35 預ける
雨季の晴れ間、中庭の四阿に探していた人影を見つけてリアンは声を掛けようとした。けれど、その探し人の影が一つだったことに疑問を持ち思いとどまった。リアンの目に見えるのは銀の髪の後ろ姿。兄の婚約者ロジエだけだ。
(お兄ちゃんは?)
午後の執務の休憩時間、兄は婚約者と過ごすのを習慣として、またとても楽しみにしていた。このところ執務が立て込んでいて満足に共に過ごす時間が持てず、心なしか荒んだ空気を醸し出し始めた主を慮って、側近のクライヴが今日は長めの休憩時間を与えてくれたらしい。そろそろ戻って貰おうと声を掛けに行くクライヴをリアンが視止め、代わりに呼びに来たのだが。
(自分で先に戻ったのかな?……ううん! ないない!! お兄ちゃんが進んでロジエさんの傍から離れるなんて!!)
そう、リアンの兄はこれまでの女性に対する無関心さなど微塵も感じさせず、傍目にもわかりやすすぎるほど婚約者のロジエを溺愛している。
それでも最低限の自分の立場を忘れることはないし、ロジエの方もそれとなく執務に戻る時間を促すなどしてくれるほどに謙虚で真面目だ。だからこそ兄が少しロジエに対して焦れていることもリアンは知っているのだけれど。
はたとリアンは足を止めた。
ロジエが愛おしげに視線を下に落としている。
(これってもしかして……)
リアンはそっと足音を忍ばせて四阿に近づいた。途中ロジエがリアンに気づいて振り返りにこりと笑うと、しいっと人差し指を口元に当てた。
(やっぱりそうなんだ)
リアンは声を掛けずにそこに辿り着いて溜息を一つ。婚約者の膝枕で心地よさげに眠る兄の姿を見下ろした。
「お時間ですか?」
ロジエが小声でリアンに尋ねる。
「うん。でもこんなに気持ち良さそうに寝てると起こすの可哀想だね」
「そうですね」
ロジエは少しあぐねる様にレクスの蒼髪を梳いた。と兄の手が動いてロジエの手を取るとそれを口元に持って行き口付けた。
「構わず起してくれていい」
「お、お兄ちゃん!? 起きてたの!?」
「いや、流石に熟睡は出来んが眠ってはいたさ。お前の気配がして起きた」
身を起こし背伸びをすると喜色満面でロジエを見た。
「ありがとう、ロジエ。いい気分だった」
ちゅっと頬に口付けを落とすと、ロジエは真っ赤になった。
「レクス様っ! リアンさんの前で何をするんです!!」
「頬に口付ける位構わんだろう? なあ? リアン」
「ああ~うん。いいんじゃない? お兄ちゃんが幸せそうで何よりだよ」
ほらなと悪戯っぽく微笑む兄の姿を見るのは随分久しぶりだ。リアンは兄が世継ぎの王子として自覚を持ち、成人して国務に追われるようになってから、彼がそういう顔をするのを見たことが無かった。
「さて、執務に戻るか。……リアン、ちょっと後ろを向いていろ」
首を傾げるロジエとは対称にリアンは「はいはい」と呆れたように背を向けた。同時に聞こえるくぐもった小さな悲鳴と微かな笑い声、更に窘めるような声。
(本当に幸せそうだなぁ……)
自然と笑顔になる。兄の事なのに自分がほっこりと幸せな気分になれるのはとても不思議だった。
「リアン、ロジエと過ごすなら茶の用意をするように言っておくぞ」
後ろから肩を叩かれそう言われ、リアンはぱあっと顔を輝かせる。
「うん! お菓子も持って来るように言ってね!!」
「あまり食べると太るぞ」
「もうっ!! 女の子に大きなお世話だよ! ねえ、ロジエさん!」
「え? ええ、そうですね……」
振り返ると兄の婚約者は赤い顔で落ち着かなそうに曖昧な笑みを浮かべていた。
(普段あんなにしっかりしてるのに、本当にこういうとこ可愛いよね)
こういう謙虚で表裏なく優しい人が義姉になると思うと本当に嬉しくて、リアンの顔もついつい綻んでしまうのだ。けれど彼女にも勿論欠点があるのだけれど。
改めてリアンとロジエは四阿の椅子に腰かけた。
「吃驚しちゃった。お兄ちゃんが人前であんなに無防備になるなんて」
「そうですか?」
「うん。お昼寝とかは前は良くしてたけど、近づくといつも目を開けてこっちを見たよ。気を許すってことが無かったんじゃないかな」
「う~ん。まあ外でのお昼寝ですからね。熟睡とはならないでしょうけれど…。でもさすがに今日はお疲れだったようですよ。疲れたって零してましたから」
「え!? お兄ちゃんが自分から疲れたって言ったの!?」
「ええ? 最近遅くまで執務が立て込んでいたようで少し寝不足だと言ったので、じゃあ遠慮なく少し休んで下さいって……」
「で……膝枕?」
「あ、それは……肩を貸してくれと言うので、それならと私が……」
驚いた。
疲れた、とか。寝不足、とか。肩を貸してくれ、とか。
「すごい……。お兄ちゃんが甘えてる」
「甘えて?」
「そうだよ! お兄ちゃんそういうの口にしないもん。疲れてくると側近の前では多少顔に出る時あるけど、それ以外の人と接するときは顔に出さないし。私やクライヴにだって疲れたなんて言ったことないよ。疲れた?って聞いても仕方がないって顔してるだけだもん」
仕方がないって顔をするだけ。ロジエは考える。レクスは偶に「疲れた。執務に戻りたくない。お前とずっと一緒に居たい」と言う事がある。勿論戯れなのは分かっている。彼は自分の務めを放棄できる人ではない。でもそもそも冗談でもそんなことを言わないのだと初めて知った。
「あ……前に私が甘えて下さいって言ったから……」
「そう言われたからって誰にでもする人じゃないんだよ! すごいね~。本当にロジエさんに心を許してるんだよ」
「そうだと嬉しいですけど」
「そうなんだってば!! あ~びっくりした!」
「執務もお手伝いできるといいのですけれど……」
「ああ!もうっ。それは違うよロジエさん!! 一緒に仕事してどうするの!? そういう時はロジエさんも甘えるの!! そうすればお兄ちゃん喜ぶから!!」
「これ以上甘えられませんよ」
「ええ~!? どこが甘えてるの~!?」
「何処って……それこそ執務がお忙しいのに、時間を割いてくれたり」
「それはお兄ちゃんがそうしたくてしてるんだよ。唯一の息抜きだよ~。そうじゃなくてさ。もっとこう……」
「ずっと一緒にいてって抱きついたらどうでしょう」
「そう! そんな感じ!! ん?」
背後から聞こえた回答にリアンは振り返った。
「レティシア!」
「レクス殿下が此方にいると教えて下さいました。ガトーショコラをお持ちしましたわ」
そこにいたのは侯爵令嬢のレティシア。後ろには茶器とお菓子を乗せた台車を押す侍女の姿。
「やったー!!」
リアンは両手を挙げた。
「さっきの話だけどさ、実はお兄ちゃん、ロジエさんに随分焦れてるんだよ?」
リアンはケーキを口に運ぶ間にロジエをじとりと見た。ロジエの欠点とはこれだ。控えめすぎて兄に甘えないのだ。
「焦れる? どうしてですか?」
「ロジエさんが甘えないからだよ~! 朝食の後とかいっつもロジエさん、さらっとシエルさんと部屋出て行っちゃうし、お兄ちゃん溜め息吐くこと多いもん」
「それはいけませんわね。いつかシエル殿下との仲を疑われそうですわ」
「……………」
もう疑われました。とはとても言えないけれど。ロジエは初めて自分に非があったことを知った。
「何? ロジエさん、どうかした?」
「いえ、ただ、レクス様は公務の忙しい方ですから邪魔をしては」
いつもそう思って引いていたのだけれど。
「ほら、またそれ~!」
「偶にはいいとわたくしも思いますわよ」
不満げな表情をするリアンにレティシアも付け加える。偶には、と言っても、もう十分に甘えさせてもらっている。父王の代わりに執務をこなすレクスにこれ以上時間を割いてくれと言うのは本当に唯の我儘だ。これ以上疲れさせてどうするのだ。
「これ以上は迷惑になります」
ロジエは思ったままに口にする。
「も~、わかってないなぁ。好きな人にはたまには我儘言ってもらいたいんだよ」
「ロジエ様は男心が分かっていませんわね。好きな女性の我儘に応えるのも男冥利に尽きるというものですわ!」
「そんなものでしょうか……過ぎると呆れられてしまいそうで……」
「過ぎる!? ロジエさんは大人し過ぎだよ~。あんまり引いてても興味ないのかと思われちゃうよ!?」
「まさか。そんな……」
「まさかではありませんわ。早く早くと促すよりもたまには引き留めて差し上げないと寂しいものですわよ」
「そうだよ! もう少し一緒にいて、とか言われたらお兄ちゃん泣いて喜ぶよ!」
「泣いて!? さすがにそれはないと思いますけど」
「ともかくロジエ様、繋ぎとめておくためには時には積極的になりませんと駄目ですわ」
「せ、積極的ですか……」
「そうだよ!! ロジエさんは我儘過ぎる位で丁度いいよ! ロジエさんはお兄ちゃんが心から望んだ婚約者なんだよ。お兄ちゃんの為にも甘えてあげて!!」
「う、……わかりました。嫌われない程度に頑張ってみます」
甘える事が本当にレクスの為なのかは分からない。けれど、甘えろと確かに言われた事もある。それにレクスが自分に甘えているとわかったとき嬉しいと思った。もし、レクスもそうならば……。
*****
「お願いがあります」
しとしとと雨の降る次の日の午後の休憩時間。ロジエは横に座って紅茶を口にするレクスを見上げた。やや媚びるようなその視線はとても可愛いのだが、ロジエのお願いはレクスにとって余りいいものであった例はない。(例として人前で余りべたべたするなというものだ)今度は何の苦言かとレクスは僅かに心構える。
「なんだ?」
「時間が出来たら一緒に城下を歩きたいのですが」
珍しく本当にお願いらしいお願いだった。だが、改まって言うほどの事でもない。
「急ぎなら時間を作るが…どうした? 新しい本でも入ったのか?」
「いえ、あの、そうではなくて……急ぎでなくていいのですが……」
「どうしたんだ?」
「ですから……レクス様と一緒に城下を歩きたいんです!」
「だからそれは構わんが、なにかあるんじゃないのか?」
ロジエが理由も無くそんなことをいうことは今までに無かった。けれど理由を訊ねてもロジエはふるふると頭を振って、申し訳なさそうに眉を八の字にするだけだ。
「特に何もないです。唯の我儘です。あ、甘えすぎ…ですか……」
「我儘? それは甘えているのか?」
「我儘過ぎましたか?」
「……お前は……本当に甘えるのが下手だな……」
要はデートがしたいという事だ。恋人同士ならごく当たり前の事だろうにロジエは我儘だと思っているらしい。それは多分、レクスが普段から忙しくしているからだろうが、作ろうと思えば半日の時間くらいは作れる。いや、ロジエの為なら作る。レクスはふっと笑みを漏らした。
「な、なんですか?」
「我儘と言うなら、一ヶ月二人きりで過ごしたいくらい言ってくれればいい」
「そんな無謀な……」
「無謀か? お前の我儘なら可能な限り叶えるぞ。やってみるか?」
「い、いえ! 半日くらいでも一緒に過ごせれば私は……」
レクスは小さく溜息を吐くと、ぽんとロジエの頭に手を置く。
「そのくらいなら直ぐに叶う。結婚までにはもう少し我儘が言えるようになるといいな」
子供をあやす様な態度にロジエは口を尖らせる。
「レクス様が寛容すぎるんですよ」
「好きな相手の可愛い我儘ならいくらでも叶えたいのが男だぞ」
いくらでも、は言い過ぎだと思うけれど、それでも本人から許されれば嬉しくて、ついロジエも欲が出てしまう。
「じゃあ、もう一つ我儘を言ってもいいですか?」
「何だ?」
「膝枕……、したいです」
「はあ?」
「あの、膝枕とか……それってレクス様が私に甘えていると思っていいんですよね? だったらそういう姿をもっと見たいです」
「それのどこが我儘なんだ? 可笑しくないか?」
「だって、レクス様の寝顔とか見られるんですよ? 駄目ですか?」
お願いでも甘えでもないだろう。人の寝顔なんて見て何が楽しいと言うのだろうか。ああ、けれど逆にロジエが自分の腕の中で眠りその寝顔が見られれば、確かに嬉しいとレクスも思う。
「わ、私だって……好きな人が疲れている時くらい甘えさせてあげたいと思うんですよ! それが自分だけが出来る事だと思うと嬉しいんです! だから私以外の人にしたら駄目なんですよ!!?」
考えて黙ってしまったレクスに、ロジエは自分で言ったことが恥ずかしかったのか怒ったように捲し立てる。独占欲めいた言葉にレクスは口角を上げた。
「俺はロジエ以外に甘えたいと思ったことは無い。それからもあり得ない。ロジエも俺以外に甘えたりするなよ? お前の願いは俺が全て叶える」
「じゃあ 膝枕です!」
ロジエは勢いのままどうぞと言うように膝を叩く。願いでもなんでもないレクスを喜ばせるだけのその言葉。レクスは笑ってそこに頭を乗せた。下からロジエの顔へと手を伸ばし、滑らかな頬を撫でる。
「あの……レクス様は責任感の強い方ですけれど、本当に疲れたら……一日くらい逃げてもいいと……思います」
「お前も一緒に?」
「はい。一緒にいきます」
「はは。帰れなくなりそうだ」
「連れ帰ります」
「なら安心だ」
甘えたいと思い、甘えられることが許されて、また相手にも甘えて欲しいと思う。
自分を預け、相手を預かることを望む。
限度も分かってくれているから安心して委ねられる。
そんな互いの相手。
「愛おしいな」と呟いた。




