50、喪失のはじまり、二度と還らぬもの+イラスト付
イラスト Twitter:https://twitter.com/airs0083sdm/status/1274173751932760064
アルファ:https://www.alphapolis.co.jp/novel/26126621/762367951
50を読み終わった後の閲覧を推奨
エレナさんと別れたあと、予定よりも大分早く帰ってきた私たちに全員が驚いていた。正門や道行く人々に「おかえりなさい」と迎えられる光景は悪くない。帰ってきたんだ、という気持ちで安堵すら零れたほどだ。
「カレン、ここからは歩く」
「急ぐからだめ」
相乗りが恥ずかしいのはわかるけれど、ここは時間が優先である。乗馬は苦手だったはずなのに、馬はすんなりということを聞いてくれたし、コンラート邸までたどり着くのは容易かった。出迎えてくれたウェイトリーさんやヘンリック夫人には挨拶もそこそこに、伯の執務室へと案内してもらったのである。
「カレンくん? どうしてコンラートに、王都にいるはずじゃ……それにヴェンデルも」
「ただいま!」
ヴェンデルが父親に抱きついて顔を埋めた。戸惑いがちな伯が息子を受け入れるのだが、せっかくの父子の再会に水を差すように割り込んだ。
「伯、王都からの報せはとどいていますか?」
「王都から? ああ、それなら今朝方早馬が……」
「内容は、なんとありましたか」
険相だったせいだろうか、伯もただごとではないと悟ったようで、背後に立っていたウェイトリーさんが扉を閉める。
結論からいってしまえば、兄さんやローデンヴァルト候の懸念は当たっていた。陛下から文書が送られたのは事実だが、その内容にラトリアへの警戒を高めるような一文はなかったことを記しておこう。私たちが王都で見聞きしてきた内容を説明すると、伯はしたり顔で頷いていた。
「道理で陛下からにしてはとりとめもなく稚拙な内容だと思ったよ。真偽を確かめなければとウェイトリーと相談していた所なんだ、戻ってきてくれて助かったよ」
「陛下からではないとわかったんですか。いえ、というよりもすり替えられたものだと信じられるんですか」
「付き合いは断ってしまったけれど、こと国の一大事において重要な情報を隠すほど愚かではないくらいはわかるよ」
ウェイトリーさんや秘書官達と今後について協議に移ろうとするが、その前にと、大事にしまっておいた手紙を渡した。
「カレン君、これは?」
「陛下からです。伯に直接渡して欲しいと頼まれました」
しなびた手紙を見た伯は狼狽えがちに、しかしゆっくりと首を振る。読めない、ということなのだろうが、差し出がましいと思いつつも無理矢理押しつけた。
「もし少しだけでも私を信用してくださるのなら読んでください。たぶん、今回は伯が考えていらっしゃるものとは少し違うんじゃないかと思います」
いままでの陛下と伯を知っているわけではないけれど、この点に置いてだけは、伯の身体を心配して口惜しそうにしていた姿は本当だと思うのだ。戸惑う伯に何かを悟ったのか、ウェイトリーさんはヴェンデルや護衛の人たちを下がらせてくれる。私も、伯がおそるおそるといった様子で封を開いたところで部屋を出た。
「おかえりなさいませ、奥様」
「はい、ただいま戻りました」
ウェイトリーさんの一言で帰ってきた、という実感が全身を駆け巡る。階下からはエマ先生達の声が近づきはじめており、私も彼女らと再会すべく階段に向かって歩き始める。
目元を真っ赤にした伯が部屋から出てきたのは、それから数時間経ってからのことだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
秘書官達との協議の時間はさほど長くはなかったようだ。私たちが一休みしていた間に、時刻は夕方に迫りつつある。
コンラートの身内全員を集めた場で、コンラート辺境伯カミルは告げた。
「明朝、スウェン達には王都に避難してもらう。ここに残るのは私とエマ、それにウェイトリーだ。君たちには私の秘書官を何人か付けるから、こちらとの連絡が滞ったとしても、問題なくやっていけるだろう」
連れて行ける人員は最低限。これにはスウェン一人が異議を申し立てたが黙殺された。
「ニコは……家族と離れるのは辛いだろうが、君はスウェンと共に行きなさい。ご両親は僕から説得しよう」
「ですけど、両親は……」
「いまはひとまず君たちをコンラートから離すのを優先したい。幸いにも、こちらの知る限りラトリアに続く街道や森林に変化はないようだ。後発になるけれど、君の家族も後日送り届けよう」
そうそう、ニコは私たちが不在の間にスウェンと正式に婚約を結んだ。反対意見は上がらなかったらしく、驚くほどスムーズに話も進んだらしい。なので、いまの彼女は使用人服ではなく、良い装いをしたお嬢さんといった佇まいである。今日はヘンリック夫人も余所行きの服を着ているし、エマ先生と私の方が彼女達に見劣りするくらいだ。
「父さん、待ってください。母さんも王都に避難させましょう。それか僕もここに……」
スウェンは簡単に諦められないようで、易々と首を縦に振れないようだ。私やヴェンデルはあらかじめ覚悟するだけの時間があったから伯の提案も受け入れられたが、スウェンにとっては寝耳に水である。父母を置いていくのは見捨てるようなものだろうし、反発するのも仕方なかった。これを厳しく叱ったのがエマ先生だ。
「あなたたちには夫人やカレンが付いているから大丈夫だけれど、お父さんやみんなには医者が付いていないといけないでしょう」
「でも、せめて手伝いをしないと」
「半人前についててもらわなくても結構ですよ。私は私の仕事をするだけなのだから、貴方もコンラートを継ぐと決めたのなら、自分の役目をしっかり自覚なさい。大体、スウェンが残ったらヴェンデルを一人でいかせてしまうのよ」
「母さんの言う通りだね。それにまだ戦が起こると決まったわけではない。幸い近くにはライナルト殿の軍もいるし、カレン君のおかげで早く渡りもつけられそうだ。それに帝国と共同戦線を張れるのなら、向こうが引いてくれる余地はいくらでもある。なにせファルクラムもだが、ラトリアの冬はいっそう厳しいからね」
伯曰く、ファルクラムの冬は険しく、この時期に街道或いは森を抜けてラトリアが遠征する理由は薄いのだという。故に今回の出兵が事実だとしても、なんらかの事情があるはずだと話していた。
「まったく不可解だよ。収穫が終わった頃合いとはいえ、ファルクラムまで遠征するのは相当な備蓄が必要なはずなのに、わざわざ冬を選んでくるなんて……」
「旦那様」
「……失礼。各々、明朝には発ってもらうから、準備をしておきなさい。ニコは荷物を……ああ、スウェンが送ってあげなさいね」
伯とエマ先生の指にはヴェンデルから渡した指輪も嵌まっており、こんな時ではあるが王都へ行った収穫はあったのではないだろうか。
準備のために一旦解散となったのだが、ニコが実家に戻るためか、私の荷造りを手伝ってくれたのはヘンリック夫人である。
「しばらく帰って来られないかもしれませんから、貴重品はなるべく持って行ってくださいまし」
「お気に入りですか。そこそこ大事なのはもう置いてきちゃってるんですよね」
「それはようございました。奥様のことですから、うっかり忘れていってしまっては笑い話にもなりません」
「そこまで忘れっぽくないですってばー」
金銭的に一番価値のある公庫利用権だが、あれはもしもに備えて移動の際は必ず持っていくようにしているのだ。今回の帰還は急だったため、持ち運ぶのを止めたが、王都にある姉さんの館……に用意してもらった私の部屋に置いてきた。したがって持ち出す大事なものといったら、箱にしまわれた例の腕輪くらいだろう。これは鞄の底にしまいこんでもっていくことにした。
「ところで夫人、今日はいつもと違う格好をしてますけど、なにかお祝いでもあったんですか」
「ああ、これですね。これは娘が……」
言いかけて、急に口ごもった。夫人は私に娘がいたことを話していないと気付いたのだろう。私も何も返しはしなかったが、夫人はなにを思ったのか、穏やかな口調で語り続けた。
「昔、わたくしには娘がいたのです。その子からもらった服は大事にしまっていたのですが、今朝方、珍しく娘の夢を見まして……」
「……ふーん。ちなみに、どんな夢を?」
「娘が、娘の想い人と一緒に笑っている夢です。きっと、わたくしが記憶している娘にとって一番輝かしかった頃の思い出なのでしょうが、いつもの夢と違って、いつまでもあの子が笑っていたので……」
娘を語る夫人の表情はひどく優しく、まるでお母さんと呼びたくなるような眼差しだ。私に見つめられていたのに気付いたのか、わざとらしく咳払いをしたけれど、頬が赤く染まったのまでは誤魔化せない。
「いまは、あの子よりも手のかかる主人の世話をしておりますので、思い出にうつつを抜かしている暇などございませんが」
「聞き分けが良い主人だと思うんですけどねぇ」
「聞き分けの良い主人は猟を手伝いに活き活きと走ったり、馬で遠出しようとして落馬しかけたりはいたしません」
「……馬の扱いは上手くなったと思いますよ?」
「奥様」
「はい」
大人しく荷造りいたしますとも。
急な出発が決まったせいか、スウェンもニコの荷造りの手伝いで夕餉の時間になっても帰ってこなかった。エマ先生も流行り風邪の対応で忙しいらしく、ヴェンデルがちょくちょく遊びにきては持っていく薬についてああだこうだと話をしていたと思う。
「僕はさ、王都の方でも薬草園作ったらどうかと思うんだけど母さんが反対するんだ」
「理由はなんて?」
「便利だけど、毒にもなる草がいっぱいあるから誤解されるし駄目だって。つまんないよね」
「一理あると思うけどなあ。ところでヴェンデル、そろそろ寝る時間だと思うけどお風呂は?」
「明日の移動中に寝るしお風呂は入った。まだ兄さん達も帰ってきてないし、出迎えたいじゃん?」
などと言ってソファで転がる始末である。いつもならとっくに寝入っている時間になっても帰ってこない。ニコの家でご飯でも食べているのだろうか。……この時間になっても帰ってこないのならきっと宴を楽しんでいるんだろう。
しかし私はそろそろお風呂に入りたい。ヴェンデルを追い返そうとしていたのだが、この時間になって伯とウェイトリーさんが訪ねてきた。
「……おや、ヴェンデルは君の部屋にいたのかい。夫人がカンカンになりながら探していたよ」
だらしのない息子に朗らかに笑う伯だが、その腰には見慣れぬものが下がっていた。およそ普段のご老体には相応しくない、使い古された剣である。ヴェンデルも気付いたようで、若者二人の視線に気付いた老人は苦笑していた。
「いざという時のために、勘を取り戻しておきたかっただけだよ、もう昔のようには振るえないさ」
重くて邪魔だねえ、とこぼす老人は窓の方を見て呟く。
「一雨来そうだな。また霧が深くなるだろうし、出立に影響なければいいが……」
「そう、ですね。今日は少し暖かいですし、このまま曇っていてもらいたいですけど、天候ばかりはどうにもなりませんから」
なんとなくテラスに出ると、コンラートの庭がよく見渡せる。三階にある私の部屋が一番見渡しが良かったからだろうか、伯も同じ景色を眺めていた。
「それで、こんなお時間にどうされましたか。御用向きだとお見受けしましたが……」
「うん、君にこれを持って行ってほしくてね」
伯が差し出したのは、これまた一通の手紙だった。こちらは陛下のものと違い、紙質も綺麗だし先ほどしたためられたであろうことがわかる。
「これを陛下に渡してくれ。彼が君にお願いしたように、君から直接渡すようお願いしたい」
陛下に向けた伯からの返事だった。こんなに返事が早いとは思わなかったのだが、よく考えればいま返事を書くのは妥当だ。この人はなにがあっても良いように備えておくのが役目なのである。
「……必ずお渡ししますね」
「頼むよ。それと、ウェイトリーからもあるそうだ」
ウェイトリーさんはまったくの予想外だった。こちらからも手紙を渡されたのだが、宛先はまったく知らない名前だ。「クロード・バダンテール」なる人物は聞き覚えすらない。
「ウェイトリーさん、この人は……?」
「外交官補佐をしていた頃の上役です」
「上役、というとまさか……」
「いまは帝都に居を構えております。相変わらず賢しく稼いでいるのでしょうが、もし帝都に行く機会があったのなら、何かあった際はこの方を頼ってくださいませ。他人の為に動く人物ではございませんが、それを読ませればあの男でも重い腰を上げるでしょう」
「ですが、あの、これは……」
「もとより、いつか貴女にお渡ししようと考えていたのです。それが早まっただけとお考えください」
「……はい。ありがとうございます」
今生の別れではないとわかっているけれど、こんな風に託されてしまっては唇も噛んでしまうというものだ。
「ああそうだ、手紙もだが、いい葡萄酒が手に入っていたんだ。明日、地下の貯蔵室から二本持っていってもらえるかい」
「二本、ですか」
「スウェンが生まれた年に作られたものでね、別画にわかりやすく置いてあるからすぐにわかるだろう。一本は君たちで飲んで、もう一本は陛下に届けておくれ。……彼の好きな生産地の酒だから、きっと気に入るだろう」
スウェンの生まれた年、というのなら思い入れのあるお酒なのだろう。そういうことなら喜んでお使いの続きをさせてもらいたい。
「僕、いまから貯蔵室に行って取ってくるよ」
「ヴェンデル、明日でいいからもう寝なさい。それにカレン君の部屋にいつまでもいるものじゃあないよ」
「いまから部屋に戻るよ。だけどお酒は朝じゃ絶対忘れてるだろうし、夜の貯蔵室って面白そうだし……」
「旦那様、ヴェンデル様はわたくしが付いておきますので……」
ヴェンデルのことだから夜中に忍び込んで取りに行きかねない。ウェイトリーさんがやれやれと言いたげに息を吐いたところで、気がついた。
「あ。スウェン達が帰って来ましたよ。エマ先生もいる」
まったく、遅くまでかかりすぎなのだ。お兄ちゃんを出迎えたいと待っていたヴェンデルのことも少しは考えてあげてほしい。「おーい」と手を振れば、こちらに気付いたスウェンが笑いながら手を挙げていた。荷物を抱えたニコやエマ先生も満面の笑みである。
「ニコにも、向こうにいる間に礼儀作法を勉強してもらって、色んな事を覚えてもらわなくちゃいけませんね」
「……あの子ねぇ、大丈夫かなあ」
「領地の運営です? スウェンやヴェンデルが支えてくれるから大丈夫ですって、ニコはやればできる子なんですから」
「僕が心配しているのは緊張のあまり人前で噛んだりしないかってことさ。カレンくん、社交界のことも色々教えてあげてね」
「やー、それについては私が教えられることなんて微々たるものでして……」
心配そうにぼやく伯だが、並び歩く息子と将来の義娘の姿を拒む様子はない。
「……あれ、あの方達、なにかあったんでしょうか」
柵の向こう、正面の門あたりに数名の衛兵の姿があった。衛兵が館にやってくるのは珍しい話ではないけれど、五・六人と徒党を組んでやってくるのは珍しい。伯やウェイトリーさんも何事かとそちらを注視していた。
外は暗いし、かがり火だけが頼りなのだが、柵門のあたりで入り口に立っていた衛兵にストップを食らったようだ。何かを話し込んでいる姿が見受けられる。会話に参加していない一人が中央に立ったのだが……。
スウェン達の方向に向かって、不自然に片腕を持ち上げた。そこには……なんだろう。キラリと光るような、そうだ、なかなかお目にかからないものだったから忘れていたが思い出した。あれだ、いわゆるボウガンみたいな――。
――……なんで?
「スウェ」
少年は衝撃に身体を揺らし、柔らかな笑顔を浮かべながら瞳から生気をなくしていった。




