
「いえ、サフィラスのお役に立ちたいと」
「ならば、寝所で殿下を待たれた方がいいのでは」
ロジエの肩が僅かに、よく見ていなければ分からない程度に揺れた。
「サフィラスの王子妃の務めはその尊き血を受け継ぐ器であればよい。……それが出来ればですが」
怒りが激しい波のように全身に広がる。考えより先に一歩を踏み出すのをレティシアが制した。
「殿下、わたくしが参ります」
「レティシア…!」
「今の殿下では逆効果ですわ。冷静になって対処を」
レティシアは姿勢を正し朗らかにロジエに、そしてニーデルへと声を掛け、ロジエの横に立った。レティシアはサフィラスの侯爵令嬢で、父の爵位はニーデルよりも高く、また財と権力も兼ね備えていた。ニーデルの態度が傲慢なものから儀礼的なものへと変わり、やがて挨拶をしてその場を去った。
ロジエがレティシアに気まずそうに頭を下げるとレティシアはそんな顔をするものではありませんと軽く頬を抓った。ロジエがふっと笑みを漏らしたところに、硬い足音が近づいた。
「……レクス様……」
レクスは不機嫌そのものの顔でロジエの前に立った。
「ロジエ。何故言わなかった」
あの傲慢な言い方。乗り出そうとした女官。今日初めての悪言の仕方ではない。ロジエは何度も言われていたに違いない。
「言うほどの事ではありません」
「侮蔑もいいところだ!」
レクスの硬く怒りを含んだ声が回廊に響いた。前方を歩く侍従や官吏が何事かと数名振り返る。レクスは小さく舌打ちし踵を返そうとすると、腕を引かれた。
「レクス様! 嗜める必要はありません」
ロジエはレクスの腕を引き、訴えるように見上げた。
「ロジエ!!」
「あの方のご次男はルベウスとの戦役で亡くなり、末のお嬢様が私の女官として志願した後で事故死されたと聞きました」
「だからなんだ!!」
常にはない叩きつけるような口調に周囲がざわつき始める。再び口を開こうとするレクスを静かに制したのはまたもレティシアだった。
「殿下。会議のお時間なのでしょう。お二方とも少し時間を置いて話しあったらいかがでしょうか」
悲しそうに自分を見上げるロジエ。レクスとて、ロジエを叱責したいわけではない。守りたい。それなのに……。
「悪かった。話は後でだ」
レクスはふいっと視線を外し、背を向けた。
会議が終わり自らの執務室に戻るとレクスは執務机の脚を蹴り付けた。
ロジエが言われのない中傷を受けるのではないかという懸念はあった。もともと戦争をしていた敵国の姫なのだ。恨み言の一つもあって当然で、目の届かないところで嫌な思いをするのではないかと心配していた。
だから自分が守ろうと思っていた。
自分は出逢った翌日に言ったはずだ。『何かあったら我慢せずにすぐに言ってくれ』と。
そもそもあの暴言にしても、妃の本来の条件は“子を生むこと”ではなく“王を癒すこと”なのだ。それが一般的に“神の血を継ぐ事”に変わってしまっている。だが、レクスもそれでいいと思っていた。国を統治する上で神の血は絶対の象徴となる。でもロジエに出逢ってしまったのだ。自分はロジエでなければ駄目なのだ。ロジエでなければ癒されない。ロジエに例え身分が無くとも子を生すことが出来なくとも妃の条件を本来の形に戻しただけなのに。
青薔薇を贈った日、「飼い殺しにする」という暴言があったことを知った。
事実とも分からない噂話でロジエが肩身の狭い思いをすると思っても手離せない。
だから益々自分が守らなければと思った。
あの後でもう一度何かあったら直ぐに言う様にと執拗いぐらいに念を押したのだ。ロジエも微笑んで頷いて、けれど何も聞いたことが無い。
暫くして正式に婚約式が済んで、穏やかな日々が続いて。
自分は楽観視していたのだ。ロジエはサフィラスに受け入れられていると。
リアンとも直ぐに打ち解け、女官長の心評もすこぶる良く、城勤めの者の受けも良かった。令嬢達とも徐々に輪を広げているようだし、誹謗を受けているなど噯にも出さずいつも朗らかで。
だから今日までいまだにあんなにあからさまな誹謗を受けている事すら知らなかった。
ロジエからは一言も聞いたことがなかった。頼らないロジエに苛立ち、頼られない自分に腹が立った。
「くそっ!!」
だんっと今度は執務机に拳を打ち付ける。書類が舞ったがそんなことはどうでもいい。
どうにかこの怒りを少しでも鎮めない事にはロジエに向かい合う事も出来ない。今のままではきっと彼女を追い詰めるから。
結局ロジエと話が出来るまでに気持ちが落ち着いたのは夕刻の迫った時間だった。怒りは燻り続けているが、これ以上はレクスも我慢が出来なかった。執務室にロジエを呼び出し、クライヴに人払いを頼んだ。
「どうして言わない?」
「あれ位なんともありません。事実でもありますし」
「ロジエ!!」
思わず荒げた声にロジエの肩が跳ねた。
「どうして我慢するんだ。どうしてお前だけが苦しむんだ。そうやってなんでもかんでも自分一人で抱え込む癖をやめろ! 俺はそんなに頼りにならないのか!」
優しくしてやりたかったのに出てきた言葉は詰問するようなもので、ますます自分に辟易した。
それなのにロジエは、レクスが握り締めた拳にそっと手を乗せて。
「レクス様、私は自分やルベウスに対する悪意がレクス様に向かう方が怖いです」
そう言って笑うのだ。
「俺は平気だ」
――― 御子を儲ける事の出来ない敵国の姫に入れあげて、殿下はサフィラスを潰すおつもりか ―――
そう口さがない噂があることはレクスは既に知っていた。言いたい奴には言わせておけばいい、そう思っていた。だが、ロジエが直接それを言われ、心を痛めるのであれば別だ。
「私も平気です」
「ロジエ!」
「強がっているのではありません。子供の事は先にならないと分からないこと。今から悩んでも仕方がないと決着つけました。戦役の事は、事実私は元敵国の者なのです。ルベウスの者に家族を殺された人もいるでしょう。大切なものを奪われた人もいるでしょう。私はそのことに関してはルベウスの者としてどんな言葉でも受け止めようと決めています。事実を突きつけられるのは辛いです。それでもそれを受け止めてこそ、ルベウスの王女としてレクス様の傍にいられると思います。それに一人ではありません。レクス様だけでなく、ハンナ女官長が可愛がって下さるお陰で本当に牽制になっているんです。なにかあっても…… さっきだってレティシアさんが助けてくれました。官吏の方や女官の方も優しい言葉を掛けて下さる方が多いのですよ」
改めて自分が蚊帳の外にいた事を思い知る。
「俺がお前を守りたいんだ」
本当は真綿で包むように抱きしめて、全てから守ってやりたい。
敵対していた国で辛い思いをさせないようにするには手離すしかないのに
愛しているからこそ そんなことは出来るはずもなく
結局 針の筵に座り続けさせるだけだ
「守られていますよ。けれど、悪口を言われたから『あの人を罰して』なんて、私達はそこまで愚かではいられませんよね」
ロジエはふわりと微笑んだ。
「私は欲張りなんです。レクス様に守られるのはとても心地がいいです。でも、一人では何もできないと思われるのも癪なんです。だから怯まずにいようと思っています」
銀の双眸で真っ直ぐにこちらを見つめて決然とそう告げられれば、こちらからはもうなにも言えなくなってしまう。
――― 毅い、な ―――
レクスは瞳を閉じてそれを受け入れた。
そして彼女を支えるべく自分も毅くあらねばと思う。
「あくまでも俺の介入を断ると言うならば、一つ約束してくれ」
「なんでしょう?」
「俺は隠し事をされるのが嫌いだ。だから誰に何をどう言われたかちゃんと教えてくれ。もちろんお前の希望がない限りそれで相手をどうにかしようとはしない。ただ知りたいんだ。分かち合う位は出来るだろう」
いいな、と念をおしても躊躇うばかりで返事はない。
「お前が教えられないなら女官や侍女にも報告するように言っておく」
すると漸く、わかりましたと微かな声がした。その答えにレクスも表情を和らげてロジエを手招きした。近づくロジエの手を取って優しく抱き留める。
「きつい言い方をして悪かった。最初からこうしてやれば良かったんだな」
もしかしたらレクスが庇うことにより余計にロジエに悪意が向くかもしれない。それに、ロジエが言うようにレクスが庇うことにより、一人では何もできないと烙印を押されることもあるかも知れない。結局レクスに出来るのは抱きしめてやることだけだ。
「俺はいつも考えが足りないな」
「こうして下さるのがなによりも嬉しいです」
ロジエもそっとレクスの背に手を回した。
「ロジエ、俺はどうあってもお前を手離せない。お前が辛い思いをする分以上に俺がお前を愛して幸せにする。だから傍にいて欲しい」
「レクス様……」
「お前が怯まないと言うならば……、お前は毅然とお前の望むように動けばいい」
「はい」
「お前は正しい。決然としすぎていて寂しいくらいだ。俺を頼って欲しいだけなんだ。悪かった」
「レクス様。私は貴方がいるから……貴方に愛されているから怯まずに決然としていられるのです」
人は一人で立てる程に毅い生き物ではない。
支えがいると信じていられるからこそ自分は決然としていられる。
誹謗や中傷に傷つかないわけではない。それが根拠のあることならなおさら。
それでも共にいたいと望む以上 怯まずにいるしかない
「……子供の事はただの風説だ」
「……はい……」
「俺はお前以外を妻にする気は毛頭ない。だから今だけでなく、もし婚姻後もそのことで叩かれることがあってもそれこそ毅然としていられるな?」
「……」
ロジエは子供の事について“今考えても仕方ない”という言い方をした。そしてロジエは自分自身の事では強く出ない。自分が身を引いて丸く納まる事には簡単に引いてしまうところがある。婚姻後、子供が出来ないなら離縁しろと言われれば、自分が傷付いてではなくレクスの為だと思いそうしてしまいそうなのだ。そんなこと赦せるものか。
「俺の気持ちは全て伝えた。ロジエ。お前の居場所はお前が決めるんだ。妻として俺の傍らに立つと自分で決めろ」
「お傍に…お傍に置いて下さい……。貴方の妻にして下さい」
「ああ。生涯俺の妻はロジエ一人だ。絶対に俺から離れるなっ!」
温かく大きな身体に身を預ける。
いつもいつも真摯に心を伝えてくれる誠実な人。
この人を支えていきたいと思っている。
それでも自分は揺らいでしまう時がある。
彼が本当に幸せになる為には自分ではない方がいいのではないかと。
とっくにお見通しだった。
居場所を選べと言われた。
自分が居たいと思うのは此処。
言葉も身体も全てが温かく自分を包んでくれる。
何もかもを溶かしてくるようなこの人の傍に居たい。
この人の傍に居る為にこの国に居たいと思う。
何度も何度もそう思う。傍に居たい。傍に居ようと。
揺らげばまた支えてくれる。毅い毅い人。
だから自分も毅くあり彼を支えたい。
ロジエはそう思うのだ。




