閑話:ある女公爵の恋の行方+6巻表紙公開
長女の側室入りの折に忙しいのは知っていたつもりだ。
だからこそ次女の婚約も同等の、いやそれ以上の覚悟を持ち、今後はいっそう混迷を極めると覚悟していた。
……していたつもりなのだが、どうも己の見積もりは甘かったのだと、いまとなっては認めざるを得ない。花嫁の、つまりは未来の皇妃の父として、アレクシスは今日もこめかみを親指で揉み解す。
「旦那様、こちらを温めてございますので、目元にお当てくださいませ」
「助かる」
家令から受け取ったタオルは湯から絞りたてで温かい。当てた箇所からじんわりと熱が伝わり、疲れが癒えて行く。思わず漏れ出た声は疲労が滲んでいた。
執務室にいるのはファルクラムから連れてきた、長年の付き合いがある家令だ。気心が知れているために、取り繕う必要もなく自然体でいられた。
「お年でございますから、もう少し目を労ってもよろしいのではないでしょうか」
「もう休むが、これだけは片付けておきたい」
机の上に置かれたのは、ある輸送指示書だ。荷の目録をちらりと見た家令は、なるほどと頷いた。
「坊ちゃまへ送る荷でございますか」
「最終確認だけはしておきたい。向こうは思った以上に厳しいようだから、せめて食の苦労があってはならない。それが解消されるだけでも気が楽に過ごせるはずだ」
それはヴィルヘルミナ共々、北の地へ追放された長男アルノーへ送る荷だ。中身は雑貨類も入っているが、その殆どは食料品である。北の現状は長男の乳兄弟から聞いていたから、予定していた倍の荷にしていた。
「よろしいのですか。その分だけ輸送費もかかりましょうに、あまり敗北した皇女側に気を割いては周囲との亀裂を生みますまいか」
と、普通の家令なら一言釘を釘を刺すだろうが、この家令はアルノーが幼い頃から可愛がっていたし、アレクシスの親心も理解している。当然反対などするはずもなく、主人の気の済むままに見守っていた。
「坊ちゃまついでに……旦那様、アヒムに一言釘を刺しておいても構いませぬか」
「アヒムに?」
「あのひねくれ者にございます。預けた金は母親に回せといって、自分では使わないに決まっております。旦那様に任せるばかりではなく、しっかりと資産管理をさせないといけません」
「言わねばならないかな?」
「なりません。親子共々ファルクラムには身内がおりませぬ。いずれ使わなくなればキルステンにでも入れろと言うに決まっております」
「アヒムもいずれ所帯を持てば家族に使うと思うのだが……ああ、いや、私よりもお前の方があの子の面倒を見てきたのだし、そう思うのなら任せる」
アヒムから預かった金はオルレンドル皇帝より下賜された正統な報酬だ。大金は旅の邪魔になるからと管理を任されていた。
冷めたタオルを外すと、思い出したかのように家令に問う。
「エミールの方は異常ないかな」
この問いには様々な意味が込められているが、家令は伊達に長い付き合いではない。アレクシスを安心させるためにしかと頷いた。
「普段通りでございます。つつがなく、学校生活を楽しんでございますよ」
「無理をしている様子は? 時々帰りが遅いようだが……」
「帰りが遅い日はご友人と遊んでいるだけかと」
「うん、そうか……」
「旦那様」
「なんだ」
「こういってはなんですが、エミール様は旦那様より肝が据わってございますので、心配する必要はないかと存じます。それより御身をご自愛くださいませ」
「しかしだな、一人目に続いて二人目も……だぞ。しかも今度は側室どころの騒ぎではない」
「心得てございます。オルレンドル帝国皇帝陛下のご寵愛を一身に受ける存在です」
次女カレンが皇妃になるのだ。国の規模も、立場も、そしていまに至る騒動までもがすべてを上回っている。アレクシスも――よりによってあの皇帝陛下の――考えるに恐ろしいが、義父になるのである。その変化の遂げようといったら、祖国ファルクラムの比ではない。
なにせ普段は綺麗なはずのアレクシスの机が汚い。整理整頓の行き届かないままに手紙や各種書類が広げられ、髪もわずかにほつれている。
これらはエミールが帰宅する頃にはすべて片付けられるものの、日に日に厄介さは増していた。
特にある一画に集められた手紙を掴むと、差出人達の名を眺め、辟易した様子で呟く。
「アルノーがヴィルヘルミナに付き添い続けると知ればすぐに切り捨てて来たのに、カレンが皇妃になるとわかった途端手の平返しだ。まったく、こういうのは好きになれない」
「ではすべてはね除けますか」
「冗談はよせ。私はともかく子供達の心証を悪くしたくない。余程でない限りは当たり障りのない返事にするさ」
息子の前では決して吐けない愚痴だ。
立場が変われば関係も変わる。上流社会では頻繁に起こりえる現象かもしれないが、元々キルステンは中流に留まれれば良い程度で、権謀術数とはほぼほぼ無縁の貴族だったのだ。欲望が入り交じる世界で奔走する日々はアレクシスの心に疲労を溜めつつあるが、いずれ息子に当主を譲る日のため目を背けずにいる。
「コンラートの家令殿に相談し、幾人か人手を相談しております。それにバーレも気にかけてくださっていますので、もう少しすればいくらか楽になるかと」
「うん、うん、ありがたい話だな。彼らにはいくら礼を言っても言い足りない」
バーレとはいくらか複雑な関係だが、アレクシスは平然と彼の家とも付き合っている。周囲は懐の広い当主と捉えているが、その実、彼が何を考えているのかを知るのは家令のみだ。
「ところで、お疲れのところ申し訳ありませんが、本日のご予定はまだ終わっておりません」
「……わかっている、忘れてはいない。約束は守らねば」
その〝約束〟の相手を前にしたとき、アレクシスはまるで悪魔に差し出された殉教者の如く悟りを開いていた。対して悪魔ことリリー・イングリット・トゥーナは初恋を前にした少女の如くはしゃいでいる。
「まあまあアレクシス、お忙しいところにありがとう。お会いできてとっても嬉しくてよ」
「……約束を先延ばしにして申し訳ないね、リリー」
「気になさらないで、貴方はいまをときめく未来の皇后のお父上だもの。ご苦労もおおいことでしょう? 何日も先延ばしされたくらいで怒るあたくしではなくてよ」
「心遣い痛み入るよ」
巷では色恋多き女公爵も、こうしてアレクシスと対峙しているのであれば、ただただ可愛らしい人だ。しかしながらこの人はトゥーナ公、それだけではないのをアレクシスは知っている。
「今夜はとても良いお酒を用意したの、きっと貴方も気に入ってよ」
一瞬といえど、その瞳が女豹の如く煌めいた。
娘カレンがどうにかして接触を避けさせようとしたアレクシスとリリーの接触。娘の努力も虚しく、抜け目ない女公爵はとうに「二人きりで夕餉を我が家で共に」の約束を取り付けている。従って今日の食事は非公式であり、娘は何も知らない。
贅の凝らされたトゥーナ公との夕餉は食事よりも会話が弾んだ。
「陛下のご威光をもってしても、我が家がオルレンドル貴族に迎え入れられるには、すぐには難しい点が多々あった。貴女が口を利いてくれたおかげで動きやすくなった、本当に感謝している」
「いやね、キルステンはもとよりコンラートに手を貸すのは当然でしてよ。だってあたくし、貴女の娘さんの後見人なんだもの」
「だとしても外国からきた貴族の仲介を取り持つのは難しかったはずだ。貴女ほどではないが、私も国仕えは長かったので、少しは苦労もわかるつもりだ」
「ふふ、そうして言っていただけるのなら、頑張った甲斐はあったわ。でも気になさらないで、あたくしもそれなりの見返りを求めての行動ですからね」
「もちろん、いざというときはトゥーナ公の力になるとお約束する」
彼女はこうしてアレクシスに気を遣わせすぎないようにもしている。
食事においては余計な気は出さないのは、アレクシスの苦手意識も理解していたのかもしれない。このままただトゥーナ公として在ってくれればよかったものの、やはりといおうか、帰り際に彼女は牙を向き出しにした。
思ったより時間を取られた夜、帰りの馬車に乗ろうとしたアレクシスをリリーが引き留めた。至近距離で下から顔を覗き込み、アレクシスの胸をつついたのだ。
ぷっくりと蠱惑的な赤い唇に、大胆に開いた胸元には異性同性問わず視線を取られるだろう。彼女はいままでそうして男を魅了してきたのだろうが、アレクシスは困り果てた様子で目を背け、手の平でそっと彼女を押し返した。
「すまないが……私は貴女にそういった気は起こせない」
「あら、どうして? もしかして娘さんが気にかかってるなら、あたくし、絶対に口外しない自信がありましてよ」
さて、どうしたものかとアレクシスはいまだに悩んでいる。何故なら平凡な断り文句なら散々口にしてきたためだ。約束をこの日まで先延ばししたのも、結局良い方便が浮かばなかったせいだ。
そもそも、彼は恋愛経験豊富な男ではないのだ。
バーレ家当主みたくしなやかに女性を躱せる技術はないし、教えを乞うたとて実行できる人間ではない。いままで彼なりに白面で過ごしていたのは、ひとえに子供達に父親以外の側面を見せたくなかったためでもある。
「申し訳ない、そういう問題ではない」
「ではどういう問題?」
ぐいぐい来るではないか。腕を掴まれているが、決して強くはない力だ。振りほどくのは簡単だし、今宵逃げ切る点においてだけは簡単だ。しかしリリーは一度断られた程度で引く性格ではなく、アレクシスとしては、ここで終わらせておきたい一念がある。
目線が下に落ちないよう注意していると、不自然に目が宙を彷徨っていた。
「貴女は、多分、魅力的な人ではあるのだろうと思う」
「あら、そういってもらえるのは嬉しい。だって貴方は見向きもしてくださらないのだもの、女として自信をなくしかけていたところよ」
「それは……申し訳ない。魅力がないとは言いたくないのだが、しかし私は二回り近くも年下の女性と関係を持つつもりはないんだ」
「……あたくし、貴方にとって子供かしら?」
「年の差を鑑みればそう考えるのが普通ではないだろうか」
いままで当たり障りない言葉で誘いを断っていたが、今回は違う。二人きりなのもあって、素直な語り口から入った。普通はここまで言えば理解してくれるし、しかと態度で示したからリリーも肩を落として沈みがちになっていた、やはり彼女はトゥーナ公だ。落ち込んだのはものの数秒だった。
「だとしたら、やっぱりここはあたくしの腕の見せ所なのでしょうね。子供を子供とも思わないだけの期間をお約束しますわ。ですからどうか、少しで良いからあたくしに目を向けてくださらない?」
一夜の誘いからただ振り向いてくれ、というのが小憎たらしい演出だと感じるのは、アレクシスに恋愛経験が不足しているからだろうか。
どうしてこうもオルレンドル貴族女性は積極的なのだろう。
オルレンドル貴族に対する偏見を抱きつつ、両目を閉じたアレクシスの腕に胸が押し当てられる。
妻と別れた身にははっきり述べると毒なのだが、状況に流されては息子娘のために生きる誓いが無駄になる。
「リリー」
「なぁに? アレクシス」
声は甘い。それに優しく男を包み込むだけの包容力もある。
気付かぬうちに己を蝕む茨みたいだ、となんとなし感想を抱き、はっきり言った。
「私は別れた妻を愛している。だからこそ貴女は受け入れられないし、関係を持つ気がない。わかってくれないだろうか」
それは子供達を傷つけてしまうかもしれないから、絶対に声にしなかった本音だった。だが美女の誘惑に対抗するには、アレクシスにはこのカードしかない。
アレクシスの告白に、リリーは悲しげに目尻を下げた。演技ではない。トゥーナ公としてではなく、私人としての彼女の貌に、このときほんのわずかにだけアレクシスの罪悪感が揺らいだ。
「……貴方を傷つけた方ですのに?」
「そうだ」
「裏切られてもまだ、愛してらっしゃる?」
「その通り。愚かにも、まだ愛は途絶えていない」
こんな告白は、裏切られておきながら馬鹿だといわれても仕方のない代物だ。しかしながらこれがアレクシスの偽らざる心になる。
「どうしてかしら。……気を悪くなさらないで? その方を悪く言うつもりはないけど、貴方はとても傷ついたのではないのかしら」
「裏切られ、悲しみはした。だが過ごした日々は偽りではない。彼女が私の傍にあってくれた事実は覆らない」
「恨まないの?」
「恨みたいとは思った。だが、恨むだけには私たちは共に在りすぎたから」
別れたのはけじめと、子供達のため。もはや表立って愛を謳うつもりはないが、心の内で誰を愛するかは自由だ。
いっそ憎めたら楽だったのだろうか、彼はもう憎み悲しむだけで周りを見失う愚行は犯したくない。かつて一人の子供を追い出すのを止められなかった後悔を、アレクシスは忘れられない。
おそらく、元夫婦にしかわからない感情の告白。これをリリーが嗤ってくれたのなら、アレクシスは完全に彼女を拒絶できただろう。
「そう、あたくしにはわからない感情ですが、当の本人たる貴方がおっしゃるなら、そういう愛の形もあるのでしょうね」
しかしリリーは悩ましげにため息を吐いただけだ。
寂しげに微笑むとそうっと腕を放し、名残惜しげに指先を置いていた。
「アレクシス、それでもあたくしは貴方をお慕いしておりますの」
「申し訳ないが……お付き合いできない理由はもう申し上げている」
悲しげな所作に言葉。これはかなり振り払いにくい言葉だ。
けれどこれで諦めてくれたに違いない。傷つけるばかりの申し訳なさで、最後にいくらばかりは補足した……のだが。
「貴女は美しい人だ。きっと十年二十年経っても、気高さが失われることのない存在だろうから、私みたいな中年に目を向ける必要はな……」
「あ、それだわ」
打って変わって明るい声音だ。先ほどまでの悲しげな面差しはない。
「う、ん……?」
「それでしてよ、アレクシス。流石はあたくしの見込んだ御方」
「待ってもらえるかな、話がよくみえないのだが」
「いまのあたくしでは貴方に振り向いていただくだけの魅力はなくても、十年二十年後ではその限りではないわよね」
「は?」
「だってそのくらい経ったら貴方はおじいちゃんだし、あたくしもいい年をしたおばさんだもの。少なくとも見た目で年の差は関係なくなるわ」
先ほどまで流れていた悲壮な空気はどこに行ったのだろう。リリーがアレクシスに詰め寄り、両手を握ると喜色満面で語りかける。
「貴方があたくしの気高さが失われることはないと信じてくださるのよ。でしたらあたくし、素敵なおばさんになると約束するわ」
「いや、そういうことでは……」
「貴方が誰をどう思っても自由よ。前の奥様に愛を誓っていても結構。でもそれ以上にあたくしを想えるだけになればいいと思いません?」
このとき、アレクシスは自らの失言を悟った。
迂闊にも放った慰めの一言が彼女の気持ちに火を点けた。いやしかし長期計画ではあるし、いつか諦めてくれると思うのは……。
「三十年後には、一緒に卓を囲んでお茶を飲みましょうね、アレクシス」
浅はかなのかも、しれない。
その日の夜、帰宅したアレクシスを息子は出迎えた。美女の香水は纏っていなかったものの、疲労困憊の様を隠せない父に、エミールは言ったのだ。
「なんて返事したんですか」
「…………三十年後に生きてたら、お茶くらいは、まあ……と……」
去りゆく父の背中にエミールはため息を吐く。
ひとまず成人までの間にトゥーナ公が義母になる道が途絶えただけ良しとしよう。父に甘い飲み物を出してもらうべく家令に振り向くと、とっくに「用意しています」の顔で頷かれた。
「にしても三十年後か、やるなー……」
感心するところが違うのだが、賢い家令は無言で父を追いかけ始めたエミールを見送る。
今宵もまた、キルステン家は平和だった。
早川書房より表紙とカバーイラストの先行公開です。
https://www.hayakawabooks.com/n/nf6b78ef6b4ff
幸せそうな二人が目印。
今後は公式や作者ツイッター等でもお知らせしています。
続編連載も行っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。




