12 母の教え 2
「犬が苦手なのか?」
「ひゃい!?」
少し纏めた時間が取れた為、城の裏手の森へ馬に同乗し散策に来たときだ。木陰からひょっこり表れた大きめの犬に馬上で身を強張らせたロジエに問えば、明らかに動揺した返事が返ってきてレクスは思わず笑ってしまった。
「ひど…酷いです!」
「すまん。ちょっと意外でな」
「子供の頃、野犬に追いかけられた事があるんです」
「ああ、それは怖い思いをしたな」
むうっと顰めっ面をするロジエの頭を悪かったと撫でれば、ふうっと息を吐いた。
「躾けられた犬は大丈夫だと分かっているのですが、それでもやっぱりちょっと退けてしまいます」
「そうだな。躾もちゃんと出来ていればいいがな」
馬上からレクスが犬を見れば、その犬は耳を垂れ尻尾を丸めて木々の緑の中に姿を消した。
「サフィラスのお城にもいますよね? 犬」
ロジエは犬の姿を目で追いつつ訊ねた。
「いるぞ。狩猟用と番犬と俺とリアンの遊び相手だった犬が」
「遊び相手ですか?」
「背に乗っても大丈夫なくらい大きくて大人しい犬だ。もう年寄りだから遊ぶのも無理だろうが。今度見てみるか?」
「そうですね。慣れる為にお願いしたいです」
「慣れたいのか?」
「犬と一緒にお昼寝とかちょっと憧れました。自分の言うことを聞いてくれる賢い犬とか良いですよね」
「ロジエ、犬は賢いか?」
「え?」
振り返り、不思議そうな顔をするのを見てレクスは目を細めて笑った。
「俺は『賢く忠実で愚かな動物』と教わった」
*****
「犬は賢く忠実で愚かな動物です」
それはレクスの母の言葉だ。何故そんな話になったのかはよく覚えていない。けれど話された内容は克明に覚えていた。
「犬は忠実であれば飼い主にとっては良いペットでしょう」
「飼い主にとっては?」
「そうです。犬には善悪の区別がつきません。自分の主人が良い人か悪い人か考えずに従います。犬は教えられた通りのことしかしません。自分で考えようとはしないのです」
「今の話がなんとなくでもわかるかしら、レクス」
微笑み訊ねる母に、少し考えてレクスは頷いた。
「偉いわ。では質問しますよ」
イレーヌは膝を折りレクスと視線を合わせた。
「貴方の言う事をよくきく犬は良い犬かしら?」
「うん」
「では、例えば貴方が犬に嫌いな人に咬みつけと命令して、それを実行した犬は良い犬かしら?」
レクスは質問に驚いて母を見ると、母は微笑んで答えを促した。
「……たぶん…いい犬だと思う。……犬は言う通りにしただけで、ダメなのはきっと命令した自分だと思う……」
「まあ! 貴方は本当に賢い子なのね! ではもっと難しい質問よ。貴方に忠実な犬がいたとして貴方の命令通りに従う犬はいい犬よね。でも、もしそれが人だとしたら? 貴方が誰かに理由もなく、ある人を傷つけろと命令して、その命令をそのまま実行する人はいい人かしら?」
「…………」
レクスは返事が出来なかった。
王族の命令は絶対だと教わった。臣下は反対することなく従うと。不思議に思ったことなど無かった。今までもレクスの望みはほぼ叶えられてきた。望みを侍女や侍従に反対されたことは無い。悪いことを駄目だと教えてくれたのはいつも母であり、度の過ぎた我儘は母によって制されてきた。
でも、母のいないところでレクスがそれを命じたとしたら、命じられた者はそれを実行しなければならなくなるのではないか。出来ないと言えば、処断されてしまう可能性があるだから。
レクスはその命令自体が言ってはいけないことだと分かっている。でも、もし言ってしまったら、きっと実行されてしまう。人間は犬じゃない。その命令がいけないことだと自分で判断できるはずだ。けれど、判断できても拒否が許されないのだ。
この時初めてレクスは王族が恐ろしいものなのだということを感じた。
大人しく従うのも良い臣なのだろう。だが、それが良い人間であるかは違うような気がする。きっとこれが母の言う“愚か”ということなのだろうか。
「……わからない。…でも、そんな命令を自分がしなければいいと思う」
「そうね。貴方が間違いを犯さない、それが何よりも一番ね。でも、人は間違いを犯してしまうことがあるの」
「……」
「今は私が貴方に間違いを教えてあげられる。でもこれからもずっとという訳にはいかないわ。これから先、貴方に間違いをしていると提言してくれる人がいてくれるといいのだけれど。そして貴方がそれを聞き入れられる人であればいいと思っているの。貴方はこれから威厳というものを身に付けることになるわ。それはとても尊くて偉大なものよ。大きすぎると小さなものが目に入らなくなるわ。レクスは歩くときに地にいる蟻を気にした事があるかしら」
母の問いにレクスは首を振った。
「私もよ。人は蟻ではないわ。貴方が大きな王となったときそれを覚えていて欲しいの。そして心許せる数人にでいいから、威厳を緩めて意見を言いやすくしてあげられるといいわね。そうすることで貴方の心も休まるとも思うのよ。……そういう出会いがあるといいわね」
イレーヌはにっこりと、ちょっと難し過ぎたわねと笑った。
「じゃあ、最後に貴方が犬を育てたとしたらその犬は賢くなるかしら?」
「……ならないと思う」
「どうして?」
「知らないことが多すぎるから」
「じゃあどうしたらいいかしら」
「……勉強して自分が善い人になる?」
「ええ。そうね。レクスはお勉強が苦手だけれど少し頑張れるかしら?」
「出来るだけ頑張る」
レクスは緊張した面持ちでこくりと頷いた。王族の教育というものは早いうちから始まる。レクスはこの頃から座学よりも身体を動かすことを好んでいたのだ。イレーヌはくすくすと笑った。
「レクスは剣の御稽古が好きよね。大きくなったらこの子を守ってくれるかしら?」
イレーヌは大きくなったお腹をレクスに見せた。
「守る!! 大事な家族だ。父さんも母さんも守る! あと国の人も。みんな俺が守るらなきゃいけないって教わった!」
「ふふ。約束よ? 本当に貴方は将来が楽しみな子ね」
王妃は優しく微笑むとそっとレクスの額に口付けた。
「今日は難しいお話をたくさんしたわね。良く分からなかったかもしれないけれど、貴方なら少しずつわかると思うわ」
二人がこういった話をすることは二度と無かったけれど、レクスの心からこの教えが消えることはなく、今でも胸に刻み込まれているのだった。
*****
「すごいです。本当に賢くて優しい方なのですね」
溜息を吐くようにロジエが言う。
「そうなのだと思う。あの時はぼんやりとしか理解できなかったが、今は含蓄のある話をされたとわかる。全てを理解するには未だに至らないがな」
「殿下も良く覚えて、実行されてますね」
「実行?」
「間違いを起こさないことや、“威厳を緩めて意見を言いやすくしてあげる”ことです。殿下の側近の方がそうなのでしょう?」
「ああ、そうか。そうかもしれないな」
深く考えたことは無かった。側近の彼らとは出会いすら王子と家臣としてとは少し違う。最初の垣根が低かったからこそ今も友人として付き合っている節はあり、気のいい彼らは友人として臣下として提言すらしてくれ、レクスもそれを許している。掛替えなの出会いであり存在だった。
「ふふ。良い御友人と出会えて良かったですね」
「ああ。そうだな」
良い友人。それでも王子としての最低限の態度は崩したことは無い。上に立つものとして“頼られる”存在でなければならないということが身体に沁みついているのだ。
不思議だった。
今、レクスが一番心を安らげる場所はロジエの傍だ。ロジエには勿論頼られたいし、必ず守ると思っている。
それでも一緒にいて全く王子としての緊張感が無い。
もしかしたら、それはロジエが幼い頃から“王子”シエルと育ってきた為人にあるのかもしれない。恥ずかしいことだが初めて会ったときから自分が醜態を晒してしまったからかもしれない。
ただ単に自分がロジエに傾倒しているからかもしれない。
何故かなんてわからない。
けれどこの心安らげる存在に出逢えたことに心から感謝した。




