32 名前
男というものは厄介だ。
好ましい相手、しかもその想いが通じ合っている相手と共にいる以上正常な男としては当然の欲も出てくるわけで、最近のレクスは少々自分の気持ちを持て余しつつあった。
ロジエは可愛い。
見ているとぎゅっと抱きしめて閉じ込めてしまいたくなる。
華奢な身体を腕の中に閉じ込めると甘い香りがする。
そうなればもう離したくなくなってしまう。
初めてロジエに逢った時に感じた感情はレクスの中で大きく膨らみ、王族として女性に対して一線をひいてしか付き合えなかった自分が嘘のように愛おしさが募っていた。
テーブルの上に置かれたのは茶器一式と丸と四角の素朴な焼き菓子。「プティ・フール・サレ」という塩味の効いたサクサクのクッキーだ。
ロジエが一つ摘みそれを頬張る。
「ん」
小さな口がもぐもぐと咀嚼しこくんと飲み込む。レクスはその薔薇色の唇から目が離せなかった。
(婚約者ってどこまで許されているんだろうな)
そんなことをぼんやり考えていると、ロジエがレクスの方を向きにこりと微笑む。口元にはクッキーの欠片が付いていた。
「殿下。食べないのですか?」
「ん…ああ、……ついているぞ…」
レクスは手袋をはずしてロジエの口元のクッキーを素手で拭ってそのままそれを自分の口に運んだ。
他人の眼にはさぞや甘い行為に映るだろう。初めてそうされた時はロジエも真っ赤になって大いに慌てて驚いた。今でも恥ずかしくないわけではないのだが、最近のレクスはいやに積極的でこれくらいは当たり前になってしまった。本当に所構わず人目も気にせず触れようとすることもあって、ロジエとしては気が気でなくそれは止めて欲しいとお願いしたくらいだった。
レクスの方も自分がこれほど積極的に女性に触れたいという欲を持っていることに自分自身驚いていたし恥ずかしくないわけではないが、そもそも悩んでいるならぶつかってしまえというのが彼の為人である。恥ずかしがっていては奥手なロジエに触れることは出来ないのだ。自然積極的になるのも否めないという結果だ。
「……甘いな」
「そうですか?……リアンさんにレクス殿下があまり甘いものを好まないと聞いたのでプティサレにしたのですが……」
ロジエは思案するように手にしたクッキーを見つめた。
「うぅん……上手くできたと思ったのですけど……」
「ちょっとまて。もしかしてこれはロジエが作ったのか?」
「え? はい。午前中、リアンさんと作りました」
ロジエのクッキーを持つ手がぐいッと引かれて、レクスがそのままクッキーを口にした。ついでに指までペロリと舐められる。
「な…!?」
流石にこれにはロジエも驚いて急いで手を引っ込めた。
「うん。美味いぞ。……甘いと感じたのはロジエについたものを食べたからだな」
「で、殿下……」
「ロジエ、いい加減その畏まった呼び方はどうにかできないのか?」
ロジエは出逢ってからこれまでずっとレクスのことを『殿下』と呼ぶ。婚約者としては随分と余所余所しいではないか。気の無い相手であれば呼び方などどうでもよいが、ロジエに関してはもっと親しみをもって呼んでもらいたかった。ロジエは赤い顔をさらに赤く染めてぽつりと呟く。
「……レクス、様…?」
「様……様はいらんだろう?」
「えぇ!?あ、はい……その、じゃあ……えっと」
真っ赤になって、ロジエは上目遣いに彼を見上げてきた。
薄く開いた唇が躊躇う様に一度結ばれて。
艶を帯び潤んだ眼差しに加えて、震える甘い声で小さく呟かれた彼の名は。
「レクス……」
心が震える。名前を呼ばれただけなのに、かあっと顔が熱る感覚と緩みそうな口元にレクスは片手で口元を覆った。
「は、恥ずかしいですね……それに、呼び捨てはちょっと抵抗があります……」
「恥ずかしがることも抵抗も感じる必要はないだろう。もう一度呼んでくれ」
「え……れ…レクス……」
「ああ。いいな。お前に呼ばれると自分の名前が大切なものに思える。これからはそう呼んでくれ」
「え、っと…では……努力はしますけど……しばらくは“レクス様”でいいですか?」
「こんなことに時間が必要なのか?」
「だって。人を呼び捨てにしたことなんてありませんし……レクス殿下は…じゃなくてレクス様は私の大切な人ですから、“様”ってつけた方がしっくりきます」
――― 大切な人
なんてことを簡単に言うのだ。しかも恥ずかしそうに言うのだから堪らない。レクスは額に手を当てて顔を隠すように俯いた。
「あ、あの。呆れてます?」
「いや! 違う! 練習が必要なら仕方がない。だが、二人きりの時くらい呼び捨てできるように頑張ってくれ」
「はい。わかりました。……レクス様」
恥ずかしそうに且つ幸せそうに笑うロジエを前に、レクスの思考は焼き切れる寸前だった。
どうして彼女はこうも自分の心を揺さぶるのか。そんなレクスの胸中など気付かずににこやかに彼女は顔を寄せる。ロジエにその意思はないのだろうがレクスは迷うことなく顔を寄せ唇を重ねた。
「んっ……!?」
くぐもった戸惑いの声。それすらもレクスを煽る。何度も短く口づけるとロジエの唇からも緊張感が消える。柔らかな唇に密着度が上がりどちらの唇かも分からなくなるくらい蕩かせてそっと舌を忍ばせるとロジエは流れのままに舌を差し出してくる。ロジエがレクスの服をぎゅっと掴んだ。そのまま長椅子の背もたれに押し付けるようにしてレクスは角度を変えながら長く長く口づける。
「………っあ、レクス、さ………」
「ロジエ……」
見上げてくる蕩けるような潤んだ銀の瞳。
もういっそ触れてしまおうか―――と思ったところで。
「レクス様」
聞こえた扉を叩く音と無粋な声に、いつも盛大に肩を落とすことになるのだった。




