69、きょうだいげんか
派手な音がとどろいて目を向けると、再度盾を構えたジェフリーが斧を防いだらしかったが、代償として腕から盾がはじかれた。
盾を捨てたジェフリーの短剣がひらめくと、リンデマンが半歩退いてうめき声をあげ、血が宙を舞った。金音を響かせながら落ちたのは戦斧、なにか落ちたかと目をこらせば、数本の指が地面に落ちていた。
ところがリンデマンは指の方には目もくれなかった。それどころか血走った目でジェフリーを睨み付けると、勢いそのままに腕を振りかぶったが、その腕もしたたかに斬りつけられた。しかし傷は浅かったようで、リンデマンの脚はジェフリーの脇腹をしたたかに蹴りつけたのである。鎧越しとはいえ、戦斧を軽々と振り回す相手だ。脚の力も尋常ではなかったようで、体中に残っていた酸素をすべて吐き出されたかのような勢いだ。顔面も殴りつけられ、血と粘液が石床に飛び散ったが、ジェフリーの長靴はリンデマンの臑を打ち付け、両者ともに体勢を崩し距離を置くことに成功したのである。
「あの長靴ね、大抵のやつは足先に鉄を仕込んでるんで相当痛いはずなんですよ。いや、ていうかなんで倒れないんだ。普通骨が折れるでしょ」
リンデマンはアドレナリンが過剰分泌されているのだろうか。指が落とされた際は痛がっていたものの、いまも動きが鈍くなったくらいで二本の足でしっかり立っている。
腰に巻いていた鎖を指の失せた手や腕に巻き付けると、敵に見せつけるように腕を振りまわす余裕すらあるのである。アヒムがけだものと揶揄したのもわかるような超人ぶりに、ジェフリーは慌てず騒がず、血の混じった唾を吐き捨て、逆手に構えた短剣を顔の前に掲げたのである。
これを挑発と受け取ったかは不明だが、リンデマンの感情を逆なでしたのは事実である。二度目の咆哮がとどろくと、ジェフリーのすまし顔に向かって腕が振り下ろされた。先は指ごと斬りつけることで勢いを削いだが、今度は腕が鎖に覆われている。従って腕を狙うわけにはいかず、かといって受け止めるわけにもいかず逃げの姿勢だ。
「すげえ、あんなの相手にしたくねえ」
アヒムはとうとう本音が漏れるようになってきていた。ジェフリーはうまくかわしているが、それも相手が足を痛めているからの話である。幾度か危険な瞬間があったが、やがて一瞬の隙間をみつけると腕の中に飛び込み、刃が頬を貫通したのである。
どよめきが広がったが、リンデマンには致命傷にならなかったらしい。鎖を巻いた腕とは反対の手がジェフリーの腕を捕まえ、膝蹴りをお見舞いするのだ。……鎧がなかったら内臓破裂くらいしてたんじゃなかろうか。それほどまでに強烈な一撃だったのである。
「ねえ、リンデマンという方、少しおかしいのではない?」
「そうですねぇ。お嬢さんが気付くのは意外でしたけど……確かにあれはおかしいな」
「……二人とも、なにか気になることがあるのかい」
兄さんがわかっていないようだが、アヒムが教えてくれる。
「いくらリンデマンが化物でも、普通はもっと動きが鈍るはずなんですが……それがないなあと。薬でも使いましたかね」
「薬というと、麻薬かしら」
「本当に的確ですね。単なる痛み止めじゃあそこまでイカれるのは無理でしょうし、俺も麻薬だと思いますよ。それもキツいやつだ」
「禁止されていないの?」
「腕試しの試合ならともかく、この決闘で使ってるってことは禁止されてるわけじゃなさそうですねえ」
文字通り勝てばいい試合なわけだ。ジェミヤン殿下に降伏するなら今のうちだと忠告するダヴィット殿下の声が頭に響いてきたが、そちらを気にする余裕はない。
ジェフリーは降伏しないのだろうか。あんな巨体相手に立ち向かうなど正気の沙汰ではなさそうだが、まだ目の光は死んでいないようである。動き回るリンデマンを注意深く観察し、フットワークを生かして動き回っていたのだから、彼も並々ならぬ体力であった。
ただ、リンデマンの頬に短剣を突き刺した際に得物を失っていたのは致命的だろう。空手で動き回り、見物客を同時にはらはらさせていたジェフリーだが、やがて攻勢に踊り出した。鎖を纏った腕が振り下ろされる刹那、わずかに伸びていた鎖を掴みとると力任せに引っ張ったのである。体幹が優れている相手だろうと、攻撃に転じた際を狙われてはたまったものではなかったようだ。倒れかけた上体を足を踏み込ませることでなんとか支えた瞬間、ジェフリーの指が躊躇なくリンデマンの左目を抉った。怒号は痛みより目を奪われたせいなのだろうか、目を庇おうとする腕から血飛沫が上がった。
一瞬のことで理解できなかったが、どうやら短剣の他に手の平サイズの小刀も隠していたらしく、瞬時に引き抜いていたようだとあとから教えてもらった。どうやらもう片方の眼球を狙ったらしいが、リンデマンは頑なに腕を下げようとせず失敗に終わったようである。二人の決着はいつつくのだろうか、二人が距離を開けてにらみ合っているところを固唾をのんで見守っていたのだが、ふいにジェフリーの腕が落ちた。構えが変わったのである。私も兄さんも理解が追いつかないのだが、どうやらアヒムは違ったようだ。「お」と期待と羨望が混じった声を上げたのである。
「勝負に出るみたいですよ」
ジェフリーの雰囲気が変わった、というのだけは伝わった。さて彼がどう打って出るのか、その試合を見ていたほぼ全ての人が気になっていただろう。リンデマンも目の喪失よりジェフリーが気になったようだ。ぐっと腰をおろし、駆け出そうとした瞬間だった。
その場にいるだれもが驚いた。だってそうだろう、いままさに走り出そうとしていたジェフリーが前のめりに倒れたのだから。
「なんだ?」
アヒムも呟いたが、異常は私にもわかった。ジェフリーはこけたのではなく、またなにかに躓いたわけでもない。明らかに身体の動きが一瞬にして停止していたから、違和感を覚えた人は多かったはずだ。
けれどそこに機を見出した者がいた。リンデマンがジェフリーの腹を殴りつけたことで、この勝負の勝敗が決してしまったのである。
ここから先は兄さんも、そして私も見られたものではなかった。なにせリンデマンの拳は重く、また肉体の一部を奪われた怒りから二撃、三撃と拳が穿たれるのだ。アヒムが腕で隠してくれなかったら目を閉じる、という行為すら忘れていただろう。しばらく待っていると騒ぎが広がりだし、リンデマンを制する叫びがあちこちから聞こえてきた。
「もう大丈夫ですよ」
「……あの人は無事?」
おそるおそる目を開けると、転がるジェフリーの足だけが目に入った。それ以外は彼を取り囲む人々で見えないのだが、どうやら声がけを行っているようだ。
「魔法使いが治療に入りそうです。……最後まで手は動いてたし、身体は庇ってたから意識は失っちゃいませんね」
死んでいないときいて、他人事ながら安心してしまった。殺し合いと聞いて正直良い気持ちは抱いていなかったら安心したのだ。
ところが安心といかなかったのがジェミヤン殿下だ。衆目が段々と王の方へと眼差しを送るのだが、ジェフリーの異様な倒れ方を見ていた人は王がどう裁定するのか気になっているだろう。
王は難しい顔をしているのだが、その傍で両殿下が言い争いをしていた。ダヴィット殿下は勝利を宣言しているのだが、ジェミヤン殿下は異議を唱えるのである。
「あのおかしな倒れ方を見たでしょう! この試合は無効です!」
「往生際が悪いぞジェミヤン。ジェフリーとやらは大した猛者であったが、おおかたリンデマンの拳が後になって響いたのであろう。おまえも王族ならば潔く負けを認めよ」
「兄上の方こそ! あのような薬漬けの者を使ってまで卑怯なことをされて……もしやジェフリーになにか薬を盛ったのではありませんな」
「なにを馬鹿な……」
どちらも意見を譲らないから揉めるばかりだ。どうしたものかと見守っていると、階下にいた医師が王にそっと耳打ちをしたようで、王が片手を挙げると殿下達も口を噤んだ。
「我々が議論するよりジェフリー本人に尋ねるべきであろう。医師によれば意識はあるとのことだ。こちらに連れて来させよ」
「父上! ジェフリーはジェミヤンの部下ですぞ、こちらを陥れる発言をするに決まっております!」
「……そなたたち、己がために命をはる勇士の姿になにも感じぬか」
陛下は重いため息を吐いた。
「次代を担う者としてすこしは手を取り合おうという気にはなれぬのか。わざわざこのような場を認めたのも、その思い上がりを直すためだとわしと王妃は伝えたはずだがな」
「もちろんです。お二人の子を思いやる気持ちは忘れておりません」
「もはや王とその補佐が手を取り合わねば次の世代は到底立ち行かぬ……その教えをしかと理解できていれば嬉しいのだがな」
「ですからこうして、まだ兄としてジェミヤンを見捨ててはいないのです。これがただの従兄弟や親類であれば斬り捨てているところですよ」
ダヴィット殿下は異論を唱えたが、陛下は代理人から直接話を聞くつもりらしい。ジェフリーに肩を貸して連れてきたのがライナルトなのが意外だったが、どうやら真っ先にリンデマンを止めに入ったのが、近くにいた彼と彼の麾下だったようだ。この状況で彼に注目するのは、よほど浮ついたご婦人か、場に関心のないものくらいだろう。
ジェフリーは元の顔の形が思い出せないほどぼろぼろだったが、意識ははっきりしているらしい。王の前に膝をつくと頭を垂れていた。
「してジェフリー、そなた、先の試合でなにがあったか覚えているか」
「……は。僭越ながら殿下の決闘代理をおおせつかり決闘に挑んでおりましたが……さきほどは、突如身体の自由が利かなくなり……」
口の中を切ってるのだろうか。喋るのもつらそうな話し方で、声だけでも痛々しいのが伝わってくるようだ。王は先ほどの硬直について尋ねるのだが、ジェフリー自身はどうやら表現に困っているようである。
「ジェミヤンはそなたが薬を盛られたと言っている。それについてはどう思うか」
「…………薬、などと……。試合前の食事には気を遣っておりますゆえ、そのようなことは……」
「あり得ぬと申すか」
「は……」
席が離れている人々は陛下達がなにを話しているのか気になって仕方ない様子だが、私はシスのおかげか、あるいはシスのせいか陛下達の会話がしっかり聞き取れている。ジェフリーの返答で意外だったのは、ダヴィット殿下の心配通り、てっきりジェミヤン殿下に有利な証言をすると思っていたことだろうか。どうも彼は先の試合に困惑しているだけで、身体の異変についても嘘をついているようには思えなかったのである。
これに歯がゆさを覚えたのはジェミヤン殿下である。顔を真っ赤にした弟殿下はぼろぼろの忠臣にいまにも殴りかかりそうである。
「ジェフリー! 貴様、私を裏切るつもりか!」
「殿下……私は、そのようなつもりは……」
「……諦めろジェミヤン。部下に鞭打っておいてその言葉はなかろう」
…………自分の代理人に麻薬を打った、あるいは打つのを許可した人の言葉とは思えないが、弟に対する言葉は真摯と言えば真摯だった。
こちらからジェフリーの表情は見えないが、ダヴィット殿下や陛下が彼に向ける眼差しからして、笑顔でないのだけは確かだろう。陛下はしばらく考え込んでいたようだが、他の家臣といくらか言葉を交わした結果、難しそうな面差しで言った。
「判定が厳しいところではあるが、勝敗を引き分けては互いのみならず二人の家臣らに支障をきたすことになる。よってここはダヴィットの勝利とみなすことにしよう」
なんと、ダヴィット殿下の勝利という形でおさめるつもりらしい。驚きを禁じ得ないが、隣の兄さんをみれば「妥当だろうな」と呟いていた。顔を陛下の方に向けたまま、そっとこちらに顔を寄せたのである。
「数日内に帝国兵がくることもあるし、陛下の言うとおり貴族らが二分に分かれるのを考えたら、形だけであろうとどちらかかに決めておかないと内紛が起こる」
「でも、この結果では両殿下の関係が悪化するだけでは……そんな調子じゃ内紛が起こるのは目に見えてるのではない?」
「わかってる。けれど決めないわけにはいかないよ」
なんとも納得のいかない結果のようだ。けれど陛下の話は続くようだしと耳を傾けていると、陛下はジェフリーにいたわりの言葉をかけていた。
「……だが勝敗の行方に疑問を示す者も多くいよう。ジェフリーの……」
どういう裁断に持って行くのだろう。興味津々で眺めていると、突如わめき声があがった。今度はシスの魔法越しでなくともはっきりと聞こえてくるジェミヤン殿下の叫びである。
「嘘だ嘘だ嘘だ!! こんなことしなくてもジェフリーさえ馬鹿をしなければ私が王のはずだったんだ!!!」
なんと錯乱しはじめたのである。これには全員がぽかんとジェミヤン殿下をみたのだが、それどころではなくなったのは、ジェミヤン殿下が短剣を引き抜いてからである。
「父上の目は曇っている! このような男が王となれば国に未来などない、周りに媚びを売るだけしか脳のない男に王が務まろうか!!」
周囲がどよめきに包まれ、特にダヴィット殿下の護衛官が殺気だった。その中には、いつか姉さんの館で見たダヴィット殿下の護衛官の姿もある。
「ジェミヤン、おまえ本当に血迷ったか!」
「ジェミヤン殿下……!」
ダヴィット殿下が叫ぶが、ジェミヤン殿下は兄を睥睨するだけ。思わず殿下の名を呼ぶジェフリーや父王にも抑えきれない苛立ちを向けていた。
「馬鹿者。このような場所で剣を抜くなど……!」
陛下には焦りがある。よりによって大勢の有権者の前で醜態を晒す次男の将来を憂いているのだが、父親の危惧は、残念ながら彼には届かなかったようだ。それどころか命をとして代理を務めたジェフリーに暴言を吐いた。
「お前ならばと思い大任を任せてやったというのに、この役立たずが! 私のために命を賭すといったのは大嘘か! 次期王たる私に刃向かう愚か者がっ」
「そんな、私は……」
完全に頭に血が上っている。怒鳴り立てる姿はまるきり癇癪を起こした子供のようで、あんなものを見せつけられては彼についていた者の心も離れてしまうだろう。どうやら陛下も同じことを考えたようで、説得よりも一刻も早い解決を望んだらしい。片手を振り上げようとしたのは、おそらくジェミヤン殿下を鎮圧せよという合図のはずだったが、ジェミヤン殿下が短剣を振り回す方が早かった。ダヴィット殿下の護衛らはあらかじめ彼に対し警戒していたためか、距離を開けていたので問題なかったが、そうでないのは陛下である。
「やめぬか、ここで騒ぎ立てればお前が不利になるのだと何故わからぬ! 人の話は最後まで……」
幼い子供を叱るように怒鳴ったから、攻撃対象が陛下に移ってしまったのである。飲み物としておいてあった水差しを陛下に向かって投げると、とうとうダヴィット殿下の怒号が飛んだ。
「この――痴れ者が!」
陛下への暴力が決定打となった。ジェミヤン殿下に向かって兵が剣を向けたのだが、どうやらジェミヤン殿下も多少の心得があったらしく、短剣で兵の刃をいなすのだ。殿下が思った以上に暴れるからか、彼を殺めるわけにはいかない兵がためらいを見せジェミヤン殿下が駆けようとしたところで、突如隙間を縫って現れた槍によって腹に穴を開けていた。
ぽかんとしたジェミヤン殿下が動きを止めて槍の持ち主を見たのだが、護衛官を割って姿を見せたのはダヴィット殿下である。こちらからでも苦渋に満ちた表情をしていたのが印象的だった。
「……馬鹿者が。ただの兄弟喧嘩で済ませておけばよかったものを」
槍が引き抜かれ、ジェミヤン殿下が倒れる。ダヴィット殿下がジェミヤン殿下を刺したという事実がさざ波のように広がりだしていた。ジェミヤン殿下は身体を痙攣させているらしく、小刻みに揺れる腕だけが私の目にも入っていたのだが、その手を取ったのは偶然近くにいたジェフリーである。この喧噪の最中、ただ呆然と仕えるべき主人を見つめていた男性は、いままさに死にゆこうとしている殿下の手をとったのである。
「殿下……」
ジェフリーの呟きもジェミヤン殿下には届かない。すぐ傍では陛下がダヴィット殿下に怒りを向けていたが、弟を殺めた兄は仕方がなかったと首を振るだけである。
「俺はあいつが弟だからと思って数々の暴言も耐えていたのです。誠心誠意仕えてくれるのであればこれまでの言動も許し、王を補佐する者として権限を与えるつもりでしたが、王に刃を向けるようではとてもではないが信頼できない」
「だからといって弟を殺める者がいるか! だれか、医師と魔法使いを――!!」
陛下がジェミヤン殿下の手を取ろうと膝をつき、叫んだときである。
力をなくし呆然と座っているだけのはずだった男は、傷だらけであったが故に、この場でだれよりも警戒されていなかった。
空手だったはずの手に長剣を握り、凄まじい跳躍力を見せたジェフリーが護衛を蹴り倒し、着地ざまダヴィット殿下の胴をひとなぎしていたのである。上半身と下半身をきれいに二分されたダヴィット殿下は地面に落ちて、沈黙が一帯を支配した。
この中で――だれよりも早く動きを見せたのは、それまで空気だったライナルトである。動きを止めてしまったジェフリーを背中から斬りつけることで鎮圧した手際は早業であった。
状況に耐えきれなかった見物席から悲鳴があがり、場内が一気に混乱へと陥った。
「……なんてこと」
悲鳴と混沌は加速し、すでに収拾がつかないものとなっている。そんな最中、おもわず呟きが漏れていた。
腰を浮かした国王が呆然とことの顛末を眺めているが、それは私も同様だ。まさかこんな結末になるなんて誰が予想していただろう。ファルクラムが王位継承者を二人同時に失ったと、歴史の教科書本に刻まれた瞬間であった。




