31 杞憂
「気になることがあるんだが」
中庭の一角のラベンダーが咲き誇る中を散策中、やや躊躇いがちにレクスが切り出す。
「なんでしょう?」
ロジエは横に並ぶレクスを見上げた。レクスは微笑みを浮かべるロジエをじっと見つめて、ふいっと視線を外した。
「いや、やはりいい。聞かなかったことにしてくれ」
「え? なんですか? 余計に気になります。言って下さい」
「いや……あまりにも男らしくないというか…器が小さいというか……」
レクスは視線を逸らしたまま、ぶつぶつと小さく呟いている。
「もう。レクス殿下、隠し事は嫌いだと自分が言ったんじゃないですか。私だって殿下に隠し事をされたら嫌です。話して下さい」
ロジエはレクスの手を取ると真摯にレクスを見つめる。レクスはうっと声を詰まらせると眉を顰めて顔をやや赤くした。
「その……こんなことを言うのは狭量だと思うのだが」
「はい。なんですか?」
銀の双眸に促され、レクスは常々の気がかりをとうとう口にした。
「……ロジエは……本当はシエルのことが好きなんじゃないのか……」
心地いい春のさらりとした風がラベンダーの花を撫で爽やかな香りが漂う。なのに二人を取り巻く空気はじっとりと重くなってしまった。
ロジエはレクスを好きだと言って求婚も受け入れてくれた。その気持ちに嘘はないだろうし、寄り添う態度でもそれは感じ取れる。でも、それ以上にシエルとロジエの距離は近いような気がして。シエルはロジエのことを妹だというけれど、あからさまに大事にしているのは誰の眼にも明白だ。ロジエにしてもシエルに兄として以上に心を開いているような気がしてならなかった。もしかしたらロジエの中には国やそれこそシエルの為にとレクスとの結婚に踏み切った思いがあるのかも知れない。それでもロジエが結婚相手として選んだのはレクスであって、黙っていればそれで済むのだろうが、どうしても払拭しきれない懸念である。
ずっとこの懸念を抱いたままだと、いつかロジエを追い詰めてしまいそうでレクスは怖かった。
「な、なななにを言うんですか!!」
ロジエはレクスの言葉に瞳を見開いた後、顔を真っ赤にして狼狽した。
「いや。すまん。お前がシエルの事の方が好きだとしても、俺はもうお前を手離すつもりはないのだが……それでも一度訊いておきたかったんだ」
レクスは訊いてしまったのだからと観念した様に言葉を続ける。
「もし、そうならはっきり言って欲しい。俺はロジエのことが誰よりも好きだし、これから俺の方を好きになって貰えるように努めるから……」
ロジエの心が己とは別の者にあるというのは衝戟だし、本当なら受け入れたくない。だが、だからと言ってそんなことくらいでは譲れないほどに渇望している。わだかまりを持つくらいならいっそはっきりとしてしまいたかった。
「レクス殿下のバカ!!」
返って来たのは罵声の言葉。ロジエは取っていたレクスの手を強く打ち捨てると背を向けて歩き出した。レクスは慌ててロジエの細い腕を掴む。
「ま、待て! なんで怒るんだ」
「なんで!? なんでって……私は殿下の事を好きだと言いました! それにあんなに何度も口付けだって……」
ロジエの瞳には透明な膜が張り始めた。レクスはぎくりとして。
「な、泣くな!」
思わず声を荒げてしまう。
「泣いてません!!」
ロジエは勢いよくそう言ったが、言った途端に雫が頬を伝った。
「すまん! 泣くな。泣かないでくれ。俺はお前に俺の所為で泣かれたらどうしたらいいのか分からない」
ロジエはレクスが腕の中に閉じ込めると、とんっとレクスの胸を叩いた。
「兄様は兄様です。拠り所の無い私に居場所を与えてくれた大切な人です。でも…違うんです。こうして殿下に抱きしめられると胸がドキドキしてきゅうっとするんです。兄様にはなりません。兄様にお付き合いする人がいたら確かに少し寂しいけれど、殿下に相愛の相手がいると知った時のようには胸が痛みません」
ロジエの告白にどうしようもなく胸が焦がれる。だというのに、ロジエは涙に濡れた顔を上げると背伸びをしてレクスの唇をそっと攫った。
「こうして口付けたいと……口付けられたいと思うのもレクス殿下だけです」
「ロジエ! すまない。すまなかった……」
レクスは謝りながら零れるロジエの涙を唇で吸い上げる。
「レクス殿下のばか……」
「ああ、本当に俺は大馬鹿だ。許してくれ」
「いやです」
「ロジエ、頼む」
「いやです。一生かけて償って下さい」
ロジエが与えてくれたのは思ってもみない幸福な罰。
「ああ。喜んで償う。一生で足りなければ来世でも」
「約束です」
「ああ。約束だ」
レクスはロジエの華奢な身体を掻き抱く。これ以上力を入れたらロジエが壊れてしまうのではないかと思うほど抱きしめて、そうして誓いのように口付けた。
「ロジエ、俺は幸せだ。お前に好きだと言って貰える。これ以上幸せなことは無い」
「私だってそうですよ。好きな人に好きだと言って貰えて、これ以上幸せなことはありません」
「ああ、全くその通りだな」
もう一度影が一つに重なって、吐息を零してかすかに隙間が空く。額を突き合わせて微笑み合うと漸く身体を離した。
暫く指を絡め合い、そっと寄り添いあって中庭を散策し直したところで今度はロジエがおずおずと声をかけた。
「あの、聞きたいことがあります」
「ん? なんだ?」
「レクス殿下は……殿下こそ……本当に私でいいのですか」
「は?」
ロジエは視線を下に落としたままで、本当に申し訳なさそうにそれを言った。
「私……これまで男性に好意の言葉をかけられた事がないくらいに……魅力がないのですが……」
絶句するしかない。
ロジエの外見だけでどれだけの男が彼女を欲しいと望むだろうか。性格も優しくてなよやかで。ロジエは陰で“棘なし薔薇”と言われるくらいに美しく、そして険がない。
「あの、殿下?」
ロジエはとても不安げに訊ねてくる。本気で言っていたのかと思い至り、だが、詳しく教えてやることでもないだろう。自らの魅力に気付いて、他の男に目がいっても困るのだから。
「俺には絶世の美女にしか見えない。お前より美しく愛しい女性はいない」
答えればロジエは見る間に顔を赤くした。
「……嬉しいですけれど……言いすぎです」
ふいっと視線を逸らすのが可愛くて、嗜虐心が唆られた。
「……なあ、ロジエ。冷静になるとな、俺もお前に同じようなことを言われたと思うのだが」
「え? 何ですか?」
「俺はお前に対する愛情を“報復”とまで言われたよな?」
この事を別に言及しようと思った事はない。けれど、彼女を捕らえる為に使えるものは全て使ってしまおう。
「あ、あれは! あの時はまだ殿下は私のことを好きだと言ってくれていないから、今回の事とは違いますよ!」
ロジエも自分の気持ちを疑われてあれだけ怒ったのだ。違うと言いつつも後ろめたいのだろう、及び腰だ。
「いや、正直あれはかなり傷ついた。賠償を請求したい」
「な! なんですか。それ! 思いついたように言わないで下さい」
実際思いついたのだが、こんな機会はめったにないだろうから引かないことにする。良心を擽るようにロジエを覗き込む。
「俺はあてつけに結婚相手を選ぶような卑劣な男だと思われたんだ。酷いと思わないか?」
「うう……。いい、ですよ。私も一生かけて償います!」
意を決するように告げるロジエに、さらりと違う償いがいいと言う。その償いは自分がロジエを離しさえしなければ済むからだ。
「これも訊こうと思っていたんだが、前にシエルがお前の額に口付けたことがあっただろう。ああいうことは頻繁にあるのか」
「いえ? 偶にしかありませんけど……」
償いの話から少し外れた問いにロジエは首を傾げる。
「ロジエからもするのか」
「……最近はないです……」
「あったんだな」
「あの……頬に挨拶の口付けですよ。……口は、無いです……」
「当たり前だ!! お前の唇は俺だけのものだ!」
「ふぇ!? は、はい!?」
「しかし、そうか。挨拶の口付けか……」
「レクス殿下?」
「よし。決めた! 償いとして結婚したら日に最低四回はロジエから挨拶を貰う」
ロジエの腰に腕を回し、更に強く引き寄せ、隙間のないよう抱き寄せる。
「ひぇ!? な、なんですか?」
「朝起きたとき、公務に行く前、帰った時、眠る前だ。勿論これは最低回数であって、上限はない。したいときにいくらでもしてくれて構わないし、場所も頬じゃなくてどこでも構わない」
「な、何を……なにを言っているんですか……」
「償いとしての夫婦の決め事だ。そうでもしないとロジエからは口付けをなかなか貰えそうにないからな。さっそく練習するか?」
身を屈めるレクスに、ロジエはまたも顔を真っ赤にして
「レクス殿下のバカ!!」
と叫ぶのだった。




