11 母の教え 1
花見時。寒さも薄らいで中庭にも多くの春の花が咲き始めた。
空にも雲一つないというのに、執務が立て込み今日の休憩時間は中庭を歩いてやることも出来ない。申し訳ないと思いつつも、今日は執務室の隣の休憩用私室でお茶を飲むことになった。詫びれば、無理をしないで下さいとロジエは恐縮する。無理などではない、レクスには唯一の癒しの時間なのだ。最近では休憩後の方がレクスの機嫌が良いと、面倒な書類をその時間に持って来る者までいる始末なのだから。
「レクス殿下は綺麗な文字を書かれますね」
休憩中にも関わらず、至急サインが欲しいとの書類に溜息交じりに署名する文字をみてロジエは言った。
「そうか?」
「ええ。普段の剣を振るう姿からはあまり想像できません」
「はは。そうか、成程な。母がな、手習いやちょっとした作法に厳しい人だったんだ」
ロジエの耳に心地の良い声を聞くだけで心が和む。休憩の別れ際にロジエに「残りのお仕事も頑張ってくださいね」と言われれば、面倒な机仕事も頑張れそうな気がするのだから機嫌が良いと言われるのも本当のことなのだ。
署名した書類を部屋の外で待機していた官吏に渡すと、レクスは廻り込むのが面倒なのか長椅子の背を長い脚で跨いでそこに腰かけた。彼は人目のないところではよくこういった鷹揚な姿を見せる。
「手習いの先生はお母様、王妃様だったのですか?」
「ああ。母にしつこく教えられた」
レクスは冷めかけた茶を口にしながら答えた。
「手習い、特に王族として生きる以上自分の名は一生書き続けるだろう。そしてその書類も後世に残る。書く文字が雑だとそういう王だったと思われると言ってな。文字を習い始めた一ヶ月で俺は自分の名を見るのが嫌になった」
同じ文字をずっと書いていると、こんな文字だったかと分からなくならないか、とレクスは笑う。
「お母様は正しいと思いますよ。やはり字が綺麗だと印象はいいですし、何よりもお母様が嗜みのある方だと窺えます。そしてレクス殿下がちゃんと教えに従っていたのもわかりますね」
「子供の頃の俺を机に縛り付けていられたのは母と女官長くらいだからな」
「ふふ。そうなのですか? 筆跡って人格も表れるそうですよ。レクス殿下は綺麗な字を割と大きく書きます。字を大きくしっかりと書く人は、社交的で明るく寛大で、何事にも積極的でリーダーシップがとれる人だそうですよ。でも、頑固な一面もあるそうです」
「当たっているのか? それは」
「概ね当たっていると思います」
頑固という一言にだろうか、やや憮然としたレクスにロジエは小さく笑った。
「作法に厳しかったというのは?」
レクスが幼い頃に亡くなってしまった母の思い出は優しく穏やかな人であったという程度のものだ。そんな母だからこそ叱られた時の事ははっきりと記憶に残っていた。
ティースタンドの下段の野菜と蒸したチキンの挟まったサンドウィッチを手に取り、レクスは思い出したように微笑んだ。
「宴席で手づかみで骨付き肉を食べようとして叱られたことがあったな」
「手づかみ、ですか」
「そうだ。その宴席は俺の三つの祝の席で、遊び相手にと子供も多く連れられてきていたんだ。子供だらけの宴席で、ふざけていたんだと思うが、十歳くらいの少年が手づかみでジビエを食べたんだ。しかも汚れた手を自分のシャツで拭ってな。偶々目に留めて俺もつい真似ようとしてしまって、見咎めた母に静かな声で制された」
三つの子供だ。真似る以前にそうしてしまっても不思議はない。寧ろ礼儀正しく食事が出来る方が珍しいだろう。
「宴席の後、部屋に帰ると一通り上手くできたことを褒められた後で叱られた」
*****
「自分が何を間違えたのかわかっていますね」
レクスの母、イレーヌは膝を折り、レクスと目線を合わせると静かに言った。
「でも、他の子も……」
「他の誰がどうしようと関係がありません!!」
常に無くきつく言い放つ声にレクスの肩がびくりと跳ねる。イレーヌはその肩に手を置いた。
「レクス、サフィラスは武勇を誇る国。貴方も武器の手ほどきを受け、戦場に身を置くべき教えを受けるでしょう。そうした時や市井の者と食事をする時には一定以上の畏まった態度は必要ありません。寧ろ彼らの流儀に従いなさい。けれど今日は城の宴席です。テーブルマナーは守らなければいけません。形式を重んじた場ではその場に相応しい態度や姿勢が必要です」
わかりますねと重く母がいうとレクスはこくりと頷いた。レクスは優しい母を怒らせた自分の態度を恥じた。そして決まりの悪さから込み上げてくる涙を拳を強く握って抑え込んだ。イレーヌはそれを見て優しく頬を包んだ。
「レクス 良く聞いて。この国で王とは神の子として唯一無二の存在。王のすることは全て正しいことになるのです。貴方が王になれば、貴方の行動全てはいつでも正しくなります。だからこそ貴方が真に正しい姿勢を取り、皆に示さなければならないのです。それが王の子として生まれた貴方の務めです。王の子そして王の立場は楽しい事ばかりではありません。辛いことも沢山あるでしょう。ですが、投げ出すことなど既に許されません。それに貴方には出来ると私は信じています」
イレーヌは少し物憂げに微笑んでレクスを抱きしめた。
三つになったばかりの子供にはとても理解できない話であろうそれを、イレーヌは分かっていて語った。幼いからこそ、胸の片隅にでも留めておいて欲しかったのだ。例え忘れてしまいレクスが愚を繰り返すことがあっても何度でも教え込むつもりで。
けれど、レクスは王族としての姿勢が求められる席では愚かな態度を取ることは二度となかった。
*****
「暫くして母が体調を崩すことが多くなって、俺に手が行き届かなくなることを鑑みてか、母の言いつけで俺には側近としてあの堅苦しいクライヴと、作法の教師として女官長が付くことになった」
あの二人は本当に容赦がないとレクスは言う。母に言われていたのだろうが、人前でなくとも無作法な事をすればすぐに雷が落ちたと苦々しげに教えた。
「地の部分は変えられないが、それでも表面上は取り繕えているだろう?」
悪戯っぽくレクスが笑う。たしかに先ほども長椅子を跨いだし、誰も見ていないからと窓を飛び越えて外にいたロジエの元に来たこともある。
元来レクスは武芸を好む故か態度がぞんざいに見えることがあるが、それでも端々の仕草は綺麗で気品のようなものを滲ませている。寧ろ普通にしていても品格は漂っているのだ。公式の場では非の打ちどころのなく王子様然としているし。これは全て彼の母の垂教なのかと感嘆する。
「表面上どころか……とても素敵な王子様ですよ?」
ロジエが心からそういうとレクスは困ったように少し眉根を寄せた。
「ロジエにそう言われると気恥ずかしいが……よく王子らしくないとも言われるぞ?」
聞いた話によると、城下によく訪れる彼は一般市民とも気さくに言葉を交わし、またそうして出会った者が彼の側近として働いている。更に神剣の担い手として軍務に携わることから賊退治や戦場などでは一般兵と同じものを同じように食べ、野営では野宿も平気らしい。その辺りは王子らしくないと言えばそうなのだろうが……
「そのあたりは、王子らしくないというよりはレクス殿下らしいのでは?」
ふむと考えた後でロジエが少し含んだように笑うと、レクスもくっと喉の奥で笑ってロジエの頭をくしゃりと撫でた。




