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閑話:ただ自分らしくあるだけで/前


 ミハエルが「その人」を助けたのは偶然だ。なんのことはない、出かけた先で偶然、心臓を抑えて苦しそうに悶える男性を助けた。

 どうして助けたのか、と問われたら答えは簡単だった。大変そうな人がいたら見て見ぬ振りはできないし、無視して通り過ぎるのは後になって気に病む。良心の呵責に苛まれるくらいなら、はじめっから助けた方が早い。

 この人助けは友人に盛大に叱られた。なぜならこのせいで出勤が大幅に遅れてしまい、雇い主に叱られた話をしてしまったからだ。


「お前はそんなだから金をむしり取られ続けるんだ。いい加減あの連中から愛されようなんて思うな」


 親しい友人はミハエルに呆れるが、それでも友人付き合いを続けてくれるひとりだった。確かに成人にもなってすら稼ぎは全部両親に持って行かれる。自分の小遣いはないも同然だが、ミハエルの稼ぎが家族を支えているも同然だ。自分がいなくなったら、両親がどうなってしまうかわからない。

 そう言ったら友人は怒り悲しみながら言う。


「……その両親がお前のこと可愛がってくれたことあるか?」

 

 ミハエルは幼い頃から両親に目をかけてもらえたことがない。友人が総出で先生や両親を説得してくれなかったら、学校を卒業できたかもわからない。その卒業のお金だって、恩師や友人達が工面してくれたもので、いまも彼らにわずかながら返済中だ。

 痛い所を突かれるたびに口ごもってしまうミハエルに、友人は痛ましげに目を閉じる。


「お前なりの事情があるのはわかってる。けどさ、それってお前が悪いわけじゃないだろ」

「でもほら、いつかは……」

「本当にそう思ってるなら、いまの職場もやめろよ。よりによって金貸しの下っ端なんてお前には合わないよ。もっといい働き口があるだろ」

「いやぁ、でもあそこは給料が良いから……下手をしなければ怒られないし、ちょっとくらい時間の融通は利くし」

「出勤が遅れて怒られたのはなんなんだ」

「それはほら、その日は朝からお客さんが来る日だったから、雑用とか色々あってさ」


 実際言うほど悪い職場ではない。あまり良くない区画に事務所を備えた金貸しで評判は悪く、一日に十回は怒号が響く職場でも、一緒に働く人たちはそこまで悪い人じゃない。顔はいかつく怖いし「親を絞めてやろうか」と真顔で言ってはくる。気が荒い人たちだが、たまにご飯を奢ってくれるし、ミハエルが人に騙されかけるときは止め、叱ってくれる。

 それにこれは友人には言えないが、職場はとあるパン屋に金を貸していて、その利息代わりに売れ残りをたくさんもらえるのだ。このパンがいまのミハエルの生命線で、痩せ細っていた青年をふくふくしい姿に変えてくれた。家族には隠し金があるんじゃないかと疑われたが、もちろんそんな嘘はついていない。

 ……殴られたのはちょっと痛かったが、それも最初だけだったのだから。


「……まあ、何かあったら言えよ」

「うん、ありがとう。君こそ僕ばっかり気にしてないで、お嫁さんを大事にしてあげなよ。もうお腹も大きくなり始めたんだろ」

「馬鹿、その嫁さんがお前に気を配ってやれって尻を蹴っ飛ばしてきたんだよ。いいか、困ったら家に来いよ!」

「ははは、大丈夫だよ。君の家に迷惑はかけられない」


 笑顔で友人と別れたミハエルだったが、帰路を辿るにつれて表情が暗くなっていく。なぜなら今朝は両親と妹の機嫌が悪かった。殴られる前に家を出たから、経験則から帰ったら殴られるのは目に見えている。

 一時的に耐えれば済む話でも、痛いものは痛かったし、出来れば避けたい。残業があれば喜んで残ったが、今日はそれもなかった。


「迷惑はかけられないもんな……」

 

 友人の誘いは涙が出るほど嬉しかったが、奥さんがいる以上できない相談だ。何故ならミハエルは一度彼らが結婚する前に助けてもらっている。ガリガリに痩せていたミハエルを心配した友人がお風呂に入れ、めいっぱい食べさせてくれたが、両親や妹が押しかけて友人を罵倒し手をあげた。植木鉢を壊し、近所中騒いでいった。ミハエルにできたのは謝り倒すことだけで、それ以来親切な人たちを頼ってはいけないと思っている。なによりも妊娠中の奥さんになにかあっては、ミハエルは謝っても謝りきれない。

 すべてはミハエルが愚鈍なせいなのだろうか。

 とぼとぼと家に戻ったが、今日ばかりは目を見張る羽目になった。


「なんだ、あれ」


 家の前に馬車がいた。こんな平民区画……でも割合貧しい人たちが住まうところではひどく場違いな馬車だ。

 玄関で家族が誰かを待っている。その『誰か』が自分だと気付いたのは、満面の笑顔の両親が息子を出迎えたためである。


「おお、おお、ミハエル! まったくお前というヤツはどこにいってたんだ! 帰りが遅いじゃないか!」

「ご、ごめん、なさい。あ、ああ、えと、仕事が……」

「そうかそうか、いつもご苦労様だな。働き者の息子を持って俺も鼻が高いよ。ほら、疲れてるだろうから早く入れ」

「お兄ちゃん、おかえりなさい! ご飯できてるから、こっちに座って」


 気味が悪かった。

 父がこんな風にミハエルを出迎えてくれたことも、妹が自分を「お兄ちゃん」と呼んでくれたことはない。普段は「デブ」や「お前」で終わってしまうのだから、ミハエルはビクビクと震えながら家に入るのだが……。


「お待ちしておりました、ミハエル殿」


 ぽかんと間抜け面を晒して立ちすくんだ。

 なぜなら家に不釣り合いなほどの立派な風体の騎士がそこに佇んでいて、自分を見るなり恭しく頭を下げたからだ。これはいったい何の夢か、声も出ないミハエルに騎士は微笑む。


「このような時間に急に押しかけてしまったこと、深くお詫びいたします。私はヴァルター・クルト・リューベック。オルレンドル帝国騎士の者です」


 自分には縁のない遠い世界の人だが、このオルレンドルに住んでいて彼らを知らない人などいない。とくに身に纏う外套の留め具や剣帯の立派さといったら、それだけでミハエルの給料何ヶ月分を必要とするか知れやしない。

 明らかな貴族の登場に母はうっとりと瞳を潤ませ、普段酒瓶を持つ手は頬に添えられている。


「ほらほら、なにをぼうっとしている。リューベック様がお越しくださったんだ、お前も早くお礼を……」

「いいえそれには及ばない。それに礼を申し上げねばならないのは私の方だ」

「は?」


 リューベック氏はミハエルの前に跪いた。

 もちろんミハエルはこんな貴族を助けた覚えがないが、リューベックなる騎士はミハエルの普段の行いを称えた。

 そのうえ渡されたのはある招待状だ。

 記載された名前を見てミハエルはひっくりかえった。


「こ、こここ、こ、こう……!?」

「はい。今度行われる皇帝陛下の誕生祭。その前祝いへの招待状になります」

「な、なっなっなっな」

「無論、陛下からのご厚意にございますれば、ミハエル殿には是非とも出席いただきたい」


 家族の誰もがひっくりかえった。たとえ市民の参加が許されている皇帝陛下の誕生祭でも、彼らみたいに貧しい者には無縁の催しになる。

 その上、リューベックは一生掛かっても稼ぎきれない大金を渡してきた。そして自らの従士を紹介しこう言った。


「誕生祭に向け支度を整えてもらいたいが、失礼ながらこういった準備には不慣れな点があるとお見受けしています。彼は私が用意した者だが、困ったことがあればなんでも彼に相談していただきたい。必要な物はすべて整えてくれる」

「あ、ああ、は、ひ、ひゃ、ひゃい」


 呂律の回らないミハエルを微笑ましく見つめるリューベックは、少々の注意を告げると帰っていった。どうやら馬車は紹介された従士のものだったらしく、なんと彼は徒歩で帰路についたのである。

 見回りがてら、と微笑んでいたが、貧しい者が集うこの周辺で貴族が練り歩くのは敵意を買う行為に他ならない。それでも堂々たる態度で去る姿は畏敬の念を覚えさせた。

 まだ事態を理解できていないミハエルだが、そんな青年を正気に戻したのはリューベックの従士だ。

 宝石の山に顔を輝かせる両親や妹に、その人は言った。


「そちらの支度金は皇帝陛下より下賜されたミハエル様の資産にございますれば、ご家族におかれましては勝手に触れぬようお願い申し上げる」


 両親達が露骨に顔をむっとさせるが、相手は従士とはいえ貴族。しかも剣を下げているとなれば逆らうわけにもいかず、不満はミハエルに向く。

「お前がどうにかしろ」と告げているのは明らかだ。しかしミハエルがなにか言う前に、従士は先手を打った。


「ミハエル様、これも陛下の命を受けたリューベック様のご意思なれば、支度に関してはわたくしに一任していただきたい」

「で、でも」

「お言葉ですが、貴殿は宮廷に参上できるだけの仕立屋をご存知か」

「いえ、知らない、です……」

「そういった手続きを兼ねてわたくしにお任せいただきたいと申し上げている。無論、資産に関しては帳簿にしてお渡しするが如何か」

「じゃ、じゃあ、はい。お願いします……」

「承った。ではひとまずは相談したき話もありますので、わたくしに付いてきていただきたい」

「は、はひっ」


 眼鏡越しの眼光に逆らうなどできやしない。たとえ家族が目の前にいようとも、皇帝陛下の名前にはなにもかもが霞む。大体その家族だって強い者に逆らう勇気なんてない。だったらミハエルが逆らえる道理なんてありはしない。

 宝石の詰まった袋を持ち出す従士を恨めしげに見つめる家族達。

 言われるまま馬車に乗り込むと、馬が走り始めたところで従士は大きくため息を吐いた。


「な、なんでしょうかっ」

「……そうびくびくされずともよろしい。わたくしはリューベック様に命じられた仕事をするだけであって、貴殿に含むものなどない」

「は、はぁ……」

「が、貴殿のご家族はいささか問題がありますな。陛下が誰に支度金を譲渡したのか早くも忘れてしまったようだ」

「すみません……」

「貴殿の責任ではない。謝られても困る」

「……すみません」


 大きな身体を小さくするミハエルに、従士はまたため息をつく。

 それきり会話は途切れてしまい、馬車が停止するまでミハエルは唇を固く閉ざすしかなかった。

 連れて来られたのはある集合住宅だった。


「あの、ここは……」

「貴殿の家になる。三階の角部屋を用意させてもらった」

「え?」

「勝手ながらわたくしが手配した家です。一人暮らし用の住宅だが、住み心地や治安は良いはずだ。周辺状況についてはご自身で確認いただきたい」

「えあ」

「資産については公庫に預けるゆえ、当面の必要分だけをお渡しする。手続きについてはいずれお教えするので覚えてもらいたい」


 もはや従士に付いていくことしかできなかった。

 宣言通り部屋は三階の角部屋。一人暮らし用と従士はいったが、広い室内にバルコニー、家具まで揃っている部屋だ。おまけに一階には住人専用の風呂設備がある。


「こ、ここ、賃貸料高いんじゃ……ぼ、僕払えませんが」

「……ミハエル様がお持ちの資産であればつつがなく生活可能です。ひとまずの仮住宅ですので、気に入らなければまた別の所を契約していただければよろしいかと」

「そ、そうですね。はい。それであの、相談したい話とは……」

「ああ、それはまた今度にいたしましょう」

「へ」

「まずは皇帝陛下がミハエル様に賜ったこの招待状の意味をよくお考えになることが先決かと存じ上げる。今日はひとまずこちらの新しい住まいでゆっくり休まれると良い」

「え、あ、ま、待ってください!」

「……なにか?」

「名前を……。あの、僕はミハエルといってそれはご存知なのでしょうが……」

「スィセル、と申し上げる」

「スィセルさん。あ、ありがとうございます。それと……まだなにもわかっていないのですが、よろしくお願いします。そう言わないといけない気がしました」

「……どうも」


 頭を下げるミハエルにもスィセルはたいした反応を示さない。ぶっきらぼうな一言だけを残し引き上げてしまったが、そんなことすら気にならなかった。


「な、なんなんだこれは」


 現実なのかと頬をつねったら、しっかり痛い。

 果物やパンが積まれたテーブルを見て気付いた。部屋の鍵も置かれていたのだが、その下には紙が一枚敷かれている。

 紙には諸注意が記されており、今後の連絡方法や金の預け先までしっかり記されているのだ。他にも細かいことまできっちり記されており、そこではじめてミハエルはスィセルの意図に気付く。


「もしかしてあの人、僕をあの家から逃がしてくれたのか」


 これが花嫁と出会う一月前の出来事だった。




続きは2023/08/02発売の短篇集に書き下ろしとして収録しました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今度発売される短編集に、この続きが掲載されると知りました。発売が楽しみです。 あの時の会食に参列した半分は消息不明とのことですが、どうか彼にささやかでも幸せな未来が待っていますように。
[一言] 続きが気になっているのですが、もう出ないのでしょうか?
[良い点] お皿ひっくり返してくれた優しく勇気のあるお兄さん 大変な人生だったんだねぇ……
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