344:婚約者候補、協力者、共犯者、そして
「こ、こんなの、いつ……」
「リリーとリヒャルトは翌日中に。ベルトランドは前ご当主が乗り気だったのでな、翌日には良い返事をもらえた。むしろあのご老体は殊更喜んでおいでだった」
「反対意見はなかったのですか。そうだ、モーリッツさんは……」
「三日はかかったが、署名がある。思えばあいつが一番手こずったかもしれん」
モーリッツさん、モーリッツさん……!
たぶんあの人の懸念は私と一緒だったのだろうが、それでも私の知るモーリッツさんなら私とは違う観点で不安材料を抱えていたのではないかと予測できる。その壁が陥落してしまったのなら、いよいよ退路が塞がれてしまった。
「サゥの……シュアン様はどうなさるのですか。彼女はすでに受け入れてしまった、キエム様がどう思われるのか、お考えには?」
「問題ない。彼女は我が国に滞在したいと本人の強い希望だ。こちらもサゥの姫君が国に滞在するのはそれなりの利があるため受け入れる方針で纏まった」
「……それ、なにか取引が働いてません?」
……あ、いまの笑み、絶対何かあった。
「キエム様の目的には添わないでしょうに、大丈夫なのですか」
「代わりにキヨをやる」
ここで意外な人物の名が出てくるが、ライナルトは申し添える。
「間違っても貴方の身代わりだとは思ってくれるな。あれは一時的であれクラリッサの養女であり、今後については私に委ねる約束だった。サゥかラトリアか、余所にくれてやるのは決めていた」
「……ご本人はなんと言ってますか?」
「折良くオルレンドルから去りたいと要望を出している。強制はしていない、気になるなら後日会って直接話を聞いてもよかろう」
「そこまでおっしゃるなら疑いはしません。……そうですか、彼女、オルレンドルを去りたいと言ったのですね」
オルレンドルから去りたい、か。慕っていた皇太后を喪い、真実を突きつけられた彼女が国外退去を望んだ気持ちはわかる気がする。
「さて、少なくともこれで、貴方が懸念していた身分や周囲の反対といった意味では解決したな」
「解決っていうか力業というか……」
「決着はついたろう。まだ言い足りないならすべて解決する用意があるが、少なくとも体面や他人の評価は私を止めるには無意味だ。私を説得し得るとなれば貴女自身の問題でしかない」
じっと見つめられるから身の置き場がない。
こうなってしまってはあれこれ言っても彼には無意味で、私は逃げ場を失った。この調子では話を誤魔化せそうにもないし、ライナルトも私が何かを抱えていると気付いていた旨の発言をしたのだ。
「……話すならいまだと? 何故そうお思いになったのですか」
「言葉にしていたもの以外に何かを気にかけていたからな、さらにはこうして問題が解決したいまでさえ顔色が優れない。これは何かあると考えて然るべきだろう」
……やっぱり、言わなきゃ駄目かなぁ。
でもね、きっと本気で負けるかなあと、認めなきゃいけない日を先延ばしにしている自覚はあった。それでも足掻いてたのは言いたくなかったからだ。
私の右手にライナルトの手が重ねられたが、いまとなっては払いのける勇気が残っていない。
潮時だ。
「ほんと、あなたはひどい人です」
「知っている」
「こうしてまで私の拘りを解消してくれようとしたのは、嬉しい。皇妃をやることに心配はあるけど、側室に嫉妬しなくて良いと思うと、心底ほっとしてます」
「ではなにが引っかかっている」
「私に秘密があります。誰にも言っていない秘密が」
もはやこの事実を知るのはシスとルカ。そしてどこか遠くにいる『山の都』のひとりのみ。
私が転生している「向こう側」の人、ライナルトが嫌悪する神秘の体現者である事実をずっと黙っていた。もし声にしたらライナルトがどんな嫌悪を示すかわからない。もしかしたら、と一縷の希望を抱いてはいるけれど、それでもやはり明かしたくない。
「話せることか?」
「……話したいことではありません」
何故か?
言いたくない理由は単純。私はこの「転生」システムを知っている人を私たちで終わりにしたい。ライナルトなら口外しない、利用しない。まだ転移者のキヨ嬢だって残っている。そんなの誰よりも私が一番知っているけど、そんな信頼関係で成せるものではなかった。理屈じゃない、これまでの過程を経た私が抱く願いで、だからこそキヨ嬢にも明かさなかった。同じ世界の出身だと言えば心を掴むのも容易だったのに声にしなかった。
いまを生き、そして消えつつある記憶を掘り起こす必要はない。あれはもはや遠くなってしまった夢のような生と幻、私の糧になった過去として消化されたらそれでいい。
でも言わないと、と思う。
ライナルトは私を愛していると言ってくれている。それに応えるだけのものを明かさないといけない。そう思うと息が苦しい。
だがそんな中で、彼は言った。
「質問だが、その余程の秘密というのは、時折貴方が遠くを見ていることと関係はあるか」
質問の意図を掴みかねた。
遠くを見ていたっけ、と首を傾げていたら、「いや」と頭を振る。
「覚えがないのなら構わない。次に尋ねるが、それは貴方への愛情が尽きるに足るほどのものか」
「それは……わかりません。でも、その可能性はあると思います」
「では窃盗や殺人、或いは人に恨まれる問題を抱えているか」
「いいえ。それだけは、誓ってありません」
「私を裏切る問題を秘めているか?」
「絶対にありません」
「いまと未来を生きるのにおいて邪魔になるものか」
「いいえ、いいえ。邪魔になどなったことは一度もない、なるはずもない」
「では心からそれを明かしたいと思っているか」
変わらずなにを言いたいのかがわからない。しかし茶化してくるわけもなく、私も真剣に考えた。
時間をかけて出した返答は「いいえ」だ。
「ならば必ずしも私に明かす必要はないのではないか?」
と、なんとも奇妙なことを言うではないか。ぽかんと口を開く私に、彼は続ける。
「で、ですけど、私を皇妃に望まれましたよね?」
「望んだとも。いまもその気持ちに変わりはなく、どのような秘密であっても貴方を愛し続ける自信はある。手放すつもりもないが、喋らずとも今後に差し支えないのなら、私はそれで構わない」
「でも、一緒になるのにそれは……」
「夫婦とやらは必ず秘密を明かさねばならないのか?」
純粋な目で問われ、私も驚いて返す言葉がでなかった。
ライナルトは語る。彼もまた明かしたくない過去の一つや二つあるのだと。
「カレンが話したくなったのならいつでも聞く用意はある、貴方の気持ちの問題として言いたくなったら話せば良い。そのときはまた私も改めて向き合おう」
「いいんですか。それは、夫婦の形として……」
「カレンの語る夫婦とやらはどの夫婦を指している。それが貴方の理想か?」
これまた返答しにくい質問だった。
手を握る力はいつでも逃げていいと言わんばかりに優しい。
「私が求めるのは私たちのみの関係であり、他人の作り上げた常識や選択ではない。それが私を拒む理由であれば、永久に口にせずとも構わない。私は貴方が秘密を持っていると、そのことだけを知っていれば良い」
彼の言葉は依存性があった。
望まれたからには秘密を明かさねばならない、そんな考えをあっさりと覆す。それでいいと言ってくれる。
「私が望むのはいまの貴方だ、カレン」
なにより欲しい言葉を投げてくれる。
「いいんですか。私、たぶんずっと明かさないですよ」
「何度でも言おう。この手の内に留まるのであればそれでいい」
……弱い力で指を握り返していた。
「私は、一人では戦えません。あなたが思ってるよりもずっと弱い。毅然と立ち上がり、立ち向かうことが難しいことがあります」
「私がいる」
「…………無様を晒しますよ」
「いつかの私の言葉だったか」
そうだ。コンラートが崩壊したときに言われた言葉はいまでも覚えているし、ずっと根底にある。恨みがましく顔を上げる私に、ライナルトは苦笑する。
「たしかに些末事ひとつに囚われ、泣く貴方は私にとって理解し難い存在だ」
「……でしょう、ね」
「だがな、私は私にないものを見て、驚き、嘆き、時に笑う貴方に興味を持った。その形こそを初めて愛おしんだのだ。故にこの先を支えたいと思う。この先、失敗したとしたら、それは貴方を支えきれない私にも咎があろう」
「……まだありますよ。私はあなたが相手にしてきた女性より、ずっとずっと嫉妬深いです。何故そんなことをって思うくらい、くだらないことに拘るでしょう、文句だって言います。はっきり言って面倒くさい女です」
「案ずるな。私も貴方に対しては面倒な男になる」
手は離さないけど机に突っ伏したら、手遊びの要領で弄ばれる。穏やかな声が降りかかった。
「いつか私に野兎の煮込みを作ってくれると約束したな」
「しました。しましたけどぉ」
「次に寝込んだら看病をするとも言った。あれも嘘か」
「嘘にはしたくないですよ。ねえ、もう一つ教えて」
「うん?」
「どうして私だったんですか。私はあなたの心を惹きつけられるはずもなかった、なんでもない他人だったのに」
「……離れぬはずと思っていたものを、誰にも渡したくなくなった。我が身を休めることができるのは貴方という庇のもとだけだ」
「それ、私がいなくなったら無茶するってことですか」
「貴方と在るときを除き、私のすべては大陸を両手に掴み取るためにある」
「まわりを見ないと敵を増やしますよ」
「他人を顧みることができぬのは私の性だ。だが貴方がここにいるのであれば、私は民を思う王らしく振る舞ってみせよう」
「馬鹿」
「だがその馬鹿をカレンは愛したな」
我ながら呆れるくらい時間をかけて顔を上げた。こんな時くらい微笑んであげたらよかったのに、少し悔しさを覚えていたのと、いいように心を乱されて唇を噛んでいる。
……人生の分岐路で嬉しいより悔し涙が勝るってどういうことなの。
「…………まことに遺憾ながら、誰よりも愛しております」
促され立ち上がった。東屋の前、私の手を取り跪くライナルトは、しっかりとこちらを見上げていった。
「私、オルレンドル帝国皇帝ライナルト・ノア・バルデラスはカレン・キルステン・コンラートに婚姻を申し込む。受けてもらえるな?」
「決して置いていかないと誓ってくださるなら」
「誓おう。奈落の果てへも連れて行く」
「お受けします」
素っ気なくなったのは高まる気持ちを処理しきれなかったせいだ。
ライナルトに抱き留められると胸に顔を埋める。
ここからが、私たちの新しい関係の始まりだ。




