351:恋人達の戯れ
まだ目覚めは訪れない。
残されたのは後の世代の者達。
新たな登場人物は年を取ったヴェンデルだ。一目で義息子だとわかったのは、目元がエマ先生、さらには雰囲気が伯に似通っていたから。こんな大人になった姿の細部まで凝っていたから自分の想像力の豊かさに驚きだ。
彼は皇帝亡き宮廷で誰かを待っていた。
やがて門を潜るのは、オルレンドルの民ではない勢力。
雪国仕様の分厚い靴に軍服姿の屈強な男女勢。彼らを従え先頭を歩くのは、長い金髪に所々白髪が交じった男装の麗人。すらりとした長身で、老いてなお誇りと優美さは失われない。杖の代わりに長銃を持ち、肩にかけた老女は面差しがライナルトと似ていた。
いくら帝都が襤褸に成り果てたとて、彼女にとってこれは凱旋だ。
「帝都もすっかり変わり果てたな」
年を取った義息子は深々と頭を下げる。
王なき帝都。国の復興のため、数十年前に言い渡した謹慎を破棄し、王位継承権を復活させたのは他ならぬヴェンデルだ。
「お待ちしておりました。久方ぶりでございます、ヴィルヘルミナ皇女殿下」
「皇女殿下とは、これまた懐かしい響きだ。……私の中のお前は幼い子供のままで止まっている。老けたなヴェンデル」
「そういう皇女殿下は相変わらず美しいままです」
「口が回るようになった。やはり年は取りたくないものだな」
感心したように呟き、長銃を横に伸ばした。
その行動の理由は制止。彼女の背後に立つ孫達がいまにも剣を抜きそうなまでに殺気立っていたからだ。
「馬鹿者共が。ここでわめき立て品位のなさを晒してみろ、北の連中は品のない田舎者だと笑われるぞ。常日頃気高さを持って行動せよと言ったのはもう忘れたか」
「されどお祖母様を追いやっておいて、都合が悪くなれば呼び戻すなど、いくらなんでも非道ではありませんか。その者共、いますぐそっ首刎ね……」
「誰が在りもしない私の心情を語れと言った」
ヴィルヘルミナ皇女が言った途端、孫は母親から拳骨をもらう羽目になった。それでも孫の意気は衰えず、これを鑑みるにかなり厳しい教育を促していたと思われる。
「大体お前達は北国生まれ、オルレンドルの記憶など持っておらん。従って怒る権利を持つとしたら私とアルノーだけだ。そんなものを理由に剣を振るなど許さん」
「しかし……」
「そもそも過去の戦に負けたのは私だ。ゆえに、次に私の心情を曲解し騙ってみろ、この銃の腕は衰えていないと、お前の身を以て証明してやる」
こうして家族を制した彼女はヴェンデルと話を続けるが、合間に兄さんが私のお墓に行くと孫に付き添われ離脱した。
残されたヴィルヘルミナ皇女らは貧しくなった宮廷を歩きながら様々話す。
後継者なき帝都、人心の離れた政治、荒れた民草、もはやオルレンドルの命令が効力を成さなくなりつつある地方領主達。
皇女は驚かない。なぜならいまのオルレンドルの惨状は彼女が若き日、皇位継承権を奪われ北に追いやられたときからわかっていた結果だからだ。
もはやオルレンドルが滅ぶのは目前で、その崩壊ぶりは代わりに我がと手綱を握りたがる者すら現れない。誰だって沈みかけの泥船に乗りたい者はいないだろう。そのせいか、幸か不幸にも亡き皇帝の義息子たるヴェンデルが後始末をつけようとも止める者はいなかった。
彼はかつて北に追いやられた皇帝の妹を呼び戻した。オルレンドルが無茶をするにつれ、北の地で近隣を巻き込み、着々と力を付けた彼女の謹慎を解いたのだ。
「ライナルトの治世にしてはよく保った。こちらの見積もりではもっと早く荒れるはずだったよ」
「……カレンがいました。あの人は彼女の周りだけは平穏を好まれたので、グノーディアを豊かにすることに力を注がれた」
「文字通りの楔か。だとしたら、皇都の民は彼女に感謝せねばならなかったろうよ。少なくとも皇妃が生きている間だけ寿命が延びていた」
「亡くしてから気付くとはまさにこのことでしょう。正直、私も驚きました。常にカレンの側にいたせいで、陛下のもう一つの顔を忘れかけていましたから」
皇女勢に対しヴェンデルは一人だ。彼女の息子がいつでも剣を振れるよう待機しているが、そこに怯えの色はなかった。
「私を呼び戻した意味は理解しているな。帝都はすべて制するぞ」
「構いません。いえ、構うだけの勢力はどこも残されておりません。トゥーナは沈み、バーレはオルレンドルを離脱した。バッヘムも当主を失い、もはやかつての威光はありません」
「ライナルトに熱心な旧臣共は処分する。文句はあるまいな」
「どうぞご随意に」
「他人事のように言いよるわ。お前も例外ではないぞ」
「そのときは仕方ありませんが、妻子に財産は残してもらいたいものです」
「冗談くらい聞き分けろ」
「冗談が下手なのは義父とそっくりですね。お二人とも本気でやりそうですから笑えないんです」
状況にも怯えず言い放つから、その面の皮の厚さや大したものだ。
「冗談ついでに遺灰はコンラートに撒いてもらえますか。貸しがあるのですから、そのくらいはしてくださりますね」
「おい、なんの貸しだ。私には帝都の者達を恨む理由しかないぞ」
「誰を恨むというのです。あの時の私はただの子供だ。政治に関わりようもないし、大体コンラートの領民と父母達の分の貸しなのですから、たかだか数十年程度で消えるはずもありますまい。私は貴女様の良心を信じていますよ。伯母上」
「だれが伯母上だ。お前のような身内などおらんわ」
どちらも年を重ねただけあって老獪になっていた。なんとなくついて行く傍らで、枯れた桜の木が目に飛び込む。
「……ま、確かに言うとおりだ。あのときの当事者達はほとんどが全員逝ったか、去ったかだ。子供だったお前に責を負わせようとは考えておらんよ」
「それはよかった。……では、引き受けてくださいますな」
「こんな形で王冠が巡ってくるとは思いもしなかったが、いいだろう。北の民と同様、いまだ帝都の民が私の子供であるのは変わりない。このまま共死にさせるにはあまりにも憐れすぎる」
「それはよかった。やはり貴女を呼んだカレンの考えは正しかったと思えます」
「うん? どういうことだ、亡くなって相当経っているはずだが、まさか生きているのか」
「まさかまさか。カレンが生きていればこんな惨状にはなっていません」
すっかり寂しくなった庭を見渡して言った。
「自分亡き後、もし陛下の歯止めが効かなくなったとき、国を復興できるのは貴女かもしれないと言われていた。私が貴女の継承権を戻す決断をしたのも、その言葉あってのものです」
……皇位は皇女が継ぐらしい。
彼らは空いた年月を埋めるように色々話した。中でも皇女が面白がったのは毒殺未遂事件や、なにがどうしてそうなったか、私がライナルトに離婚を言い渡したら予定していた遠征が中止になった話で……よくもまあ、と思うほど様々話していくけど、夢とはいえ私の想像力って凄くない?
しかし夢とわかっていても気分は良くない。いまや民の顔は皆一様に暗く、オルレンドルは活気を失っているし、嫌だなあと想いながら色々眺めていると、やっと夢の目覚めを感じ取れた。
まず目の前にあったのはさっきまで休んでいた部屋。私は長椅子に横になっていて、クッションを抱いた姿勢そのままで眠っていた。
状況が違っていたとしたら、隣に彼が座っていたことか。
本を読んでいたライナルトは、私の覚醒を知るなり目線を下げた。
「起きたか。余程疲れていたのだろうな、ご苦労だった」
……そこにいるのは老いた皇帝ではなかった。
目元は柔らかい。眉間に深く刻まれた皺や、常誰かを警戒し射貫くだけの威圧もない。
これは夢なのだから当然だけど、ライナルトは私の知るライナルトのままだ。
あれは夢、ただの夢。
けれど心臓は馬鹿みたいに痛いし、息は苦しくて無性に泣きたい。誰が好きな人の死に様を楽しい夢だったと言えるものか。
抱きついたのは衝動的だった。
驚いて本を落としたものの、ライナルトはちゃんと受け止めてくれる。力いっぱい抱きしめても優しく背を撫でてくれる。
「……なにか嫌な夢でも見たか」
わけもわからず泣いていた。
夢程度で泣くなんてと自分でも思うが、ライナルトは馬鹿にしない。おそらく誘拐された時の傷が蘇ったのかと勘違いしたかもしれなかった。
「私はここにいるし、カレンはどこにも行かせない。あんなことは二度と起こさせないと約束する」
「うん。あのねライナルト」
「ああ」
「お願いだからどこにも行かないでね。ちゃんと帰ってきてね」
「……私が帰る場所はカレンがいるところしかない」
本当は私があなたを置いていくのが怖いから震えている。宰相から話を聞いて、これまで漠然と抱いていた恐怖が夢なんて形で具現化でもしたのだろうか。いつまで経っても不安が去ってくれず、どんなに尽くされた慰めの言葉も恐怖には抗えない。ライナルトはいつまでもしがみついて離れない私を辛抱強く抱き続けた。
そう、勘違いしてはだめ。あれは夢なのだ。いくら鮮明な実感を伴っていても、現実ではない。
「どんな夢だった」
「言いたくない」
「ならいい。抱え込みすぎないことだ」
ここで深追いしないのがライナルトがライナルトたる所以だ。
「魔法院に、宰相、それにモーリッツの相手までしたのだろう。無理をし過ぎたな」
「かも、しれません」
「まだ医師という免罪符がある。仕事量は抑えるようそちらの家令にも伝えておこう」
「……気のせいかもしれないけど、嬉しそう」
「それこそ気のせいだろう」
「嘘」
「ああ、実は嘘だ。いまはカレンが頼ってくれて嬉しいと感じている」
まあその、抱きついたのは私だけど、いまも手を離そうとしないし……となれば頼るしかない。肩に頭を寄せていた。
意地悪だけれど、こう言いながらも気遣ってくれているのも本当だ。
「――ね、ライナルト様。髪を梳いてもらえませんか。寝ている間にくしゃくしゃになっちゃったの」
「構わないが……そうだな、その様付けを取ってくれたら考えてもいい」
「じゃあお願い、ライナルト」
「了解した」
どうせ櫛を持ってるだろうし、と思って背を向けたら、案の定持っていた。リボン結びを解いて丁寧に梳き始めると、肩越しに宝飾品を渡される。
初めて見るものだ。蝶を象った繊細な細工にところどころ嵌まっているのは宝石だ。
「随分な逸品みたいですけど……」
「揃いのものが欲しいと言っていただろう。今日ひとつ仕上がったものを持ってこさせた。碧玉を嵌めさせている」
「こんなに早く出来上がったんですか?」
「宮廷から注文が入らなくなった、手隙の職人がいたのでな。いずれ方々から瑠璃や紅玉も上がってくる。気に入ったものがあれば言うといい、その者に新作を作らせよう」
振り返れば、ライナルトの上着にはやや地味目に仕上げられた飾りが身につけられている。ライナルトに蝶っていうのも不思議な感覚だが、似合っているのだから顔のいい人はお得だ。
早速約束を守ってくれたのだと思うと、恥ずかしいような心地良いような気分で、ばれないように口元を引き締めた。
この間にお茶なんかを運んできてくれた侍女さんなんかは一瞬ライナルトの姿にびっくりするのだけど、そんなに驚く光景かな。
髪を梳いてもらい、新しいお揃いで胸元を飾れるのは嬉しい。
「カレンはこうして私に髪を弄られるのが好きか?」
「ええ、大好き。こうしてくれるのは特別って気がするし、触ってもらえるのは嬉し……い、し」
恥ずかしい台詞を吐いてしまったが、慣れよう。うん。
「痛くなくて丁寧で、間違いのない髪型にしてくれて、任せたら絶対大丈夫って思える方は珍しいです」
「では、これからも弄らせてもらおうか。腕が衰えていなければいいが」
声はやんわりと優しく、喜んでもらえているのなら私も楽しかった。これを浮かれすぎと言うのかもしれない。
「一度聞いておきたかったのだが、カレンは私がこの櫛を持つに至った理由を聞きたいか」
「それ、過去は問わないと私に言った口で問うのですか」
「あくまでも私がそれでいいと言っているだけであって、私とカレンの考えは異なるものだ。押しつける気はない」
「だったら私も一緒。いりません。でも、ライナルトが話したくなったときは聞きます」
「……そうか」
「興味がないとは言わないです。だけどいまのあなたが好きですし、どんな内容だってなにも変わりません」
ある意味では歪んでしまっているライナルトの過去だもの。ひとつのものを大事に抱え込んで、気軽に語ろうとしないのなら決して気持ちの良い話ではないはずだ。
髪を梳き終わると彼は言った。
「貴方が将来の伴侶でよかったと、心底そう思っている」
それは多分、私にとって過日の求愛と同等か、それ以上に嬉しい言葉だ。
「カレンを得ることができたのは、帝位と並ぶほどの成果だったのかもしれん」
「なんですか、人をものみたいに」
「苦労しただけの甲斐があったのだとな。なにせ逃げられてはと心から焦ったのは、後にも先にもカレンだけだ」
「……わかりませんよ。これからのライナルト次第でもっと大変なことがあるかもしれません」
「そうだとしても逃がしはせん。離さないと決めている」
「あら怖い。でもまず問題は起こさないと、そちらの方を約束してください。あとね、感慨深くなってらっしゃるけど、私にだって、あなたが振り向いてくれたのは奇跡みたいなものです」
「奇跡などと曖昧な結果ではなかろうよ。ひとえにカレンが私を好いていたからこそのいまだ」
「合ってるけど、ちょっとは言われた方の気持ちを考えてくださいませんか!」
「愛している事実を隠す方がおかしいだろうに」
これもじゃれ合い……とでも言うのだろうか。私は恥ずかしかったり怒ったりと冷や冷やさせられっぱなしで、もう少し言葉は選んでもらいたいのだけど、彼の穏やかな表情には文句が言いにくい。
一緒にいる時間はただただ愛おしい。
視線が交差し、自然に微笑み合うと乱入者は現れた。




