19 剣技
その日練兵場に現れたロジエの姿にレクスは瞳を見開いた。
レクスにとって早朝の鍛錬は剣を持ち始めた時からの日課だった。
朝の鍛錬を一人熟し、ラウンジの近くにある浴場で身体を清め着替えてから妹と朝食を摂り執務に向かう。
それが日常。
神孫降臨の際に神より賜った神剣を継承する選ばれし者として、そして隣国との戦役の中、戦場に立ち軍を率いる者として剣技を学び、研磨してきた。
初めて剣を持った頃から身体を動かすことが好きだった。座学に費やす時間さえ惜しいくらいに剣を振るってきた。
レクスに剣を教えたのは祖父の弟だ。祖父は神剣に認められた王であったが、レクスが生まれる前に亡くなっていた。大叔父であるその人物は王である兄を元帥として支える右腕だった。
寡黙な性質で教練も厳しかったが、レクスは文句も言わず、どころか進んで教えに従った。どうしてかと訊かれても楽しかったからとしか答えようがない。
大叔父はいつも厳格な姿勢を崩そうとしなかったが、レクスが初めて彼から一本取った時にとても誇らしげに表情を解いた。
「心、技、体 全てを磨いて自分を律することを覚えろ」
そう言われ初めて頭を撫でられた。
そうして育ってきたレクスは成人してより、執務に追われる毎日の中では鍛錬こそが自らを律する時間であると同時、息抜きのようなものであった。
ここ数ヵ月、朝の日課が少し変わった。
一人で行っていた鍛錬に相手が出来た。隣国の王子シエルが身体が鈍るという理由で稽古を共にしていたのだ(クライヴは騎士団の早朝稽古に出ているためにレクスの声が掛からない限り朝稽古を一緒にすることはない)。
毎朝、ロジエもシエルと共に見学にやって来る。邪魔にならないところに佇んでただ静かに素振りや二人の打ち合いを眺め、終わると汗を拭うものと飲み物を差し出してくれる。「つまらなくないか」と訊けば「目を離す隙もないくらいです」と瞳を輝かせた。リアンなどはレクスとシエルの打ち合いを怖いと言ってあまり見たがらないが、ロジエは眼を逸らさない。こうして見学をすること数十日。
「私もご一緒してもいいですか?」
その言葉にしばし沈黙し、返す。
「……ご一緒?……」
「はい。鍛錬に私も加えてはもらえませんか?」
両手を胸の前で組んで見上げてくる目の前の彼女は鍛錬なんて言葉がとても不釣り合いな華奢で儚い少女で。呆けるレクスに変わってシエルが声を掛けた。
「身体動かしたくなった?」
「はい! 素振りはしていますが、やっぱり手合せもしたいです」
そこでレクスは初めてロジエが普段から剣の稽古をつけていたことを知った。女官長からロジエに城の作法を教える名目で徐々に妃教育をしていることはきいていたが、空いている時間には体まで鍛えていたのかと驚いた。
「レクス」
シエルは思案してレクスに 振り返る。
「ああ、なんだ?」
呆然としていたレクスは声を掛けられて漸く我に返った。顔を上げるとシエルがにこりと微笑んだ。
「今日の午後、練兵場に顔を出すんだろう?」
「ああ、久しぶりに騎士団の訓練に参加する予定だが」
「それにロジエも参加していいかなぁ?」
それがその日の朝の出来事だった。
「レクス殿下! シエル兄様!」
自分とシエルを見つけ走り寄って来たロジエの姿は。
サフィラスの女性騎士の軍服に似ているが、白い太腿が顕わになる程スカート丈が短い。膝上丈の黒いソックスを履いているが、その為余計に太腿の白さが際立って目が吸い寄せられてしまう。
普段のロジエの格好は簡素なワンピースの際でも膝丈かミドル丈の清楚で控えめなもので、素足を晒さないようにタイツを履いた非常に大人しめのものだ。
このギャップは何なんだとレクスは声が上げられない。
練兵場にいる騎士達の視線が一斉にロジエに注がれてざわりと空気がさざめく。
はたとそれに気付いたレクスはたどり着いたロジエの手首と横にいたシエルの手首を掴むとそのまま足早に二人を壁際に連れて行く。
壁に付くようにロジエを置いてその前に自分の身体を立たせ、騎士達の視界から彼女を隠す。
「レクス殿下?」
きょとんと首を傾げるロジエにレクスは赤い顔で低く声を発した。
「……なんなんだ。その格好は」
「サフィラスの女性用の軍服が素敵で、いいなって言ったら女官長さんが訓練用にと用意してくれたんです。似合いますか」
ロジエはくるりと廻って見せる。プリーツのスカートがふわりと揺れて、あわててレクスはロジエを止めた。
「そんな格好で訓練するのか?」
「え? おかしいですか?」
ロジエは身体を捻って自分を見廻した。
「おかしいんじゃなくて…スカートが……短すぎないか……?」
レクスは赤い顔を逸らしつつそう溢す。返事をしたのはシエルだ。
「ちょっとちょっと、レクス。女性騎士の格好普段見ているだろう? 若い子は皆このくらいのスカート丈だろう? ズボンの人もいるけど」
何言ってんの?という風にレクスの顔を見る。はて、とレクスは考える。女性騎士の格好…こんなに脚が出ていただろうか?
「そんなだから無関心なんて言われるんだよ。…それでもロジエのことは目に入るんだねぇ?」
にやりと笑うシエルにレクスは鋭い視線を向ける。シエルは笑ったままではあるがもう言わないよというように両手を上げた。
そこにおずおずとロジエが声を掛ける。
「あの、レクス殿下?」
「な、なんだ?」
「スカートがこれ以上長いと脚さばきが悪くなりますし、下にはスパッツを……。もし見苦しいようならズボンタイプに変えますが……」
「見苦しいわけがないだろう!!」
思わず大声で答えた王子の声にその時練兵場は静まり返ったのだった。
練兵場の中心にレクスとロジエが互いに訓練用の剣を手に向き合っている。
ロジエが手合せの相手に誰かお願いしますと言うと騎士たちが一斉に手を上げた。レクスはそれを一睨みで黙らせて今日は自分が相手になると名乗り出た。下心のあるものに相手をさせたくないのもあったが、下手なものを相手にして怪我をさせるよりは自分の方が加減が出来るだろうと思ったのだ。
剣の握り具合を確かめるうようにしていたロジエが視線を上げ、レクスと目が合うと彼女はにこりと笑った。
「胸をお借りします。レクス殿下」
そういう彼女は平素の彼女とは雰囲気が全く違う。ロジエの瞳に稀に感じる事のある毅さを見てレクスは躊躇いを感じつつも面白いと口角を上げた。勝負ではなく手合せである。それでも簡単にやられるつもりもないのだろう。自信すら匂わせる彼女に対してレクスも侮るつもりはない。
「ああ、こちらこそ、シエルに鍛えられたと言うお前の腕を見させてもらう」
「はい!」
しんと静まった練兵場で「始め!」と言う声に先に動いたのはロジエだ。
素早い動きで一気に距離を詰め、踏み込んでレクスの頭上に剣を振り下ろす。意表を突くほどの速さではあったが、レクスは僅かな動きで剣を受け止め軽々と跳ね返す。ロジエも着地すると同時その反動を利用してすぐさま風を切る音と共に懐へ剣を流す。さらにレクスはそれを身体を仰け反らせて避ける。
暫し間合いをあけ、睨み合う。
速いし巧い、と感嘆しレクスは剣を構え直す。
これが騎士でもないの女性の剣技か。力こそないが技だけであれば一般騎士相手なら彼女の方が余程優れているだろう。
にこり、侮るなというようにロジエが笑う。
本当に気が強い。レクスは僅かに口角を上げて「行くぞ」と低く声を出した。
レクスの振り下ろした剣を今度はロジエが受け止める。レクスの剣は重い。勿論相手がロジエである為加減こそしているが、真面に受け止めれば身体が沈む。それでもレクスとシエルの立ち合いを見て来たロジエは器用に受け止め剣を滑らせて勢いを削ぐ。
レクスの瞳が驚きに見開かれる。ロジエはそれを微笑んで受け止めると刃を退いて身体を翻した、かと思ったら下段から剣を振り上げる。
手数が多い。男性と女性。基本的な力の差、体力差は歴然だ。だからロジエは手数を以てレクスに対抗しようとしているのだ。ロジエは立て続けに太刀を浴びせ、レクスはそれを受け止め、躱す。ロジエは息が上がるがそれでも攻撃の手は緩めない。けれども……。
「……ここまでだ」
「あ……!」
レクスは短い呟きと共にロジエの剣を弾き飛ばす。硬質な音を立てて飛ばされた剣が地に落ちた。
ロジエは荒い息を吐きながらレクスを見つめ、それから自分の右手を見た。
おそらくレクスには分かっているのだろう痺れ力の入らない掌を一度ぎゅっと握ると落とした剣を拾いに行く。が、上手く剣を掴めない。するりと掌を抜けて再び剣が地に落ちた。溜息を吐いて左手で剣を拾い、レクスの前に戻り頭を下げる。
「ありがとうございました」
わっと歓声が上がる。ロジエの剣技を囃し立てる声の中、レクスはロジエに近づくと彼女の左手から剣を受け取りにこりと微笑む。
「驚いた。ここまでやるとは思わなかった」
「いえ。殿下に全く相手にされませんでした。殿下は息も上がっていませんし、ちょっと悔しいです」
「俺の剣を受け止めるだけでもそこいらの兵より強い。自信を持て」
「本当ですか。ふふ、嬉しいです」
「怪我はないか?」
「はい。大丈夫です」
ロジエが微笑みながら顔に掛かった髪を右手ですくうのを見て、レクスが突然その手を掴んだ。
「殿下?」
「大丈夫じゃないだろう! 血が出ている!!」
「え? あ、肉刺が潰れたんですね…このくらい平気で、きゃあ!?」
言い終わらないうちにロジエの身体は宙に浮いた。レクスにより背中と膝下に腕を廻されて軽々と抱き上げられたのだ。
「平気じゃないだろう! 治療に行くぞ!」
「あ、あの! レクス殿下?? ちょっと降ろして―――きゃあ!」
再び言葉は遮られる。レクスはロジエの声も届かない様子で走り出す。
レクスの腕の中でロジエは遠ざかる練兵所の兄シエルに手を伸ばすが、彼は面白そうに笑って手を振っていた。
その後練兵場ではロジエの剣技を褒め称える声と、レクスの奇行に沸き立った。
「レクス殿下、おろ、降ろして下さい! 怪我をしたのは手です!脚じゃないんです!殿下!!」
聞こえていて無視をしているのか聞こえていないのか、王子は婚約者を抱えて運ぶ。
王子の常に無い慌てた様子と、「助けて下さい」とこちらも慌てる彼の婚約者の姿に、すれ違う者達は戸惑いそれでも行儀よく道を譲るのだった。




