67、嫌われている理由がわかった気がした
その日は曇天の空だった。
朝から憂鬱になりそうな天気である。寒さがひどく、起きて窓を開けたらまるで朝とは思えない灰色だ。雪でも降るかと思ったけれど、どうやらまだ降り出しはしないらしい。風は弱く、鳥の鳴き声も遠いからひどくもの静かで、さびしい気持ちすら感じさせられる。
この日は姉さんの調子も思わしくなかったし、ヴェンデルが咳をしていたので部屋に隔離となった。ウェイトリーさんが付いてきてくれるはずだった予定を変更し、ひとり館を後にしたのである。
「憂鬱ねぇ」
なにもかも自然のせいにしたくなるが、私の気分は天気だけの問題ではない。
試合場に向かう道中、外の観察をしていると、なにやらいくつかの集団が城に向かって祈りを捧げている。市民のようだが、年寄りから子供まで、あらゆる人々が集っていたから不思議であった。すると私の様子に気付いた護衛が教えてくれたのである。
「おそらくダヴィット殿下の勝利祈願ではないでしょうか。子供が多いのは孤児院の者がいるからでしょう」
「孤児院?」
「あまり知られていませんが、ダヴィット殿下は親を亡くした子供達の教育に熱心なのです。なんでも誰に言われたわけでもなく、お若い頃から多額の寄付をされているようで、孤児院にも頻繁に通っていらっしゃる。子供達にも人気のようですよ」
それは本当に意外な事実だった。耳を疑ってしまうような話だが、しかし私が知るダヴィット殿下の一面だけが彼の全てというわけではあるまい。……ほんと、色んな顔があるものだ。他人事だったら面白いと言えただろうが、当事者側なので正直複雑な気持ちしか湧いてこない。
さて、先ほど試合場と述べたが、場所は城の近くに併設されている。
構造的にはローマのコロッセオ構造と説明すればわかりやすいだろうか。あの規模がかなり小さくなった、石造りの建造物である。
昔は主に決闘と大事な試合に利用され、観衆も王侯貴族に限定されていた。いずれにせよ帝国の闘技場には及ばず、いまは兵士の訓練に利用される程度であると教えてもらった。
入り口では門番による厳しいチェックが入っており、入城しようとした貴族が門前払いを食らっている。彼らからしてみれば、この試合で自分たちの将来が大きく変わる可能性があるのだから気が気じゃないのだろう。けれど会場の規模的にも、入城できるのは限られた人間のみである。
私はというと、兄さんの名前を出すことで何ら問題なく通過させてもらえた。暗く狭い通路を抜けていくのだが、松明に照らされた壁は無骨で物々しく、優雅さとは正反対の趣である。まさに実用一辺倒に造られたのだろう。こうしてみると、昔は戦も強かったというのが頷ける。
重々しい雰囲気にのまれそうになるが、通路を抜けると一気に視界が開けた。中央部をくり抜いた広間を取り囲むように観客席が造られていて、ちらほらと着席している人たちが見受けられる。
「思ったより早くついてしまったけど……」
今日は兄さんと観戦するつもりだ。ライナルトの所にお邪魔するか悩んだが、ライナルトの『片思い』の噂を思い出してやめた。自ら火に油を注ぐ必要はないのである。兄さんは仕事があるから現地合流となったが、どの席あたりかは聞いている。ぐるりとあたりを見回しているところで、横から声が掛かった。
「やあやあ可愛らしいお嬢さん。誰を探しておいでかな」
笑いを含んだ、しかし人を魅了してしまいそうな色気のある声だ。振り向くとそこには見知った男の顔がある。
「シ……」
「いやいや、今日の私は大公夫人のしがない絵描きさ。画家殿と呼んでくれたまえ」
なにいってやがるこの男。
上質な毛皮をたっぷり使った上着を纏い、髪を纏め、大粒の宝石を見せびらかす。余裕綽々、にっこりと笑う姿はいかにも芸術家気取りといった風体で、ひらひらと女性ものの扇を揺らしている。
「ど……」
「どうしてこんなところにいるのかって? それを聞きたければ暇つぶしに付き合っておくれよ。なぁに、こちらからお誘いしたのだから、それなりのお礼はさせてもらうとも」
「……まだなにも言ってませんのに、そう先走られてはなにも言えません」
「それは失敬。いやなに、女性の中には近づいただけで突如悲鳴を上げる御方がおいでになるからね。繊細な心をもつ私はつい警戒してしまうのだよ」
ああ言えばこう言うな。気分が良くないところにこの登場だ。扇子を奪い取って、その頬を引っぱたいてやりたい気分なのだが、シスの風体からして乱暴に訴えるわけにはいかなさそうだ。なにせ奇っ怪な身なりとはいえ上物の衣類を纏っているし、なにより門番のチェックを越えこの場にいるのだ。正式な手続きを踏んでこの場に立っているのは間違いないのである。
「兄を待たせています。宣誓が始まるまでには失礼しますが、それでもよろしい?」
「結構だとも。少し話をと思っただけだけだし、私も人を待っているからね。……安心しておくれ。ただの立ち話だよ」
踵を返し、スタスタと先を歩いて行ってしまう。護衛は二人連れてきたのだが……一人には兄さんの伝言を頼んで、もう一人についてきてもらうことにした。シスが向かったのは空席が目立つ一画、所々で私たちと同じように立ち話に興じている人々が話し込んでいた。シスの態度は堂々としたもので、まるで本物の貴族のような錯覚さえ覚えるのだが、どんな詐欺でこんな身分を奪ったのか疑念を隠さずにいられない。
護衛の人には離れた位置で待ってもらうとして、シスとはあまり親しく見えない程度の距離を保っていると、相手は皮肉っぽく口元をつり上げ、こういったものだ。
「私たちの会話は聞かれないと思ってくれて結構。耳立てても適当に話をしているようにしか覚えていられないはずだ」
「……随分都合のいい魔法ですね」
「当然さ、都合のいい魔法だから私が活用してるんだよ」
しれっと言うものである。
「それで、なぜシスがここにいらっしゃるんです。あなたはライナルト様お付きの魔法使いで、帝国の御方。間違っても画家だなんてふざけたご身分ではなかったはず」
「画家がふざけてるなんて言っちゃいけない。絵は立派な芸術だよ」
「画家ではなくあなたがふざけていると言っております」
「……信用ないなぁ」
しょんぼりと肩を落とすのだが、やはりその仕草すらも胡散臭い。早くもついていったことに後悔していると、シスは煩わしげに片手を振った。
「今日は本当に大層な理由なんてないんだよ。……御前決闘が見たいといったら、どういう了見か全員が反対しやがったからね。だったら個人のツテで乗り込んでやろうじゃないかと、かねてから仲良くさせてもらっていた大公夫人にお願いしたんだよ」
「……それは健全なお付き合いという意味でのお知り合い?」
「いやいや、私のように見目麗しく健康的な青年を前に理性的でいられる女性がいたら教えてもらいたいものだ」
「それは詐欺と言うのではないでしょうか」
「絵はしっかりと描いて寄贈しているとも。なに、彼女のことは真剣に愛しているよ。私は皆が嫌いだから愛だって平等なんだ」
不健全で駄目な方のお付き合いらしい。大公夫人って……現当主は独身のはずだから、正確には先代大公夫人のはずだ。たしか大公が病没されたからいまは未亡人で、息子に代を譲られたはずだけど、それでも四、五十代じゃなかった? という疑問は置いておこう。どのみち彼のロマンスなんて聞きたい話じゃない。
「そういうわけだから、今日の私は魔法使いじゃなくてただの遊び人だ。きみも偶然見つけたから声をかけただけだし、そもそもファルクラム本国に関しては私は部外者だ」
「部外者?」
シスがなにをしたいのかわからない。思わず聞き返すと、シスがとある方向に向かって指をさした。広場を挟んで向かいの方角にいたのは……兄さん?
姿を認識した瞬間だった。突如兄さんの声が頭に響くという意味不明な事態に見舞われたのである。どうやらアヒムと会話しているようだが、私とシスの姿を見つけたらしく、驚いているところらしい。
そこでまた会話がプツンと途切れた。シスが「面白いだろう?」と言わんばかりに微笑んでいるのである。
「私ならこういう芸当もできるんだ。ライナルトに連れて行ってくれたら聞かせてあげるよと言ったのだけど、つまらないと一蹴されてしまった」
「…………まあ、趣味が悪いですものね」
「だから楽しいんじゃないか」
真顔で言い切るシスとは趣味が合わなさそうだ。
「……なぜファルクラムの御前決闘に興味を示されたのですか」
「国を巻き込む派手な兄弟喧嘩だよ。これはみなきゃと思うじゃないか」
「私どもは面白くて見に来たわけではありませんが」
「そうだね。どっちも死んでくれたらきみのお家が国を担えるかもしれない」
言っていいことと悪いことがある。
これは明らかに後者の方。押し黙った私に、シスはわざとらしく肩をすくめた。
「事実さ。……とはいえ、虐めようと思ったわけではないよ。これは単なる意趣返しだからね」
「……あの悲鳴の件ですか」
「そう。私は謎を謎のままにしておくのが嫌なのに、きみのせいで疑問のままになってしまったから」
「……そういえば、あの日はなにかご用件があってあのような暴挙に及ばれたのでしたか」
一日中あなたをみてました、なんて気持ち悪いことを言われたらいい気分はしないのは当然なのだが、こういう形で来るのかぁ。段々とシスが得体の知れない生き物に見えてくるようだ、外見詐欺とはこのことかもしれない。
「……ご用件は?」
「そちらについてはもういいかなと思っているよ」
「……はい?」
「必要なくなったからね」
え、これだけ引っ張っておいてもういいってなに? ぽかんとしていると、それよりも、と首を傾げて質問された。
「でも聞きたいことは他にもあったんだ。エルときみが耳慣れない単語を口にしていた。にっぽんじ……じゃぱ…にぃずという言葉の意味を教えてもらいたいのだけど、あれはどういう言葉なのかな」
「あ、それですか。秘密です」
かなり前の話だけれど、一日中と言われたからもしやと思っていたのだ。即答にシスは不服そうだったが「前世は別の世界の人間だったんですよー」なんて言えるわけがない。頭のおかしい人扱いされるのは必至だし、なにより知ってもらいたいとも感じなかったからだ。そもそも彼がエルから意味を教えてもらえていない時点でお察しだ。友人と私の考えは一致しているのである。
「若人にありがちな話ですよ。思春期に見られる、背伸びしがちな言動の共有ですから気にしないでくださいませ」
「……きみたちを若人というのは、どうも私の感覚がなしと言っているのだけどなぁ」
よりにもよってな単語を覚えているし、妙な所が引っかかっているようだ。たいした話もしてないが席を立たせてもらった。
「もう行くのかい」
「もとより長居する気はございませんでしたから。それに大公夫人の良い方と二人っきりでお話しするのもこわいのです。私の気持ちも察してくださいませ」
シスは名残惜しそうだったが、彼との会話はこれでおしまい。無駄……な会話ではなかったけれど、有益であったかと問われれば疑問である。兄さんの元へ向かいがてら、なんとなくシクストゥスという人間について思考を巡らした。
それというのも、どうもシスに対する得体の知れなさが増すばかりなのだ。なぜかなぜかと考えていたところで、ふと思い至った。
彼、コンラートに対してなにも言わなかったのだ。
これまで私が出会った人たちは彼らの死に対し悼む、怒る、悲しむ、お悔やみを告げるなどの態度を取っていた。実際どう思っていたかはともかく、夫と領地の大半を喪失した相手にはそれが相応の態度である。ところがシスは取り繕うだけのガワも被らず、存在すらも口にしなかった。あれは言わなかったのではない、本当に彼らの存在そのものが目に入っていなかった者の態度であった気がしてならないのだ。本人は始終笑顔で人好きのする面差しを浮かべていたが……。
「……ああいうのを人間味が薄い、というのかしら。それとも人でなし?」
「なにかおっしゃいましたか」
「なんでもないです。さ、兄さん達の元へ向かいましょう」




