350:それはただの終わりの夢
ご老体は私をみるなりほっとした様子で息を吐いた。
「イェルハルド様、宰相閣下が気になってお越しに?」
「貴女がどういう決断をするか気になってな。どういった結末になるにせよ、見ておかねばなるまいて」
「……ご覧の通りです。モーリッツさんを呼ぶまでには至りませんでした」
「すまない。苦労をかけたようだ」
「イェルハルド様はご存知だったのですか」
「後見人の話をされたときに話を聞かされてな。なんと馬鹿なことをしたのかと叱ったものだ」
よかった。イェルハルド老まではじめから知ってたと言われたら落ち込むところだった。
イェルハルド老はこのまま宰相に会っていくつもりらしいが、その前に後見人のお礼を言うと、わけもないと朗らかに笑ってくれた。
「でもイェルハルド様はともかく、ベルトランド様が了承してくれるとは意外でした。私が思うにあの方は自由を好まれます、渋られませんでしたか?」
「うむ。……そこまで見抜かれているなら言ってしまうが、多少はな」
「あら、やっぱり」
「だがロビンと二人で説得させてもらった。いつまでも面倒くさがっていてもなにもならんとな」
それだけで説得されたとは思えないけど、きっと他にも言葉を尽くしてくれたのではないだろうか。最後に、イェルハルド老からは驚きの提案がもたらされた。
なんとイェルハルド老のお気に入りである桜の木を、いずれ私に譲渡したいと言われたのだ。それも世話になれている庭師と一緒にだ。
「嬉しい申し出ですけど、イェルハルド様のお気に入りですよね」
「祝いの気持ち、みたいなものだ。どうもベルトランドやロビンはそちら方面に疎くてな、どうせ差し上げるなら長く大事にしてくれる者に譲りたかったのだ。同士としてエミール坊やも考えていたが、いまお譲りするなら貴女だろう」
「庭師の方はなんといっているのです」
「むしろ最近はうちは騒がしくて落ち着けんと言いだしていてな。落ち着ける先を探していたくらいだ」
庭師は以前バーレ家で会った屈強なおばあさんだ。まだまだ現役で庭師としても経験が深い。うちはベン老人が亡くなってヒルさんが毎日苦労しながら試行錯誤しているし、桜が間近になるのは嬉しかった。都合が悪くなければ願ったり叶ったりだ。
「それにあのババアがいた方がベルトランドを御しやすくなるだろう。上手く活用してくれ」
「はい?」
「ではな。婚約おめでとう、どうか陛下を支えてあげておくれ」
などと意味深に笑うではないか。まさかイェルハルド老から「ババア」なる言葉が出るとは思わず呆然としているとご老体は宰相に会いに行ってしまった。
……庭師のおばあさん、何者?
「終わったかね」
「あ、はい」
律儀にも待っていてくれたモーリッツさんだが「来い」と言わんばかりに歩き出したので付いていく。この代わり映えしない態度にほっとしてしまうのは、たった数日で環境が大きく変わってしまったせいだろう。そういう意味ではイェルハルド老も変わらなくて安堵している。
「どこに向かってるんですか。陛下に謁見……ではないですよね」
「休息室だ。陛下より事が済んだら待っていてもらいたいと伝言を預かった」
「モーリッツさんモーリッツさん、額に血管が浮いてます。伝令が嫌なら嫌って言えば良かったのに、なんで引き受けちゃったんですか」
「用事があったからだ、他に何がある」
「後見人の件をまだお怒りなんでしょうか。ありがとうございました」
「合っているが好きで引き受けたのではない、我が君に請われ仕方なくだ。良いかね、バッヘムは好んで君を支援するわけではないと肝に銘じておきたまえ。失態を犯しても庇い立てはしない。私は他家やニーカほど甘くはない」
「気をつけます。それとバッヘムの当主就任おめでとうございます」
「当然の結果だ」
帝国の金庫番であり有数の富豪であるバッヘム家。彼の家は親族内でも様々派閥があるが、その中でもモーリッツさんはさほど有望視されていなかった人だ。私からすれば信じられない話だけど、ライナルト付きになっていたのがその証拠らしい。昔、念のため皇帝の実子にバッヘム家の者を付けただけで、ライナルトが皇帝になるほど上り詰めるとは誰も考えていなかったのだ。
けれど彼らの考えはライナルトが皇帝になることで覆った。新皇帝の側近として信頼され、宰相の地位すら確実と言われているモーリッツさんはバッヘム家の手綱を握った。
「ところでシスとルカの姿が見えませんが、モーリッツさんご存知ありませんか。そこで待ってると言われたのですが、姿が見えないんです」
「サゥより賜った大猫を見に行った」
「なるほどー。じっとしてるわけないと思ったらやっぱりですね」
どうりでジェフしか残っていないはずだ。その彼はほぼ空気と化して私たちの後ろを歩いている。
「夫人」
「はい」
「我が君の隣は壊れることすら許されんぞ」
これがモーリッツさんの本題だ。
誘拐、宰相の件は本題にもならない。なにも言ってこないのは、おそらく私の決断を悟ったからで、いちいち尋ねる必要はないと考えているからだ。
そっけないまま歩調を合わせてくれず、目も合わせず、顔すらも向かないが、言葉には忠告がある。
覚悟の上です、と頷くには嘘っぽくなる気がしてやめた。
「きっと辛いことがたくさんあるんでしょうね」
「その程度の認識ならばいますぐ辞退したまえ。トゥーナが君に期待したのは歯止めの役目があればこそ、生半可な覚悟で挑まれては迷惑だ」
「たしか宰相閣下も似たようなものでしたね。……あら、でしたらモーリッツさんは私にどの役目を期待されてるんですか」
返事はない。答えは期待してなかったからおかまいなしに続けた。
「でも、ライナルトの隣に並ぶならそれしかないんでしょう。最悪の事態になる前には手を差し伸べてくれるでしょうし、いつだってそうでした。そこだけは信頼してます」
「我が君を呼び捨てとは、早くも図に乗っているようだ」
「本人が希望しましたので頑張ってます。実はモーリッツさんの前で呼び捨てにするのが楽しみでした」
「不愉快だ」
「知ってます。慣れてください。あと今度一緒にお茶してください」
「断る」
うーんそっけない。
でも裏表がないし、ある意味とても分かりやすい人だから落ち着くのだと思う。
下手をすればライナルトと同じくらい話すのが楽しみだったのだけど、それを言ったら、虫けらを見下ろす目で見てきたのだからあんまりだ。
モーリッツさんが厭々私の相手をしているのは傍目にも明らかだが、最後まで私を送り届ける役目はこなしてくれた。もちろんその間に様々お小言はもらったが、どれも嫌がらせにはほど遠く、別れ際にこう言われた。
「最悪の事態を招かぬよう努めるのが我らの仕事だ。危険に晒したのは詫びるが、決断した以上は自覚を持って働きたまえ」
皇妃の役目を「働け」と堂々と言ってのけるのもこの人くらいだろう。
通されたのは窓が大きく明るい部屋だった。雰囲気や造りは宮廷に滞在していた頃に似通っていて、既に給仕や侍女まで待機している。
ライナルトが来るまでは時間が掛かると言われてしまった。シスやルカが興味を持った大猫にも興味はあったが、人払いした上でクッションを抱き横になる。朝から色々な人に会いすぎて頭がお疲れ気味だったのだ。
ちょっとひと眠り、のつもりで目を閉じたら簡単に睡魔がやってきて呑み込まれたが、今日は変な話をしたからだろう。
不愉快な夢を見た。
なんと私が死ぬ夢だ。
驚いたのは私が彼を置いていく側だったから。
いつもいつも追いかけるばかりで、早死にするのは彼の方だと思っていたから、自分が先に逝くなんて思いもよらなかったせいだ。
それがいつなのかはわからない。
見た目はまだまだ若そうだが、いまよりも年月を経た落ち着きが備わっている。昼間なのに寝台に横たわっていて、布団の端を陽の光に照らされながら、穏やかに隣の人に話しかけていた。
手を取っていたのはライナルトだ。こちらはわかりやすく年を取っていて、私とは対照的に真剣な眼差しだ。寝台の私は苦笑しているが、端から自分を見る機会はないから変な感じがしていた。
私たちはなにを話していたのだろう。
状況は不明でも、多分私が病気だったのはわかる。
しばらく経って、私は息を引き取った。
うん、まだそれだけならよかった。ただの不愉快な夢として終わらせられた。
気に食わなかったのは、見たくなかったのはその後。
ライナルトは私が死んでも止まらなかった。そのこと自体はさして驚かないけど、粛々と葬儀を済ませても彼は休まない。
前を向いて、かねてから決めていたとおり、ただただ夢という名の野望のためにひた走る。
オルレンドルは戦が止まらなくなった。
どうやらこの夢の中でのオルレンドルは戦があっても合間合間に休みがあって、農産物の種まきや収穫期は戦が避けられていた。戦傷病者及び戦没者遺族には手厚い保障があったのに、それが段々と削られ、貯蔵を食い尽くす勢いで他国への侵攻が始まり、絶え間ない戦争には熱に浮かれていた国民も段々と疲れはじめた。心ある臣下は民を代表して忠告せども、代わりに受けたのは反逆者としての汚名。始まったのは思想や教義の統一で、ある種の恐怖政治が始まった。
オルレンドルは血を流し、土地を奪い、侵略者として名を馳せ出す。
もはや繁栄の都市の名は消え失せた。
生き急ぐような走り方だ。段々と荒れて貧しくなる国の変わりように嘆いた誰かが問うた。
「どうしてそんなに生き急がれる」と。
彼は答えた。
「我が庇は潰えた、ならばこの身を休ませる場所はもうないのだ」と。
故に残るは前に進むことのみ。
大陸を手に入れるため馬を駆け、数多の首をはね、臓物を散らした。誰かは彼を「狂王」と言った。もはや昔馴染みの声も届かず、けれど孤独にあっても彼は揺るがない。彼にはそれ以外の生き方がないから、本来はこれがあるべき姿だったから戻っただけ。余所に目を向ける必要がなくなって、なにもかもを踏み台にして夢を追った。
そうして数十年が過ぎて、国はすっかり疲弊した。皇帝の額にも相当の皺が刻まれた頃、大陸統一を目前にして野望は果てた。
勝てる見込みの戦だったのに、味方に裏切られ斃れた。
ライナルトは刺客を斬り払い、傷口を押さえながら馬に寄りかかる。
夕暮れの朱が眩しい。
大勢の人に囲まれているのに、ひとりきりの皇帝は、下半身を濡らしていく鮮血を前に、ただ一点に地平を、空を、自らの手にべったりと張りついた血を見つめ、やがて静かに目を閉じる。
私がひどい、と感じたのは、とうとう最後まで誰の名も呼んでくれなかったことだろうか。とうとう最後に彼に寄り添える人がいなかった事実に打ちのめされそうになっている。
これが彼の夢の果て、なんて。
そんな、ひどく泣きたくなる終わりを見た。




