20 処置
レクスは薬の塗られたロジエの右手をとってまじまじと見つめた。
「ん、いいだろう」
「なによう! 私の治療じゃ当てにならないっていうの!?」
リアンはぷうっと頬を膨らます。
レクスがリアンを抱いて飛び込んだのは典薬室だ。当然そこに居るのは医師と薬剤師であるのだが、リアンもそこにいた。何故か。リアンが教養として薬学を学んでいるからだ。
血相を変えて飛び込んで来た兄とその腕に抱かれている兄の婚約者に、「どうしたの!?」と慌てて立ち上がれば。
「ロジエが怪我をした!」
「何でもありません!」
と同時に二人が叫んだ。
兄はロジエのことでは冷静でいられない。
ロジエは自分の事を軽視する。
どちらを信じるべきかと考えて、とりあえず何処を怪我したのか訊いてみる。
広げられた右手にがくりとリアンの肩が落ちた。
兄はこんなに心配症だっただろうか。リアンが幼かった頃、兄に付いてまわって転んで膝を擦りむいた時は洗っておけば治ると放置されそうになった記憶がある。それでも泣いていたら、クライヴに背負ってやれといい、リアンが兄がいいと更に泣けば仕方がないと背負ってくれたが。手の肉刺で抱いて飛び込んで来るとか。大袈裟過ぎる。本当に大きな怪我をしたらどうなってしまうのだろうか。
「そういう訳じゃない。助かった」
レクスはそう言って手当てをしたリアンの頭を優しく撫でた。
それを微笑ましく見ていたロジエだが、レクスがロジエを見て目が合うと何故かキッと睨んできた。
普段の彼女らしくない態度にレクスは狼狽えた。
「ロ、ロジエ?」
「殿下! 言わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「な、なんだ?……」
ロジエはレクスを見上げ眉を上げた。レクスはそんなロジエに及び腰だ。
浮気を追求される夫みたい、リアンは端からみてそう思った。
「殿下がこれまでどのような女性とお付き合いされていたか存じませんが、私はか弱い女性ではありません! 普段から最低限の鍛錬をしていますから、この程度の怪我は日常茶飯事です。なんでもありません!!」
最初に言ったロジエの言葉が気にかかったが、とりあえずそれは置いておく。
「だが、女性の身体に傷をつけるのは……」
「私にその心配は無用です!! 前にもそんな事を言っていましたが、殿下は傷のある女性がお嫌ですか? 妻にしたくないと思うのですか!?」
その言葉は更にロジエを不愉快にさせたらしい。声音がきつくなりとんでもないことを言う。
「そ、そんなことあるわけないだろう!!」
「でしたらもう少し私の事を信用して下さい。私も自分の身を守り、有事の際には戦う位の教育はされています。それに私は……大切な人は守られるだけではなく守ることもしたいのです。おこがましい事かもしれませんが……そう思っているのです」
レクスはいつもロジエに優しい。壊れ物に触れるようにそっと扱う。男性としてそして王子として女性を人々を守ることが当然になっているのだろう。もちろんそれは嬉しいことではあるのだけれど…。
自分だって大切な人を守りたい。自分は守られているだけの存在ではないのだ。だからそれを少しでも証明したくて剣を合わせたのだけれど、返って怪我(といっても肉刺が潰れたくらいなら怪我ではない)をして心配させてしまった。
情けない。
滲みそうになる涙をロジエは堪えた。
「す、すまない。信用していない訳じゃない。だが……」
「私が言いたいのはそれだけです。心配していただいたのは本当に嬉しいです。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると結わいた髪が揺れる。何かを言おうとしているレクスを置いて、くるりと今度はリアンに向き直って。
「リアンさんもありがとうございました」
ぽかんとしているリアンにも深く頭を下げて、それではとロジエは部屋と出て行った。パタンとしまった扉を見つめてぽつりとリアンが溢す。
「お兄ちゃん。ロジエさん怒ってたね」
「怒ってたな……」
「怒るんだね」
「怒るんだな」
「お兄ちゃんを怒る女の人って女官長以外初めて見た」
「まあ、いないな」
「浮気追求されてるみたいだったよ」
「するか、そんなこと」
「……しっかりした人で良かったね?」
「そうだな」
「ロジエさんはお兄ちゃんと同じ立場にいてくれるんだね」
それまでぼんやりとリアンに応対していたレクスが妹の顔を見た。リアンはにこりと笑う。
自分が婚姻するだろうと思っていたのは、国の益となる有力者か邪魔にならなそうな者。妃という振る舞いが出来る世継ぎを生せるだけの女性。
国を背負うのは王となる自分だけであり、王妃となる女性はその名を辱しめさえしなければいいと思っていた。
夫婦と言うよりは王と王妃という役者だ。全く別次元の存在だった。
ロジエに逢った時最初はおそらく外見に見惚れた。その後も穏やかで嫋やかな彼女を可愛らしく思って守ってやりたいと庇護欲を掻き立てられた。
ただ守られているだけの女性でないのは頭ではわかっている。襲いかかる野犬の前に飛び出す令嬢が何処にいる。しかも短剣を仕込んでいるとか……何処にだ。わかっているが見た目が大人しいだけに理解が追い付かないのだ。
妃としての素養は充分。誰の前に出ても何処に出しても素晴らしい女性だと言われるだろう。
本人からもシエルからも武術も学んでいる事は聞いていたが、実際に今日立ち合って驚いた。剣技だけでも兵士として充分な腕前なのに、さらには人とは違う神導力すらも持っているのだ。そうなれば一端の戦士と相違ないだろう。
誰に対しても自分が正しい事は臆さず意見することも出来る。しかも普段が優しいので怒られると異様に効いた。
彼女の瞳の輝きはしっかりとした礎石のある毅さだと悟った。
彼女は自分と同じように守る側に立てる、立ってくれる、そして立って欲しいと思える女性なのだ。
もしかしたら気付かないまでもそんな女性であったから彼女に惹かれたのかもしれない。
「お兄ちゃんはロジエさんのことが大切なだけなのにね」
「な!?」
「そうでしょ? ロジエさん以外の女の人が怪我したとしてもあんなに慌てないでしょ? 普通に治療してもらえって言っておわりだよ」
そうかもしれない。
例えばロジエ以外の女性が怪我をして、その女性がもし自分の婚約者などであったとしても自分で抱え上げてくることがあるだろうか。クライヴに連れて行ってくれと頼みそうだ。先程程度なら「ああ、肉刺が潰れたんだな」で終わりそうだ。冷静になれば、確かにその程度の怪我なのだ。けれど、どうしてもロジエの事には冷静でなどいなれない。些細なことでも心配してしまう。小さな怪我が命に関わること事だってあるのだから。……言えばまた怒られそうであるが。兎に角やはり自分にとってロジエだけが特別な女性なのだろう。
そんなレクスの心情を察したのかリアンがにっこりと笑う。
「私もロジエさん好き。ロジエさんがお姉ちゃんになってくれるのが嬉しい」
「リアン……」
「だから」
今度はリアンがきっとレクスを睨み腰に手を置いた。
「ちゃんと誤解を解いて、仲良くしてよね!」
「ああ…わかった」
「それから! あんまりがっついて嫌われたりしないでよね!」
ビシッと指を指されて、がっついたことなんて(今のところ)欠片もないとレクスが返したのは言うまでもないことである。




