笑い嗤い踊り終えたら
女が開け放しの扉をノックする。
「タビタ、勝手に入るわよぉ」
「勝手に入るなら帰って」
「やぁよぉ、なんで貴女の部屋に入るのに許可なんて必要なのよ」
「私の部屋だからに決まってるでしょ」
ずかずかと侵入する女に対し、相手はそっけない。頬杖をつきながら本を読んでいるのだが、一度も視線を向けないためだ。慣れた様子で女をいなしているのは、付き合いの長さ故でもある。
「あらぁ、それ、官能小説?」
「なんで中身を見ないでそんなこと言えるのかしらねこの色ボケ女は」
「じゃあ何よぉ」
「ただの昔話よ。新興宗教と古い宗教風刺に若者が改革を加えて纏める話」
「んん……? そういうの、陛下が全部燃やしたんじゃなかったぁ。よく残ってたわねぇ」
馴れ馴れしくもタビタと呼んだ女の肩に肘を置く。その際に豊満な胸が頭部や顔に押しつけられるが、タビタは動揺すらしなかった。
「いくら陛下とはいえ、うちの地下までは探しきれないわ。……亡くなった祖母がこういうの好きだから隠し持ってたの」
「あらあら、悪い人ね。こぉんなの見つかっちゃったら、今度は裸で後宮を走らされるくらいじゃ済まないわよ?」
「密告するなら好きになさいな。ただし協力関係は破棄するわよ」
「やだぁ、それは困る」
タビタはカップを手に取ると、おもむろに後ろに向かって中身を放つ。本来ならぬるい茶ごと女――パトリツィアを濡らすはずだったが、タビタの行動など読んでいたと言わんばかりに華麗に避けた。
「ごめんなさぁい。でもでも、これって懐かしい思い出でしょ。貴女が皇妃さまに盗みの濡れ衣を着せられて、罰として後宮を裸で二周走らされたの、あたしいまでも覚えてるわ」
「流石メーラー宰相閣下の娘は性格が悪いわ」
「褒め言葉にしかならないわよ?」
「知ってる。だから貴女は友達がいないのよ」
「もう、そんな拗ねなくてもいいじゃない」
「拗ねてないわ、怒ってるのよ。ええ、でもそうね。そんな私でも貴女には同情するわ。貴女こそ姦淫の疑いだけで、大勢の前で股を開かされたんですものね」
「あれもひどかったわぁ。男を部屋に招く隙なんてないのに、皇妃様ったらあたしが若くて綺麗ってだけで敵視してくるんだもの。助けてくださいってお願いしたのに嗤うばっかり。ああ、この御方ってとことん心根が腐っているのだわって実感した」
「貴女と一緒で性格が悪いのよ」
「やだぁ、それをタビタが言うのぉ?」
「私は自分を守るため、必要に迫られて仕方なくです」
「それならあたしだってそうよ? だって昔はこんなに性格悪くなかったもの。これでも夢に夢見る可愛い女の子だったんだからぁ」
「それは絶対うそ」
皮肉で返されるもパトリツィアは艶然としていた。もはやその事実を覚えているのは当時から残っている者だけだったし、当時のことを口さがなく噂する者は、妃の権限をもってすべて罰した。メーラー宰相の娘であり、同時に二番目の妃だったからできる力業だ。
そしてそれは三妃にあたるタビタも同様だ。彼女もメーラー家ほどではないが、オルレンドル有数の名家生まれだし、父はカール皇帝のお気に入りだから、ある程度の権威を有していた。
後宮では、いまでも当時の彼女達の醜態を口にすれば厳しく罰せられる。後宮勤めになる者達はまずこのことを教え込まれ、口にすれば仕事を追われると恐れていた。
そう、彼女達はオルレンドル帝国皇帝カールの二番目と三番目の妃になる。
後宮においては皇妃クラリッサですら追い出すことの叶わない女達だ。
宮廷では皇妃クラリッサの忠実な下僕と噂されており、事実その通りに動く彼女達だが、真意としてはこの通りだ。
ここでタビタは気付いた。
パトリツィアは平然としているも、彼女はタビタ以上に濡れ衣による罰や恥を掻かされた話を嫌う。時によっては髪を振り乱し、高いかかとで廊下を踏みならして他の側室や侍女達を怯えさせるのに、いまは自ら過去の話をしているのだ。
「どうしたっていうの。あなたなにか変よ?」
「やっとこっちを向くのね」
「そんなことはどうでもいいのよ。……どうしたの、また皇妃様に難癖を付けられた?」
「ま、タビタが心配してくれてる」
「私に害が及んで欲しくないだけよ」
まかり間違っても友人とは言わないが、手を結ぶことで皇妃の悪意から互いを守ってきたのも事実だ。奇妙な協力関係はそろそろ二十年近くに及んでいたから、お互いの変化には敏感だった。
パトリツィアは嬉しそうに窓の外に目を向ける。
「今日は外が騒がしいと思わない?」
「ああ……陛下とライナルト殿下でしょう。何か進展があったの」
皇帝と元皇太子の争いは当然ながら後宮にも届いている。しかしながらタビタが無関心なのは、その火種が後宮に及ぶとは考えていないためだ。
楽観的かもしれないが、どのみち皇妃や皇帝の許可無しに後宮を出られない。実家に戻ったのもタビタは三年も前、パトリツィアなんかは後宮に入ってから一度も家に帰っていない。
手が届かないものを心配しても仕方ない。
そんな達観がタビタの態度に表れている。それはパトリツィアも同様のはずだったが、今日の彼女は十年は目にしていなかった輝きが宿っている。
「先ほどね、あたしの侍女が宮廷の様子を確かめてきました。兵士は落ち着きがないし、ずうっとバンバンうるさかったのに、気にならなかったの?」
「全然。だって関わっても無駄でしょ」
「他の子達は怯えてるっていうのに、こんな風にのんびりしてるのは貴女くらいよ」
ほう、とため息を吐くも、やはり喜色は隠していない。もはや不気味ささえ感じていると、パトリツィアが微笑んでいった。
「先ほど陛下がお亡くなりになったそうよ」
目に見えてタビタの動きが止まった。
その姿にパトリツィアは満足げに頷く。
「メーラー宰相は更迭されたって、親切な方が大慌てで教えにきてくれたわ。きっとお父様の拘留を解くようライナルト殿下にお願いしてって意味だったんでしょうけど、追い返しちゃった」
頬に両手を添え、きゃっきゃと若い娘のようにはしゃいで続けた。
「で。外に無関心な貴女のために一報よぉ。貴女のお父様は陛下と一緒に教会に逃げたけど、陛下が亡くなった後は捕まってしまったって。メーラー家と同じく、きっと処刑は免れないでしょう」
「その話、信憑性は……」
「虚しい期待を煽って落とすなんて、陛下やクラリッサ様みたいな真似、あたしがする?」
二人は見合った。
やがてタビタは立ち上がり、洋服棚の戸を開く。乱暴な手つきで取り出したのは大きな鞄だ。
きょとんと目を丸めるパトリツィアの前で持っていた本や貴金属類を放り込み始めた。
「……なにやってるのぉ?」
「見ればわかるでしょ。私物と金目のものを詰めてるのよ」
「んー……ここを出るつもりぃ?」
「それ以外なにがあるの」
「あらまあ。こわいこわい皇妃様が許さないわよぉ」
「だからなに?」
動きにくい豪奢なドレスを脱ぎ、髪留めを引き抜いた。それを眺め、皇帝から賜ったものだったと思い出すと、ぽいっと床に放り投げる。
「どうせ陛下が死んだのならあの女もいままでみたいには威張り散らせないでしょうし、父が死ぬなら、利用価値の下がった私を留め置きたい理由なんてないわよ」
「それもそうねえ。でも陛下が誰に殺されたか興味はないの?」
「ああ、そうだった。どちらが勝利されたのかしら。ヴィルヘルミナ皇女殿下が裏切った?」
「いいえ、ライナルト殿下が勝ったわ。でも陛下にとどめを刺したのはナーディアだって……なのにお咎めっぽいのは受けてないのよね。保護されたみたい」
四妃の名に、ここで初めてタビタが目に見えて驚きを示した。
「驚きよねぇ。彼女が陛下を嫌いなのはわかってたけど、寵愛を一身に受けてたもの。殺したいほど憎んでるとは思わなかった。どこで内通したのかしらぁ」
「……なおさら私と貴女は離れた方がいいのではないかしら。殿下と手を組んでたってことなら、彼女を苛めてたのはなおさらまずいでしょ。命令だったなんてのは免罪符にもならないわ」
「だからもう侍女に荷造りさせてるわ。前に貴女が言ってたけど、アーベラインやライナルト殿下は話がわからない人じゃなさそう。なにより早いうちにここを抜けておけば、あたしたちが八つ当たりを食らう羽目にはならないでしょ」
「ああ、じゃあもうあの女は荒れ始めてるんだ」
「すごいらしいわよー。この間買ったばかりのお皿をもう割ってしまったんですって。皆の前であれだけ自慢げに紹介して、お前達より価値があるって言ってたのねえ」
無論そんなことをすれば罰を免れないが、そもそも彼女達は咎を恐れていない。案じているのは己の身だけで、家などすでに守る存在ではなかった。
「あんたのことだから先に他の連中に触れ回ったんでしょ。他の側室達は残りそう?」
「他に行くところなんてないものぉ。貴女やあたしみたいに、家に見切りを付けてる子なんていないわ」
「救いようのない馬鹿ね。こんなところに残り続けたって無駄なのに」
「つめたいわね。十番目の……名前はなんだったかしら。あの子なんてライナルト殿下を色仕掛けで落とそうなんて意気込んでるのに、貴女は諦めがいいわね」
「やれると思うならやってきたら?」
「いやよぉ。殿下なんて陛下に弄ばれてきたんでしょうし、嫌いな男の側室が色仕掛けなんて笑っちゃう。そもそもぉ、あの皇子様ってなんだか嫌な感じがするもの」
「あの女の耳に入りそう?」
「もうちょっとしてからかな。あの子だけじゃ頼りないから、他の子にも発破をかけるつもり」
「そう、頑張ってね」
「頑張るわぁ。でもタビタは特別に見逃してあげるわね」
「ありがと。なら今回だけは上手くいくよう祈っててあげる」
ライナルトに恭順する側室が現れたとなればクラリッサは荒れ狂うし、後宮は騒がしくなるだろう。パトリツィアは他の側室を暴れさせる算段で、まるで後宮の混乱を面白がっているが、実際その通りだ。
パトリツィアは出来うる限り後宮に復讐してから去る算段なのだとタビタは思った。
それは昔、クラリッサに姦淫の濡れ衣を着せられた恨みでもあるし、濡れ衣だとわかっていながら面白がったカールへの憎悪がある。なによりその後に授かった子供を非道な手段で駄目にされた怨恨がパトリツィアを動かす力だ。
タビタは努力の甲斐あって子供を授からなかったから彼女ほど酷い目には遭っていないが、一般的に見れば充分に心を病む目には遭っている。パトリツィアと違うのは、もう皇族と関わり合いになりたくないだけだ。
「タビタ、家には戻らないでしょ。どこにいくつもり?」
「陛下との交渉があるからしばらくは帝都にいなきゃならないけど、適当な田舎にでも引っ込むわ」
互いに実家など顧みていなかった。パトリツィアはもちろん、タビタも彼女達が一番苦しいときに手を差し伸べてくれず、あまつさえ「その程度で済んだと感謝しろ」なんてのたもうた家に興味がない。
なんとも無情だが、こんな親も側室達の間では珍しくない。
なにせカールに見初められただけの平民ならともかく、後宮にまともな手段で娘を入れられる貴族で、なおかつまともな感性を持っている親だったら、皇帝カールに娘を差し出しはしないからだ。
田舎、と言ったタビタは思い出した。
「私、掃除ってものをしてみたかったのよね」
「本といい、掃除といい、貴女って物好きねぇ。それって侍女の仕事じゃないの。ナーディアみたいなことを言うのね」
「埃取りや雑巾がけをやってみたいのよ。それに犬を飼って散歩に行きたいわ」
「あたしはそんな汚いの御免だけど、犬は可愛いって聞くわ。落ち着いたら飼ってみたらぁ?」
「……そうね、考えてもいいのかもしれない」
真剣に頷くタビタに何を見出したのか、笑んだパトリツィアは踵を返す。
その背中に話しかけた。
「じゃあねパトリツィア。あんたとは二度と会いたくないわ」
「さようならタビタ。あたしもその辛気くさい顔を見なくていいと思うとほっとするわぁ」
心からの別れの挨拶だった。
その後タビタは勝手に後宮を出た件を咎められたものの、ライナルト側とうまく交渉し帝都を脱することができた。貴金属類は慎重に選び抜き、どさくさに紛れて持ち出したために彼女は今後も安泰だ。これとは反対に、後宮が潰されるまで残った側室達は補償金をもらったものの、贅沢に慣れた身では今後が大変なはずだ。即行動に移したタビタの判断は間違っていなかった。
パトリツィアも宮廷を出たらしいが、その後は芳しくない噂が耳をついた。メーラー宰相の娘だった彼女は後に暗殺されたのだ。理由は不明なのだが、帝都に留まり続けた彼女は誰かを告発する準備をしていたのだと聞く。後年、犯人は処刑を免れた彼女の実兄であると判明するが、その時には落ちぶれていたメーラー家は、この件で完全に解体された。
パトリツィアの死を知ったタビタが思いだしたのは、彼女の「侍女に荷造りさせている」の発言だ。言葉の意味をよく考えれば、あれは侍女の荷造りであってパトリツィアの荷ではなかったのかもしれない。
――元から家の解体が狙いだったのかしら。
先も述べたが、三妃のタビタはついぞ命を宿さなかった。
それは彼女がひそかに子を宿さないための薬を飲んでいたからに他ならない。その影響で今後も一生子を授かることはないが、彼女に後悔はない。
けれどパトリツィアは違う。父親がカールであったのはともかく、お腹に宿った子を誰よりも慈しんでいた。愛していたのだ。
二人はまるで趣味は合わないし、話も合わない。タビタにとってパトリツィアは居丈高で鼻につく女だったけど、子供が流れた時だけは見ていられなかった。そのときだけは抜け殻になった女を心から介助し、互いの立場は置いてクラリッサの手からも守り抜いた。
……復帰した後は、やっぱり助けるんじゃなかったといくらか後悔はしたけれど、それも思い出のひとつだ。
信頼のおける召使いとある街に落ち着いたタビタは家を買った。
小さな家だが、彼女にとっては諦めていた希望が詰まった家だ。適度にのんびりしながら「やりたいこと」を模索するタビタは、犬をもらった帰りにある人物を見つける。
「あ」
「タビタ様、如何なさいました?」
横顔で「あれ?」と首を傾げ、凝視したところでわかった。こんな所にいるはずのない人間が歩いている。あまり良い身なりではなかったが、それは宮廷にいた頃の話。ごく一般的な格好をした女性は清潔感にあふれていたし、苦労している風には見受けられない。
見たことない男と一緒にいる。街の住人ではないから旅のものだろうか。
二人が向こう側からやってくる。
なぜ、どうしてこんなところにいる。
表向きは自死となっているものの、皇帝カールを害した罪で処刑されたはずの四妃がいるのだ。
――ナーディア。
声にしようとして、腕の中の子犬が動いたのに気付いて止めた。
「ああ、ごめんなさいね。起きちゃったかしら」
「やはり私が抱きましょうか。犬など抱きなれていないでしょう」
「まだ軽いから大丈夫よ。それにこれから世話をするのだから、慣れてあげなきゃ」
向こうがタビタに気付いた。
間違いない、彼女は元四妃のナーディアだ。どうしてここにいるのか、皇帝の死の真相や新しい皇帝の真意などが頭を駆け巡るも、すぐに疑問は一切捨てた。
ナーディアが緊張したのは一瞬で伝わったが、タビタは話しかけない。ナーディアにも彼女の意図が伝わったのか、瞬時に驚きの類を引っ込めた。
元二妃と四妃がすれ違う。
それぞれが笑顔を向けるのはこれから慈しむ命と、旅の同行者だ。
「この子の名前は何にしようかしら。長生きできるよういい名前をつけてあげたいわ」
「もう三日はそればかりでございます。早く決めてあげてくださいましね、でないと誰かが適当な名前で呼び始めてしまいますよ」
ナーディアは死んだ。
パトリツィアも死んだ。
タビタは生きて新しい人生を目指している。
それで、いい。
それ以外は望まない。
女達の生存競争は皇帝の死と同時に終わりを迎えた。
過去と恨みはあの魔窟に、未来への希望は腕のぬくもりと一緒に持っていくのだから、タビタの先に置いてきた感情達は不要だ。
だから振り向かずに前へ歩く。
彼女達は知らない者としてすれ違い、そして二度と会わなかった。
次→雪のオルレンドルとカレン予定
5巻は12月6日発売。これから表紙や特典情報解禁されていくのでよろしくお願いします。




