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姉がいて、母であった人がいて

 育児というのはかくも体力を使うものなのか。

 乳母に任せている部分があるといえど、初の子供とあってゲルダの消耗は激しい。


「無理……」


 ぐったりと長椅子に横になり、顔からクッションに埋もれた。

 そんな彼女に手ずから飲み物を渡すのはほっそりとした中年の女性だ。


「何度も様子を見に行くからそうなります。子供が気になるのもわかるけれど、少しは乳母に任せなさいな」

「……しょうがないわ、だって気になってしまうのだもの」

「はぁ、なんのための私たちなのかしらね」

「そんなことないわ、いてくれてとても助かってる。これで一人で子育てしろなんて言われたらゾッとするわ」


 母アンナだった。

 キルステンの父と離縁し、実家に帰ったはずのアンナはいま、サブロヴァ邸の客人として娘ゲルダと孫の世話を焼いている。四人の子育てをしてきただけあって落ち着いていた。


「お母さま、まだ帰らなくても大丈夫なの?」

「戻ってもやることはないわ。孫の面倒を見させてくれるのなら、これ以上の幸せはありません」

「ん。じゃあもうしばらくお願い」


 キルステンは母アンナが父を裏切ったことで家族がバラバラになった。本来アンナは誰からも見向きされず実家に戻るはずだったが、それをゲルダが止めたのだ。

 きっかけはアンナがゲルダの浮気を咎めた(※)ことだったか。妹カレンと確執が生まれ、さらには兄と弟がオルレンドルに去って行った。頼る人の減ったゲルダの寂しさがアンナに声をかけさせたのだ。

 無論、このことを父は知っている。

 もはや妻としては共にあれなくとも、彼女がゲルダの母であるのは変わりない。ゲルダには「好きにして良い」と告げ、ゲルダとアンナの付き合いを容認した。

 ぼうっと母の手元を見つめるゲルダ。

 こうしてみる限り、いまのアンナは昔と同じ優しく穏やかな母親だ。記憶喪失後のカレンを前にしたときの冷徹さは欠片もなく、父と離縁したのも嘘のように感じてしまう。

 だからだろうか、聞いてしまっていた。


「ねえお母さま、いまでもカレンのことは嫌い?」

「嫌いではないわ」


 意外な言葉だった。

 目を見張るゲルダに、アンナは視線を本に落としたまま答える。

「彼女は可愛らしいお嬢さんよ。利発な人だし、将来はとても素敵な女性になると思う。昔……初めて会ったときからそう思ってる」


 そしてがっかりした。

 この場合の「初めて」は記憶をなくした、カレンが十四才の頃を指しているからだ。


「聞いて良いかしら」

「なに?」

「どうしてカレンに冷たく当たったの」


 だからこそ疑問が尽きない。

 記憶をなくしてからの母はいつだってカレンに優しくなかった。他人行儀のまま、ぴくりとも笑わず、末弟に触れることも嫌がるくらいに毛嫌いした。周りが注意すればするほど頑なさは増して、エミールに過保護になった。ゲルダにしてみれば柳眉を逆立てるほどに過干渉になり、それが父に離縁の決意を固めさせ、エミールの母離れを加速させた。

 誰から見ても母アンナの変わり様は顕著だった。

 だというのに、いま「可愛らしいお嬢さん」と語る表情は柔らかく、ギャップにゲルダは戸惑いを隠せない。

 アンナはふ、と息をつく。

 これもやはり時間の経過が成せる技なのだろうか。以前なら決して語りそうになかった秘密を吐き出す。


「冷たくしか当たれないの」

「は?」

「変に思うでしょう? けれどね、そうとしか言えないの。彼女を見ていると、怒りしか湧いてこないから」

「は……は?」

「話を聞く限り彼女は素敵な人なんでしょう。だけど彼女の顔を見て同じところに住んでいると思うだけで、私は意味もなく怒ってしまうの。変よね。私が彼女を生んでいた以上は愛していたはずなのに、愛せるはずなのに、どうしても憎いと思ってしまう」

「それ……お父様には……」

「言ったわ。最初の頃が一番私の状態が酷くってね、アレクシスには彼女を殺してしまうかもしれないから、はやく離してとお願いしたの。信じてはもらえないでしょうけど、将来のある子供が私に殺されるのは、可哀想だと思ったから」


 いま思えばアンナが出ていくべきだったかもしれないが、結果論だ。このときはまだ、アレクシスも、そしてアンナもすべてを諦めていなかった。

 夫婦の間では、過去の裏切りよりもいまの事態の解決を優先していた。


「アレクシスも協力してくれたわ。私の話を聞いて、理解しようとしてくれた。私も彼の言葉で母としてやり直そうと思ったの。でも彼女がいるだけで、私は我を忘れてしまうから駄目だった」


 その姿は我ながら醜かった、とアンナは自嘲の笑いを零し、ゲルダは驚いた。アレクシスと交わした約束のひとつに子供達の前で激昂する姿は見せないといった取り決めがあったのだ。裏でそんな事態になっているとは思いもよらなかった。 

 次女のために不義を過去の物とした。それはどれほどの苦悩だったか、ゲルダには想像に有り余る。


「それ……私にはよくわからないわ。怒りと言っても……」

「貴女は息子が大事?」

「もちろん。私の命よ」

「私もそう。子供達はなにより大事よ。でも彼女についてはそれが当てはまらないし、なにより私の大事な子供を奪った忌まわしい存在だと感じてる」

「忌まわしいって、カレンはお母様の……」

「実子なんでしょう。でも、私はそう感じてしまったの……と、言えるのは、カレンさんが遠くへ離れたからなんだけどね」


 どうやっても改善が見込めない。次女を見れば見るほど憎しみだけが募っていく。距離を置いて遠くから見るだけなら「素敵な人」だと思うのに、それが間近となり「自分の娘」と置き換えられた瞬間、アンナの内には、本人さえ不明な憎悪が胸に渦巻き出す。

 他人として考えれば実父と言われた庭師の家に追いやったのはひどい所業だと感じるのに、憎悪に包まれる彼女はいい気味だと嘲笑している。その嘲りという名の発散が、家を追い出されたカレンの身を助けたひとつなのかもしれなかった。

 アンナは疲れたと言う。


「私は私がわからない。カレンさんは愛せなくても私が愛する人達の言葉なら信じられるはずなのに、どんなに頑張ってもあの娘を許せなかった。まるで貴女達の誰かを奪われたみたいな心が抜けないの」

「じゃあ、お父様は……」

「もう無理だってわかったのね。アレクシスも疲れ切っていたから」

「だから黙って離縁に応じたの?」

「ええ、ちぐはぐで壊れた私がいたら、彼が壊れてしまうから。……そういう貴女は、よく私を家に招いたわね。カレンさんのこと以外にも許すはずはないと思ってたわ、周りだって止めたでしょう」

「私も考え方が変わったのよ。お父様とお母様の間でそれでいいと決めたのなら、口を出すことじゃないわ。当事者じゃない他人ならなおさらよ」

「……そう。ありがとう」


 ただ、ひとつゲルダには尋ねたいことがある。


「お母様は」

「ええ」

「カレンを愛したかった?」


 震える娘の声音に、アンナは寂しげに微笑む。

 答えは「いいえ」だ。

 こうして時が経ち、お互い別の国にいるからアンナも穏やかさを取り戻したが、彼女の中に渦巻く憎悪はいまだ胸の奥で燻っているし、カレンに関する記憶は一切ない。愛してもいないから困ってないため、持ちうる返事はひとつしかなかったが、長女の悲しげな姿に返事を内に留めたのだ。

 わざわざ悲しませる必要はない。アンナは話題を逸らした。


「貴女こそよかったの?」

「は? 何が……」

「カレンさん、オルレンドルの皇帝陛下と婚約なさったのでしょう」


 ぐ、とゲルダが押し黙る。あえて黙っていた、いや目をそらしていた話題。彼女にとって大事だった人を殺した首謀者と、それに協力した妹との婚約。けれど後者に関しては愛している妹ゆえ憎みきれず、こうして距離を置いたために、少しずつではあるが理解してあげたいと努めている。

 ただそれもまだ途中。

 傷は癒えきっておらず、手紙を読み、物を贈るのだけが精一杯。


「私は終わった話……なのだろうし、距離を置いているからまだいいの。貴女の方がもっと深刻なのではなくて?」

「……まだ、わからないわ」


 いえ、とかぶりを振った。


「兄さんや父さん、エミールからも手紙は受け取ってる。あの子があの方を好きになったのは事実なんでしょう。好きな人と一緒になるのは嬉しいけど、相手が相手だから素直には祝えない」


 クッションに顔を押し当て呻く。まだ育児があるからさほど思い悩みはしないが、時間があると鬱々としてしまう。

 そんなゲルダを不思議な表情で見つめたアンナは言った。


「それでいいのかもね」

「いいのかしら。まともにおめでとうの返事すらできそうにないのよ」

「時間でしか解決できないものだって存在する。それにお互いが歩み寄りたいと願い進む限りは、物事はちゃんと進んでいくものよ」


 たとえばアンナに巣食うものはどうしようもない。

 そんな予感がするけれど、彼女と違い娘には未来がある。


「私と違って貴女達は時間があるでしょう」


 例えば会わぬうちに遠い場所に追いやられた長兄も、オルレンドルで未来を担っていく末っ子も、もはや恨まぬ為に深く考えないようにしている人も。

 ゲルダは躊躇した。母の言いようは、まるで自分には未来がない物言いだが、実際は似たものだった。彼女はもはや裏切りの罪でキルステンを追い出された人なのだ。


「さて、と。無理をする娘に代わって、おばあちゃんが孫を見に行きましょうか」

「おばあちゃんって名乗るには、お母さまは若々しすぎるわよ」

「まあ嬉しい」


 微笑を残し部屋を去って行くアンナ。

 その後ろ姿には慈愛はあっても、かつて夫を裏切り、次女を追いやった影はない。


「なんで家族なのに上手くいかないのかしら」


 それとも家族だから難しいのか。他に比較しようにも、ゲルダの夫は亡くなってしまったからわからない。

 エミールが似た台詞を吐いていたなど知らず、疲れを取るべく目を閉じた。




※は書籍一巻。アンナがゲルダに忠告をしたと加筆


記憶喪失の理由は本編中にわずかに。残りは書籍と4巻書き下ろし他、2022年 02月01日活動報告「『山の都』『召喚システムとカレンとエル』『システィーナ』『各話タイトル』について」に記載してあります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当の娘を奪った憎き存在、がわかる召還システムのアレよ……
[良い点] 召喚システムまわりの話少し忘れてしまったけど、お母さんからもカレンの記憶は全てさっぱり消えるようシステムだったはず。 消えなかった部分のせいで親子になれなかったのは、お母さんの娘への感情が…
[良い点] 遅くなりましたが、完結おめでとうございます。治まるとこに収まった締めくくりで、未来も予想させる終わり方は、とても満足です。正直、私はカレンが好きになれませんでした。最後まで。嫌いではないん…
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