父とエミール/レオとヴィリ(SS二本)
長兄と住んでいた時だってここまで騒がしくなかったのに、家の中はかつてないほどに荒れている。
頭痛を堪える面持ちの父が椅子に腰掛けていた。必要ないのに召使いが事細かに伝えにくるのだが、どうやらいま、エミールの姉は図書室に逃げ込んだらしい。
キルステンは大貴族とまでは言わないが、それでも召使いの教育は行き届いている。その家令や老齢の侍女があからさまに狼狽え、父に指示を仰ぐしかない状況だ。
「だ、旦那様。私どもはどうしたら……」
「放っておきなさい。いや、放っておくというのはよくないな。陛下のなされることだ、我々はなにもせず、必要なことがあれば手を貸して差し上げるように」
「しかしお嬢様が……」
「…………可哀想だがいずれ話し合わねばならないのは、本人もわかっていることだ。ああ、ただ逃げる邪魔はしないように、距離を取って誰も怪我をせぬよう注意を払いなさい」
娘を取るか皇帝陛下を阻止するか。板挟みになっているのはエミールとて容易に想像できる。少年にできるのは父のために傍にいることだけだ。
実を言えば姉と、姉を見るなり追いかけていった皇帝陛下の攻防が大変気になっているが、お邪魔虫にはなりたくないエミールである。
父が呟いたのを耳にした。
「次女もか……」
「次女もですね」
頭痛の理由はわからないでもない。
長女ゲルダはファルクラム国王に側室として嫁いだ。
長兄アルノーはいまでこそ北の地だが、追放された元皇女と添い遂げようとしている真っ最中だ。
今度は次女が、エミールにとっては姉のカレンが、よりによってグレードを上げてきた。なんとオルレンドル皇帝陛下にその身を望まれたのだ。
巷ではただでさえ「子育てに成功した」と囁かれている父、本人はそんなつもりで子供達を育てたつもりがないのは、息子であるエミールが誰よりも知っている。
「安心してください。僕……私は普通のお嫁さんを捕まえます」
「……うん、好きになった人なら別に、父さんは、な。いいから気にせずにいなさい」
なんの慰めにもならなかった励ましはさておいて、父はいまだにショックが抜けきらない。この時は珍しく呆然とした様子で、当主としての側面は彼方へ追いやっていた。
「陛下と親しいとは思っていたが……まさか……」
「父さんはこちらに来て短いですから見る機会が少なかったですが、姉さん、陛下といるときは雰囲気が違うんです。陛下もいつもより優しくなる感じがあったから、時間の問題だった気がします」
「エミール」
「どうされましたか。近衛の方々が気になるのでしたら、代わりに行ってきます」
「いや、それはいまから私が向かおう。ただ……すまない。父さんはね、その話はちょっと聞きたくないみたいだ」
寂しげに遠い目をする。皇帝陛下を嫌がっているのではなく、単に娘を奪われる男親の反応だろう。
「寂しがるのに止めないんですね。姉さん、いまも走って逃げ回ってるっていうのに」
「では聞くが、お前は本当にカレンが陛下を嫌っていると思うかね」
この質問に、エミールは首を横に振る。
少年なりに姉のことは見てきたつもりだったから自信をもって断言できる。
「姉さんは怒っていましたし、陛下を見るなり逃げましたけど、本気で嫌いな人にはもっと無関心を貫く人です」
「……私も同意見だ。カレンが陛下を好いていることくらいはわかるつもりだよ」
「父さん……。自分で言っておいて落ち込まないでください」
「落ち込んではいない。……ただ覚悟は必要だから、それだけだ」
「これから色々ありそうですしね」
「澄ました顔をしているが、次期当主のお前も他人事では済まされないぞ」
「ゲルダ姉さんの時と一緒ですよ。慣れてます」
仲良くなかったクラスメイトや、知らない大人がエミールに媚びてくるくらいは体験済みだ。だから安心させるつもりで言ってみたのだが、なぜ父が悲しそうな顔をするのか、エミールにはいまひとつわからない。
「父さん、こちらを気にするなら近衛の方と話してきた方がいいです。姉さん混乱してますし、あの様子だと陛下に物を投げるくらいやらかしそうです」
「うっ。そ、そうだな、なにも出迎えないのは問題だからな。先に謝罪しておかねばなるまい」
「でもきっと向こうもそれどころじゃなさそうですけどね。派手な喧嘩をしそうです」
「やめなさい」
胃の付近を押さえながら出ていく父を見送ると、相棒の名を呼んだ。
尻尾を振って長椅子に登り、膝の上に乗る甘えん坊を撫でながらエミールは呟く。
「父さん、さりげなく自分を除外してたよな」
「ばう」と鳴く相棒。父は何も言わないが、トゥーナ公に猛烈なアタックをされているのを息子は知っている。なぜなら「偶然」の出会いで彼女と話したことがあるからだ。彼女は遠縁だが、一応オルレンドル皇族と縁続きである。
「まあいっか。ニーカさんにはまた改めて挨拶しようなー」
自分だけは平穏でいよう。
ささやかな誓いを立てたところに、突如飛び込んできたのは家令だ。
「坊ちゃま、旦那様が!」
びっくりした少年に家令は続ける。
「いまにも倒れそうにございます。どうか旦那様を支えてあげてくださいませ!」
たったいま出て行ったばかりではないか。わずかな合間に何があったのか、疑問を覚えるも、答えはすぐに判明した。
「へ……陛下がお嬢様の部屋の扉を蹴破ったと聞き、いまなお言い争いの声が聞こえると知るや、みるみるうちにお顔から血の気が失せられ……」
「…………あー」
たしかに父には荷が重そうだ。
よいしょ、と立ち上がるエミールに、まるで救世主が現れたが如く家令は付き従う。
「父さんは心配性だな。両思いなのはわかってるんだから、そんな焦らなくていいのに」
「お言葉ですが、心配性などといった言葉で済む問題ではございません。我が家にとっては一大事に御座いますれば、旦那様の心労はいかばかりか……」
「うんうん。わかるわかる。でも例えば姉さんが陛下を振ったところで、うちに影響はないよ。陛下は怖い人だけど、ちゃんと見てたらそういう人だって伝わる」
「坊ちゃま!」
「ほんとのことなんだけどな」
そこにはかつて弱々しかった末弟はおらず、代わりに次期当主として覚悟を備えた姿がある。
一度は当主を失ったキルステンだが、次の当主は必ずや家を盛り立てるだろう。
そんな予感を与えさせる佇まいだった。
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レオは仰向けで転がっている。
ヴィリはお気に入りの昆虫標本を眺めていた。
母が助かり安堵しているはずなのに、どちらも浮かない顔だ。なぜなら大人達が秘密にしていた話を兄弟は知ってしまったからだ。
「おじさん、元気なかったな」
「うん」
「あの人、母さん守ろうとしたんだってな」
「うん」
それは葬式での出来事。兄弟は母に連れられていった葬式で、母にこう言われた。
「この人にお礼を言って」と。
この人にお母さんは助けてもらった。彼女がいなかったらお家に帰ってこられなかった。生きる勇気をもらったんだよ、と言った。
二人はお礼と花を添えたが、しかしどうして母が助けてもらって、棺桶の中にいる「あの人」が死んだのかがわからない。だって兄弟の知る「チェルシー」は病気で子供になってしまった人だったのだ。気になったレオがこっそり大人達の話を聞きに行き、そこで真実を耳にした。
そして話したのだ。「兜のおじさん」と。
「怒ってなかったな」
「うん」
レオの言葉に、ヴィリは相づちをうつだけだ。
黙り込む二人の兄弟。やがてヴィリがぽつりと言った。
「頭、撫でてくれた」
「なんて言ってた?」
「気にしなくていいって」
レオはぼんやりと「兜のおじさん」を思い出す。
「泣いてる感じなかったよな」
「悲しそうだったのにね」
「……あれかな。父さんのときと一緒かな」
「悲しくて泣けない?」
「たぶん」
また会話が途切れた。どのくらいそうしていたのか、やがてレオが「よし」と呟くと身を起こし、出かける支度をはじめる。
「どこ行くの。母さんに怒られるよ」
母が療養中だから二人も学校を休んでいる。母は兄弟へ学校に行くよう言いきかせたが、かつて父を失い、また母をも失いかけた兄弟にとって、いまは学校よりも母と共に過ごす時間の方が大事だった。
そのことを母も知っているから、子供達に強く言えない。だから休む代わりに勉強をちゃんとすると約束したのだが……。
「ちょっとコンラートに行ってくるわ。お前は勉強してろ、誤魔化しよろしく」
「え、それなら一緒に行くよ」
「勉強どうするんだよ。二人も抜け出したら流石にばれるぞ」
「窓からこっそり行けばいいよ。僕だって気になってたし、ひとりだけずるい」
こうして兄弟は窓から抜け出した。
妹を亡くした「おじさん」を連れ帰る少し前の話である。




