27.5 余談 憂いのもと
わりと本編よりの余談です。
早朝の中庭。
剣と剣の打つかり合う音を引き裂く悲鳴が上がった。
「きゃああああああ!! 兄様!」
「うわっ!」
悲鳴に驚いて剣が止まった途端にシエルの背にドンとロジエが抱きついた。
何故俺に来ない? 何があったかは知らないがレクスはそう思い憮然とする。
「ロジエ? どうした?」
「あ、あれ……」
シエルの問いにロジエは先程まで彼女が佇んでいた付近の灌木を指し示す。そこにあったのは…正しくは、いたのは大きな蛙。
「蛙?」
レクスは何がと怪訝な顔をする。
「ああ、レクス、それ、何処かにやってくれる? ロジエは蛙が嫌いなんだよ」
確かに気持ちのいい生き物ではないが、悲鳴を上げ、抱きつく程のものだろうか。まあ、嫌だというものは仕方がない。レクスはその蛙を手に取るとポイっと垣根の向こうに投げた。
「ロジエ、レクスが向こうに投げてくれたよ」
「本当…ですか?」
シエルの背後から顔を見せたロジエは半泣き状態だ。
「そんなに蛙が嫌いなのか?」
レクスは蛙を触ったその手でロジエの頭を撫でようとした。
「いや!!」
拒絶の言葉と共にロジエは身を縮こまらせ再度シエルに縋り付く。レクスの手は宙で止まった。
「その手で私に触れないで下さい!」
レクスの手は宙にとどまったまま本人は呆然とした。
ロジエは何と言った? 触らないでくれ? 蛙が弱い毒を持っているからか? どういうことだ? 頭の中を疑問が駆け巡る。
それを見てシエルはニヤリと笑った。
「蛙を触った手で触れて欲しくないんだよ」
どれだけ嫌いなんだ!?
と言うより、シエルは知っていてレクスに蛙を捨てさせたのだ。
「……シエル……」
「いやいや、僕はほら、ロジエが抱きついていて動けないし?」
「先に言えばいいだろうが!」
革手袋を外しながら咎めれば、シエルは軽く「ごめん」と笑う。
「ロジエ、手袋を外したぞ」
「……手も洗って下さい……」
「!? そんなに嫌か!?」
「……子供の頃…男の子に樹の幹にある穴に指を入れてみろと言われて……言うとおりにしたら……ぬるっとしたものが……中を覗けば、か、蛙と目があって……」
ロジエはシエルから離れることなく答える。蛙と目が合ったかどうかは別として、確かに気味が悪かったのだろう。トラウマになっているらしい。
「……手を洗えばいいんだな?」
レクスが訊けばロジエは顔を上げずにこくりと頷く。レクスは不機嫌極まりない顔で踵を返した。
「レクス、どこ行くの?」
「今日の鍛錬は終わりだ。いっそ身体ごと洗って着替えてくる!」
振り返りもせずに答えてレクスは去った。
「何で僕に抱き付くのかな?」
シエルが腰に廻っているロジエの腕をぽんぽんと叩けば
「……だって、いつも兄様だったから……くせで……」
と涙声で返って来た。
「はあぁ…。癖ね。僕はいいんだけど、レクスが誤解しなきゃいいけどね」
「誤解? 何をですか?」
「ん? まぁ、いいか。レクスも行っちゃったし、少し庭でも歩く?」
「……蛙がいない処なら」
「じゃあ、反対方向に行こう」
シエルはロジエの手を取って歩き出す。
暫くして戻ったレクスは薔薇の咲き誇る中で語らう二人を見つけた。手を繋いで、薔薇を見て、語り、微笑み合う。血の繋がりの所為なのか二人は雰囲気もよく似ている。銀色の男女。確かに兄妹にも見える。でもあの睦さは互いの半身のようだ。
創世時代、男女は一つの生き物だった。驕り高ぶった人間への罰として二つに分かたれた男女は互いの伴侶を求め合うという。
先程、ロジエが咄嗟に名を呼び縋った相手は自分ではなくシエルだった。
駄目なのだろうか。自分は彼女にとってシエル以上の存在にはなれないのだろうか。
そう思ってしまう時がある。だが、手を拱いているのは性に合わない。
レクスは大股で移動すると彼らの前に立つ。
「ロジエ、手を洗ったぞ」
言って手を差し出した。シエルは顔を伏せて小さく笑うと「今度は僕が身体を清めに行くからレクスと散歩しなよ」とロジエの肩を叩き、その場を去った。
ロジエはおずおずとレクスの手に自らの手を重ねた。
「そんなに嫌か?」
「違うんです。すみません……今更ながらに申し訳なくて……」
申し訳ないというのは、レクスの前でシエルに抱き付いたことだろうか。それとも手を洗えと言ったことだろうか。おそらくは後者だろう。
「ごめんなさい……朝食までの時間、私と庭を歩いて貰えますか?」
こういうところを本当に狡いと思う。自分のしたことの意味も分からず謝って、知らず媚びてくる。
「俺がお前の願いを断れるわけがない」
レクスは溜息交じりにそう言って「行こう」と手を引いた。いつもは隣を歩くロジエがやや後ろを歩いて付いてくる。
「他に嫌いなものはなんだ?」
「はい?」
「お前の嫌いなものに触れる度に避けられるのは御免だ」
「……虫……昆虫もあまり……」
「昆虫?」
ロジエは躊躇いがちに答える。見るだけなら大丈夫なのですが、と断って。
「昆虫の脚が気持ち悪くて……これも子供の頃……靴にバッタの脚が入れられていて……」
「同じ男が犯人か……?」
「犯人と言うか……そうなのですが……」
それは、なんというか、あれだ……子供に良くある好きな女の子を苛めるそれだろう……。
そう理解してもレクスがその男に殺意に似たものを、シエルに対しては自分の知らないロジエを知っていることを狡いと羨望し、そして抱き付かれたことに嫉妬を感じた。
どうしたら自分が一番になれるのだろうか。
「虫は触っても平気です」
「ん?」
「虫を触った手は平気ですから……これからはレクス殿下を頼ってもいいですか?」
後ろを振り返ればロジエは決まりが悪そうに下を向いている。レクスは繋いだままの手を引いてロジエを捕らえた。
「俺がいる時は俺だけ頼って欲しい」
「格好悪いと思いませんか?」
「何だそれ。可愛いとしか思えない」
「……良かった」
抱きしめれば寄り添ってくれる。今はそれだけでもいい。
シエルとは一緒にいた年月の差もあるのだ。徐々に自分の占める部分を多くしていけばいい。
いつかロジエの方から飛び込んでくるようになってくれればいい。
焦るなと自分に言い聞かせる。……どこまでもつかは分からないが。
「……でも、黒く光った虫を触った時は手を洗って下さい」
「……分かった……」
その虫についてはレクスも素手で触れば手を洗うと思ったのだった。




